没落貴族に嫁いで人生を失敗した私、やり直したので今度は王太子を狙います
私はずっと、貴族になりたかった。
正確に言えば、貴族の妻になりたかった。
王都から馬車で3日ほど離れた小さな農村で生まれた私にとって、貴族とは絵本の中の住人とほとんど同じだった。
大きなお屋敷に住み、美しいドレスを着る。
昼になれば庭園でお茶を飲み、夜になれば宝石を身につけて舞踏会へ出かける。
幼い頃の私は、本気でそんな生活を夢見ていた。
「リゼットは本当に綺麗な子ねえ」
「こんな村に置いておくのがもったいないよ」
物心ついた頃から、そんなことを言われ続けて育った。
淡い金色の髪に、母譲りの青い瞳。
自分で言うのもどうかと思うけれど、私は昔から村一番の美人で通っていた。
市場へ行けば知らない商人に声をかけられ、収穫祭では毎年のように若い男たちが私と踊る順番を争った。
だから私は信じていた。
この顔があれば、ここではない場所へ行ける。
畑を耕し、泥だらけになり、冬が近づくたびに食料の残りを数える。
そんな生活から抜け出せるのだと。
そして18歳の春。
私の夢は、本当に叶った。
領地の視察に来ていた貴族の青年、アルベルト・グランディール子爵に見初められたのだ。
背が高く、整った顔立ちをしていて、着ている服も村の男たちとは比べものにならないほど上等だった。
何より彼は、私の手を取ってこう言った。
「君のような美しい女性を、この村に埋もれさせておくのは惜しい」
あの瞬間の胸の高鳴りを、私は今でも覚えている。
これだと思った。
私がずっと待っていた人生が、ようやく始まるのだと。
両親は最初こそ心配していたけれど、最後には泣いて喜んでくれた。
村中の人に祝われ、新しいドレスを着て、私はアルベルトの馬車に乗った。
窓の向こうで小さくなっていく畑を眺めながら、心の中で思った。
もう戻らない。
私はこれから、貴族として生きるのだから。
――そう思っていた。
◇
あれから5年。
「奥様」
朝。
まだ目を開けたくない私の耳元で、年老いた侍女の声がした。
「なんでしょう……」
「申し上げにくいのですが」
「聞きたくありません」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「あなたがその声を出す時は、大体お金の話でしょう?」
沈黙。
当たりだった。
「パン屋から、先月分のお支払いをお願いしたいと」
「……いくら?」
「銀貨17枚です」
私は布団を頭までかぶった。
「あとにして」
「すでに3度、あとにしていただいております」
「なら4度目も大丈夫よ」
「昨日、パン屋の主人が直接いらっしゃいました」
「居留守を使って」
「今、玄関にいらっしゃいます」
私は勢いよく布団を剥いだ。
「今!?」
「はい」
貴族の朝は優雅だ。
そんなことを考えていた時期が、私にもあった。
現実は違う。
起きて最初にすることは、請求書との戦いだった。
グランディール子爵家。
響きだけを聞けば立派なものだ。
300年以上続く家柄で、王家から賜った紋章もある。
屋敷だって大きい。
ただし、雨漏りする。
領地もある。
ただし、収入は少ない。
使用人もいる。
昔は30人ほどいたらしい。
今は5人。
馬車もある。
馬が1頭しかいないので、坂道では私が降りる。
そして何より。
「アルベルトは?」
「旦那様でしたら、昨夜遅くにお戻りになりました」
「また賭場?」
「おそらく」
「……殺していい?」
「奥様」
「冗談よ」
半分は。
結婚してから分かったことだが、この家は私が嫁いでくるずっと前から傾いていた。
先代から続く借金。
抵当に入った農地。
払いきれない屋敷の修繕費。
それでも夫は、貴族としての体面だけは捨てようとしなかった。
舞踏会には行く。
酒も飲む。
新しい服も仕立てる。
