昼下がりの東海道線
烏帽子家のカエル騒動から一夜明けた午後、俺は地元の藤沢から電車で最速30分くらいの小田原という街に住む浸地の家に呼ばれ、最寄の藤沢駅からJR東海道線に揺られて移動中。
藤沢駅は東海道線の他に、東京都庁のある新宿や、藤沢市内の観光スポット、江ノ島へ伸びる小田急線のほか、隣町、鎌倉周辺の通勤、通学や観光電車として有名な江ノ電も乗り入れるターミナル駅で、周辺にはビックカメラや二つの大型デパートなどが立ち並ぶ、湘南で最も栄えている街だ。
浸地とは一昨日会ったばかりなのに、なんだか緊張する。楽しみなんだけど、胸が熱くて苦しい。たぶん夏のせいじゃない。冬でも同じか、逆に寒さでいま以上に熱くなりそう。
ドギマギしているうちに、電車は二つ隣の茅ヶ崎に到着した。ここは八王子方面へ向かうJR相模線の始発駅ということもあって利用者が多い。
茅ヶ崎は俺が通う学校のある街で、加山雄三さん、桑田佳祐さん、徳光和夫さん、宇宙飛行士の野口聡一さんほか、この街ゆかりの有名人は多い。
ちなみに俺が住む藤沢市はSMAP、中居正広さんの出身地。
茅ヶ崎市の夕方のチャイムとして採用されている童謡、『赤とんぼ』は市内在住の作曲家が東京へ向かう東海道線の車内で作曲したとされている。
東海道線は平日の昼間でも利用者が多く、1両あたりの定員160名に対し、座席は60名分しかない片側4ドア車は満席状態。
俺が座っている四人ボックスとドアの間にある二人掛けのロングシート、つまり線路と平行に配置されていて、窓や広告を背にする席の前に一人の老婆が立った。
「あの、良かったら座ってください」
「あらいいのよ。私は次の駅で降りるから。ありがとう。…あら? あなたもしかして、グンソクちゃん?」
グンソクちゃん? 確かつい最近そう呼ばれた記憶が…。ただし、俺はあの韓流スターには似ていない。
「あ、もしかして…」
「やっぱり! みるくだぉ♪ グンソクちゃんは何処さ行くべした?」
なんで東北弁なんだよ。もしかして東北出身なのか?
「小田原っす。今日、お姉さんは一緒じゃないんすか?」
このお婆さん、一昨日のボランティアの帰りに浸地と寄った銭湯で俺のチェリーを摘み取ろうとした危ない姉妹の妹の方だ。詳しくは第一、ニ話参照。
「今日はいちごたんとは一緒じゃないキュン♪」
「そうなんすか…」
昔のドラえもんみたいな声ではしゃぐみるくさん。年齢と口調のギャップに寒気を感じている俺は思わず口篭ってしまう。やっぱ年齢考えて言葉選ばなアカン。
「やっぱり席に座りたくなったぉ♪」
なんだよ、もう相模川渡ったし、平塚着くぞ。
相模川、別名、馬入川とも呼ばれる川は、茅ヶ崎市と平塚市の境界にある、宇宙からも見えるくらい幅の広い川である。川幅は多分100メートルくらい。
「まもなく、平塚、ひらつか、お出口は、左側です。The next station is Hiratsuka.The doors on the left side will open」
電車の自動放送が次の駅が近付いていることを告げた。
「あ、もう着いちゃいますね」
「いいんだぉ! 座席に残るグンソクちゃんの温もりを感じたいんだぉ!」
ひぃぃぃっ! やめてくれぇぇぇ! 身の毛が弥立つ!
「いや、もうスピード落としてるし、ブレーキかけてる時に動いたり座ろうとすると危ないですよ」
「ちょっと皆さん! ここの若者、私に席を譲ってくれるって言ったのに、やっぱり譲らないって言いましたよ! 期待させておいてどん底に突き落とす冷酷非情な若者がここにいますよー!」
どうしても座りたいのか、みるくさんは同じ車両に80人くらい居るであろう乗客たちに大声で呼びかけた。車内の視線が一斉に集中する。隣に座っている若い女性は凄く迷惑そうに俺たちを睨んでいる。
「わかりましたよ! はいどうぞ座って下さい!」
根負けして席を譲ったところで、電車はみるくさんが降りる平塚駅に到着した。
平塚は七夕祭りが有名な街で、大量のワカメが入った酸っぱい湯麺が名物なんだとか。
「あら残念、着いちゃったわ。またね、グンソクちゃん♪」
「はいさようなら」
みるくさんが降りて、同じ車両に留まるのが恥ずかしくなった俺は耐え兼ねて隣の車両へ移動した。
ぐぁ~、みるくさんの相手してたら一気に疲れた。
俺は着席すると、そのまま座席に吸い込まれるようにぐったりと眠りに落ちた。もちろん脚を広げて他の人の迷惑にならないよう配慮しながら。
◇◇◇
ん…。なんだ? いま寝そべってる所、白鳥橋の脇にある斜面になった草むらか? 磐梯山がよく見える。
あぁそうか、これは夢だ。というよりは、小学一年生の頃の記憶が夢になって甦ってるんだ。
白鳥橋とは、福島県の猪苗代湖に流れ込む中くらいの幅の川に架かるコンクリートの橋だ。
「広視、人生の三種の神器、教えてあげる」
右隣に寝そべっていた白いワンピースを着た小学六年生の浸地が言った。
真夏の風が浸地の長くて綺麗な黒髪を揺らし、横に走るサイクリングロードの斜め向かいで柳の木がざわざわ音をたてて、無数の蝉たちと合唱している。
「三種の神器?」
「簡単に言えば、必ずなきゃいけない三つのものだよ」
「ふぅん。で、何がなきゃいけないの?」
ここからが大事な内容だったのだが、この後、ウシガエルで顔面パンチされた時のインパクトが強過ぎてよく覚えていない。
ただ、確かに覚えているのは、イタズラ好きでトラウマをいっぱい作ってくれた、夏休みに福島に行けばいつも一緒に遊んでくれた、そんな悪ガキ浸地を遠くに感じたこと。それはシンプルで、俺がタバコも吸わずにグレないでやっていられるのは、浸地のあの言葉があったからなのかもしれない。
なんだか作品舞台の紹介みたいになってしまいました。東海道線(正式には東海道本線)は東京から横浜、名古屋、京都、大阪を経由して神戸まで続く日本の大動脈のひとつです。地域によって、京都線や神戸線などとも呼ばれています。