初恋が芽生えた日
デスソースでイタズラしたお詫びに俺の言う事を何でも一つ聞くといった浸地。汗が吹き出し、上半身に響き渡る電撃のような辛さで気が動転していた俺は、浸地に恋人になってくれと言ってから後悔したが、もう後戻りはできない。ここは漢らしく、想いをぶつけてやろうじゃねぇか。
「ちっちゃい頃からずっと好きなんだ。でも十年間も会えなくて、いつの間にか浸地はイタズラして俺を泣かす悪いヤツだって思い込むようになったんだけど、おととい再会して、今でも好きなんだって気付いた」
「…そう、なんだ」
突然の告白に頬を赤らめて動揺する浸地は、焦点が定まらず、下を向きながら目を右へ左へキョロキョロさせている。
俺はというと、いつも堂々としていて、イタズラをしてきたり、自分を引っ張っていってくれたり、時には包み込んでくれる彼女が動揺する姿を初めて見て、告白した時の緊張との相乗効果でそわそわしている。
俺が浸地を好きになったのは、可愛いからとか、今では美人だからとか、好みのタイプだからとか、それだけの理由ではない。幼い頃、浸地を好きになった時の事を、今でも鮮明に覚えている。
◇◇◇
小学一年生の夏休み、俺は福島県の湖畔にある母方の祖父母宅へ母親と弟との三人で遊びに来ていた。
家に冷房などなく、開放された廊下の窓から湖からの涼しい風が入るおかげで、30℃近い真夏にも拘わらず、それなりに快適だった。時々オニヤンマが入って、部屋を周回して再び出て行く姿がとても格好良くて、大きくて威風堂々(いふうどうどう)としたエメラルドグリーンの複眼と、黒と黄色の縞模様を目で追ったものだ。
そんなお茶の間の火燵で、俺は高校野球を見ながら宿題の作文を仕上げていた。
「で~きた!」
「そう、良かったわね」
傍らに居た母親が言った。
「読む?」
「お母さんは文字ばっかりなのは苦手だから遠慮しとく」
母親に自分で書いた作文を読むのを断られた俺は、どことなく寂しくて、気持ちがモヤモヤした。
「広視の作文見せて!」
そんな時、隣の家に遊びに来ている白いワンピース姿の六年生の女の子がこちらに遊びに来た。彼女こそ、これから俺の初恋の相手となる大甕浸地だ。浸地は家に上がり込むとすぐに原稿用紙を見付け、俺の書いた作文を要求してきた。
「えっ!? あっ…」
正直、俺は自分の書いた文章を母親に見せるのだって勇気を振り絞ったのだから、浸地に見られるのなんて、内容が内容なので恥ずかしさMAXだった。浸地はそんな俺の焦燥などお構いなしに三枚の原稿用紙を俺に有無を言わさず手に取って音読し始めた。
「 『なつやすみのおもいで』
一ねん三くみ いわしろ ひろし
なつやすみ、ぼくはふくしまけんにあるおばあちゃんの家に行きました。目の前には田んぼや、ふゆには、はくちょうがたくさんくる日本で三ばん目に大きいみずうみの、いなわしろこがある、とてもひろいところです。
…中略…
おばあちゃんと、きんじょのおねえちゃんといっしょにミニトマトをもぎました。みどり色のトマトは固くてへんなあじでした。
…中略…
きんじょのおねえちゃんに虫さんやかえるさんをくっつけられてこわかったけど、おねえちゃんは、虫さんとか、みずうみとか、のぐちひでよとか、色んなことをおしえてくれて、やさしかったです。ぼくも、やさしい人になりたいです」
音読中、俺は原稿用紙を取り上げようと何度か浸地に飛びかかったが、抵抗空しく全て交わされた。たまたま頬に当たった小さな胸のクッションにドキッとした事は内緒。
読み終えた浸地は、俺にこんな言葉をかけてくれた。
「私のこと書いてくれてありがとう。広視は今でも優しい子だよ。でも、もし悪い子になりそうになったら私を呼んでね。呼べなかったら私を思い出してね。世界が敵になっても、私が広視の逃げ場になったげる! だから何があっても、広視は今のままでいてね!」
浸地の表情や口調は、まるで天使だった。
幼かった俺は、浸地の言葉の意味がよく理解できなかった部分があったけど、それでも、どうせ自分のことなんか親も理解してくれないと思った矢先だから、余計に嬉しくて、胸が熱くなって鼓動が高鳴って、涙が溢れそうになるのを一所懸命堪えたのを覚えている。これが、俺が初恋を確信した瞬間だ。
浸地は俺のことを誰よりも理解している。理解しようとしてくれる。甘える一方の情けない俺を温かい懐で包み込んでくれる。だから、いつか大きくなって強くなったら、逆の立場になって、彼女を守ってあげるんじゃなくて、守りたいって思ったんだ。
ご覧いただき誠にありがとうございます。
今回のお話は、実際に福島県で風景を見ながら執筆しましたので、再現度は普段よりかなり高めとなっておりますが、実際の住民の方々とは関係ございません。