貴族仲間との付き合いも欠かさない。
金がないのに。
そして、その穴を埋めるのがいつしか私の仕事になった。
私は農村育ちだ。
結婚するまで帳簿などまともに見たこともなかった。
けれど必要に迫られれば覚える。
領地から上がる小麦の量。
税。
使用人の給金。
借金の利息。
屋敷の修繕費。
気がつけば私は、下手な貴族令嬢より家政に詳しくなっていた。
ついでに社交界にも詳しくなった。
誰と誰が仲がいい。
誰と誰が敵対している。
どの伯爵が国王派で、どの侯爵が宰相派か。
表では犬猿の仲の2人の夫人が、実は毎週こっそりお茶を飲んでいることまで知っている。
貧乏貴族の妻というのは、嫌でも人間関係に敏感になる。
誰に頭を下げれば支払いを待ってもらえるのか。
誰に頼めば仕事を融通してもらえるのか。
誰を怒らせれば、二度と舞踏会に呼ばれなくなるのか。
生きるために覚えた。
そんな知識ばかりが増えていった。
その日の昼。
ようやく起きてきた夫は、何事もなかったように食卓についた。
「リゼット。今日は肉はないのか?」
「ありません」
「昨日も魚だっただろう」
「あなたが先週、銀貨50枚を使わなければあったかもしれませんね」
アルベルトの手が止まった。
「あれは必要な付き合いだ」
「賭場が?」
「貴族には人脈が必要なんだ」
「素晴らしい人脈ですこと。銀貨50枚払えば作れるのですね」
「嫌味を言うな」
どちらが。
私はパンをちぎりながら深いため息をついた。
こんなはずではなかった。
本当に、こんなはずでは。
「そういえば」
アルベルトが言った。
「来月、王都で大きな舞踏会がある」
「行きません」
「まだ何も言っていない」
「新しいドレスは買えません」
「去年のものがあるだろう」
「袖が破れています」
「母上の宝石を使えば」
「先月売りました」
「何?」
「あなたの借金を返すために」
アルベルトが黙った。
私はまた、ため息をついた。
◇
その夜。
私は1人で帳簿を抱え、階段を上っていた。
手元の紙には数字が並んでいる。
どう計算しても赤字だった。
「パン代が銀貨17枚……薪が23枚……来月は税も……」
頭が痛い。
ふと、子供の頃を思い出した。
夕暮れの畑。
土の匂い。
父が鍬を担ぎ、母が家から私を呼ぶ声。
あの頃の私は、あんな暮らしが嫌で仕方なかった。
毎日同じ畑。
泥だらけの靴。
粗末な食事。
でも。
「……少なくとも借金はなかったわね」
今なら分かる。
父と母は貧しくても、持っている金以上の暮らしはしなかった。
冬に必要な薪の量も。
翌年に播く種の量も。
全部、自分たちで考えていた。
なのに私は。
貴族という肩書きだけを見て結婚した。
あの時、少しでも調べていれば。
グランディール家がどんな状態なのか。
アルベルトがどんな男なのか。
社交界の噂を知っていれば。
「……人生、間違えたなあ」
呟きながら階段を上る。
その時だった。
帳簿から落ちた紙を踏んだ。
「あ」
身体が傾く。
咄嗟に手すりへ手を伸ばしたけれど、指先は空を切った。
「うそ」
次の瞬間。
身体が階段から投げ出された。
視界が回る。
頭に強い衝撃。
そして。
世界が暗くなった。
◇
土の匂いがした。
「……ん」
暖かい。
頬に風が当たっている。
どこかで鳥の声が聞こえた。
目を開けると、そこには青い空があった。
「……外?」
身体を起こす。
目の前には、一面の畑。
風に揺れる麦。
遠くには古い風車。
見覚えがあった。
いや。
忘れるはずがない。
「リゼットー!」
遠くから声がした。
心臓が止まりそうになった。
「いつまでぼーっとしてるの! お父さんを手伝いなさい!」
母の声だった。
若い。
私が子供だった頃の母だ。
私は震える手で自分の頬に触れた。
手が若い。
細い。
着ているのも、昔の粗末な麻の服。
「……戻ってる?」
家へ駆け戻り、鏡を見る。
そこにいたのは15歳の私だった。
アルベルトと出会う3年前。
「3年……」
私は鏡の中の自分を見つめた。
今の私は、以前の15歳とは違う。
私は知っている。
どの家が没落するのか。
どの家が成り上がるのか。
誰が数年後に権力を握るのか。
誰が王太子の側近になるのか。
誰と誰が表では争い、裏では手を結んでいるのか。
そして何より。
爵位だけで男を選んではいけない。
「……よし」
今度こそ失敗しない。
借金持ちは嫌。
遊び人も嫌。
将来没落する家も嫌。
確実に裕福で。
地位があって。
簡単には潰れない男。
そこまで考えたところで。
1人の顔が浮かんだ。
「……王太子」
口にしてから、自分で笑ってしまった。
農村の娘が何を言っているのだろう。
でも。
この国で最も没落する可能性が低い男を選べと言われれば。
間違いなく王太子だ。
「狙うなら、一番上でしょう」
ただし。
王太子を追いかけるつもりはない。
美しい女性なら、王太子の周囲にはいくらでもいる。
公爵令嬢。
侯爵令嬢。
外国の王女。
家柄も教育も財産も、今の私とは比べものにならない。
美貌だけで勝てる世界ではない。
それは1度目の人生で嫌というほど学んだ。
なら。
王太子を追うのではなく。
王太子の方から、妻にしたいと思う女性になればいい。
翌朝。
私は薄い木板と炭を用意した。
そこに3つ書く。
男を追わない。
簡単に婚約しない。
将来重要になる人物との縁を作る。
「私は高嶺の花になる」
「何が?」
いつの間にか背後にいた母が聞いてきた。
「何でもない」
「畑を手伝ってね」
「はい」
王太子妃への道は。
まず畑仕事から始まった。
最初に会うべき人間は決まっていた。
セドリック・アルヴェイン。
後に王太子の右腕となり、宰相候補とまで呼ばれる男。
今はまだ、地方役人の補佐にすぎない。
けれど私は、彼が出世するきっかけを知っていた。
大雨による橋の崩落。
穀物を王都へ運べなくなったこの地方で、セドリックが迂回路を見つけ、被害を最小限に抑える。
その報告書が王都で評価され、彼は少しずつ出世していくのだ。
そして。
橋が落ちるのは3日後だった。
◇
「橋を調べてほしい?」
村長は怪訝そうな顔をした。
70歳近い老人で、私が生まれた頃からこの村をまとめている。
「はい。東側の橋脚が少し削れていました」
「前からあんなものだろう」
「でも、西の山に雲が出ています」
「雨くらい降る」
「大雨になったら?」
村長が眉を寄せる。
「リゼット。お前はいつから橋の専門家になったんだ」
「畑をやっていれば、水は気にしますから」
半分は本当だ。
未来を知っているから確認したのだが、橋脚の周囲は実際かなり削れていた。
「もし橋が落ちたら、今年の麦を街へ運べなくなります」
その言葉に村長の表情が変わった。
自分の家の話ではない。
村全体の損失にする。
貴族社会で5年生きて覚えたことの1つだ。
誰かを動かしたいなら、その人にとって動く理由を用意する。
「……一応、見ておくか」
「お願いします」
私は深く頭を下げた。
2日後。
雨が降った。
夕方には、屋根を叩く音で会話が聞こえないほどの大雨になった。
村長は前日から橋を封鎖していた。
そして翌朝。
轟音とともに橋が落ちた。
濁った川へ、木材が次々と流されていく。
ただし。
犠牲者は1人もいなかった。
「本当に落ちた……」
隣で父が呆然としている。
「リゼット」
「何?」
「お前、本当に橋を見ただけで分かったのか?」
「たまたまよ」
「たまたまねえ……」
父は納得していない顔だった。
私は濁流へ視線を戻した。
未来を知る人間に必要なのは、予言者になることではない。
少し勘のいい人間になることだ。
そのくらいなら、誰にも怪しまれない。
そして、その日の夕方。
未来の王太子の右腕が村へやってきた。
◇
泥だらけの馬。
雨避けの外套。
年配の役人と、その後ろに続く若い男たち。
その中で、私はすぐに1人を見つけた。
黒髪。
灰色の瞳。
まだ20歳そこそこだろう。
後に王国中の貴族が顔色を窺う男とは思えないほど、質素な格好をしている。
セドリック・アルヴェイン。
「幸い、人的被害はありませんでした」
村長が説明する。
「崩れる前日から橋を封鎖しておりまして」
「前日から?」
セドリックが口を開いた。
「危険を把握していたのですか?」
村長がこちらを見る。
「この娘が気づきましてな」
セドリックの視線が私へ向いた。
「君が?」
「はい」
「どうして分かった?」
「今年は雪解け水が多かったので、川底がかなり削れていました。雨が続けば危ないかもしれないと思っただけです」
セドリックは崩れた橋と私を交互に見る。
「名前は?」
「リゼットです」
「家名は?」
「ありません」
「平民か」
「はい」
私は頭を下げる。
これで十分。
まずは名前を覚えてもらえればいい。
けれど。
もう1つだけ、やっておきたいことがあった。
「アルヴェイン様」
「何だ?」
「穀物を運びたいのでしたら、森の南側に古い道があります」
「古い道?」
「今はほとんど使われていません。でも木をいくつか切れば、南街道まで馬車を通せます」
セドリックの表情が変わった。
「案内できるか?」
「もちろんです」
本来。
彼がその道を見つけるのは3日後だった。
でも。
3日も待つ必要はない。
◇
古い道は、子供の頃に父と何度も通ったことがあった。
森の中へ入り、獣道のようになっている場所をしばらく進む。
「本当にこちらか?」
後ろからセドリックが尋ねた。
「はい。この先です」
「随分詳しいな」
「子供の頃、父と山菜を採りに来ていましたから」
少し進むと、木々の向こうに広い道が見えてきた。
南街道だ。
セドリックが足を止める。
「……本当に繋がっている」
「言ったでしょう?」
「ああ」
彼は道を眺めながら、何かを考えていた。
「ここを整備すれば、荷馬車も通せそうだ」
「大きな木を数本切る必要はありますけど」
「十分だ」
セドリックが私を見る。
「助かった」
「いえ」
「君は面白いな」
「よく言われます」
「そうなのか?」
「今初めて言われました」
一瞬。
セドリックが黙る。
それから、小さく笑った。
「なるほど」
悪い印象ではなさそうだ。
それでいい。
私は未来の王太子の右腕へ、最初の縁を作った。
◇
そこから。
未来が少しずつ変わり始めた。
セドリックの報告は予定より早く王都へ届き、穀物の輸送もほとんど止まらずに済んだ。
村には領主から褒賞が出た。
その報告の中に、私の名前も記録された。
翌年。
この地方を凶作が襲うことを私は知っていた。
私は父と村長に、麦だけではなく豆や根菜を増やすよう勧めた。
「去年の橋の件がありますから」
その一言で、今度は素直に聞いてもらえた。
予想通り、凶作はやってきた。
周囲の村が食料不足に苦しむ中、私たちの村だけは比較的被害が少なかった。
余った豆を隣村へ回すこともできた。
翌年も。
私は少しだけ未来の知識を使った。
ただし。
何でも当てようとはしなかった。
あくまで。
よく畑を見ている娘。
少し頭の回る娘。
それでいい。
未来を知っていると気づかれてはいけない。
16歳になる頃には、近隣で妙な噂が流れていた。
――あの村には、とても美しくて頭の切れる娘がいる。
そして17歳の春。
その噂は王都まで届いた。
◇
「久しぶりだな」
王都で再会したセドリックは、以前とは別人のようになっていた。
仕立てのいい服。
胸には王宮で働く者だけが許される徽章。
すでに王太子付きの政務官となっている。
「随分出世なさいましたね」
「君に言われると嫌味に聞こえるな」
「そんなつもりはありません」
「橋が落ちる前に危険を言い当て、3日かかるはずだった迂回路をその日のうちに見つけさせた人間に言われるとな」
「全部、偶然です」
「君の偶然は便利だな」
私は笑って誤魔化した。
「今日はなぜ私を王都へ?」
「農村の話を聞きたい方がいる」
「どなたです?」
「会えば分かる」
嫌な予感がした。
そして。
その予感は、当たった。
◇
案内された部屋にいたのは、1人の青年だった。
濃い金髪。
整った顔立ち。
青灰色の瞳。
服装は派手ではない。
けれど一目で上質だと分かる。
私は前の人生で何度も遠くから見ていた。
エドワード王太子。
未来の国王。
そして。
今回の人生で、私が狙っている男。
心臓が跳ねた。
でも。
顔には出さない。
「リゼットと申します」
深く頭を下げた。
「顔を上げてくれ」
その声も覚えていた。
「君が例の農村の娘か」
「例が何を指しているか分かりませんが、おそらく私かと」
エドワードが笑った。
「セドリックから聞いている。橋の被害を防ぎ、凶作にも備えたそうだな」
「橋は落ちました」
「人は守った」
「運が良かっただけです」
「随分謙虚だな」
違う。
未来を知っていただけだ。
エドワードは机の上に地図を広げた。
「北部について聞きたい」
指が1つの地域を示す。
「来年、この辺りの収穫が危ないという報告がある」
知っている。
前の人生。
この地方では翌年、深刻な食料不足が起きた。
「麦だけに頼りすぎています」
「というと?」
「この辺りは土が痩せています。麦の収量が落ちれば、一気に食べる物がなくなります。豆と蕪を増やした方がいいです」
「農民は従うだろうか」
「命令すれば反発します」
「では?」
「作物を変えた農家の税を、最初の1年だけ軽くしてください」
エドワードが眉を上げた。
「税を?」
「はい。得になると分かれば、自分から変える農家が出ます」
「なるほど」
彼はしばらく地図を見つめていた。
「面白いな」
「何がでしょう?」
「王宮に来る女性は、私に国の話をしない」
「では何を?」
「服か、舞踏会か、私自身の話だ」
「それは殿下が王太子だからでしょう」
「君は違うのか?」
私は少し考えた。
「私は畑の方が気になります」
エドワードは声を出して笑った。
◇
話が終わり、私は地図から手を離した。
「今日は助かった」
「お役に立てたのでしたら何よりです」
頭を下げようとした時。
エドワードの視線が、私の手元で止まった。
「その手」
「……手?」
見ると、右手の人差し指に小さな傷がある。
王都へ来る前日まで、畑を手伝っていたせいだ。
「失礼いたしました。お見苦しいものを」
反射的に手を隠そうとすると、エドワードは不思議そうな顔をした。
「なぜ隠す?」
「王宮へ来る女性の手ではありませんから」
「そうか?」
彼は私の手を見る。
「私は好きだが」
「……はい?」
「働いてきた手なのだろう?」
思わず、彼の顔を見た。
「君がさっき話していたことが、机の上で覚えた知識ではないと分かる」
エドワードはそう言って笑った。
「その方が、私は信用できる」
胸の奥が。
ほんの少しだけ揺れた。
美しいと言われたことなら、何度もある。
髪も。
目も。
顔も。
けれど。
土に触れてきた手を褒められたのは、初めてだった。
◇
リゼットが部屋を出ていった後も、エドワードはしばらく閉じた扉を見ていた。
「珍しいですね」
向かいにいたセドリックが言う。
「何がだ?」
「殿下が女性の退室した扉を、いつまでも眺めていることが」
「眺めてなどいない」
「では、何を?」
エドワードは答えず、先ほどまでリゼットが指を置いていた地図を見る。
不思議な娘だった。
王宮に招かれた若い女性は、大抵もっと緊張する。
まして相手が王太子なら、どうにか好印象を残そうとするものだ。
だが彼女は違った。
麦。
豆。
蕪。
税。
最後まで、ほとんど畑の話しかしていない。
「本当に農民なのか?」
「少なくとも、数年前までは普通に畑仕事をしていた娘ですよ」
「そうか」
エドワードは彼女の手を思い出した。
美しい顔立ちとは不釣り合いな、小さな傷のある指。
それを恥ずかしそうに隠そうとした表情まで、妙に印象に残っている。
「また呼んでくれ」
「農政についてですか?」
「当然だ」
即答すると、セドリックの口元が少し上がった。
「何だ?」
「いえ。もちろん、農政についてですよね」
「そう言っただろう」
次に彼女が王宮へ来るのはいつなのか。
そのことを考えている自分に。
エドワードはまだ、気づいていなかった。
王都へ出入りするようになってから、私はエドワード以外の人間との繋がりも少しずつ増やしていった。
むしろ。
王太子妃を本気で目指すなら、そちらの方が重要だった。
前の人生で学んだことがある。
社交界を動かしているのは、爵位を持つ男たちだけではない。
夫人たちだ。
誰を茶会に呼ぶのか。
どの家と付き合うのか。
どの令嬢を「感じのいい子」と評価するのか。
そういう小さな積み重ねが、やがて社交界での評判になる。
その中でも、絶対に押さえておきたい人物がいた。
クラリッサ公爵夫人。
エドワードの叔母にあたり、王家の女性たちの中でも特に発言力が強い。
王太子妃候補を選ぶ時にも、彼女の意見は無視できない。
そして私は。
彼女がどういう女性なのかを知っていた。
華美な令嬢が嫌い。
見栄を張る女性も嫌い。
高価な物を持っていることより、自分で何かを身につけている女性を好む。
前の人生で、一度だけ彼女の茶会に出たことがあった。
その時に聞いた言葉を、私は今でも覚えている。
『宝石を見せびらかす暇があるなら、刺繍の1つでも覚えればいいのよ』
だから。
初めてクラリッサ公爵夫人の茶会へ招かれた日。
私は高価な贈り物を持っていかなかった。
「これは?」
夫人が、私の持参した布を広げる。
「私の村の女性たちが作った刺繍です」
「あなた自身は?」
「この端だけです」
夫人の指が、布の端をなぞる。
「……下手ね」
「はい」
即答した。
夫人が顔を上げる。
「普通はもう少し言い訳するものよ」
「下手なものは下手ですから」
「では、なぜ自分で刺したの?」
「何もしていない物を、自分からの贈り物ですと言うのは少し違う気がしたので」
数秒。
クラリッサ公爵夫人は私を見つめた。
まずかっただろうか。
そう思った直後。
夫人が吹き出した。
「あなた、面白いわね」
「よく言われます」
「誰に?」
「最近ですと、王太子殿下に」
「あら」
夫人の目がわずかに細くなる。
「エドワードに?」
しまった。
余計なことを言ったかもしれない。
「農政についてお話しする機会をいただきまして」
「農政?」
「はい」
「あなた、エドワードと何を話しているの?」
「麦と豆と蕪です」
一瞬。
夫人が黙った。
それから。
「本当に面白い子ね」
今度は声を上げて笑った。
どうやら。
悪くはなかったらしい。
◇
クラリッサ公爵夫人に気に入られたことで、私を取り巻く環境は大きく変わった。
『リゼットなら呼んでもいいでしょう』
そんな言葉が、王都の夫人たちの間で聞かれるようになった。
茶会への招待状が増える。
夜会にも呼ばれる。
これまでなら、平民の娘というだけで入れなかった場所にも顔を出せるようになった。
そして。
当然のように、求婚話も増えた。
男爵家の嫡男。
伯爵家の次男。
侯爵家の遠縁。
前の人生の私なら。
どれか1つでも話が来れば、大喜びしただろう。
けれど今は。
「ありがたいお話ですが、まだ結婚は考えておりません」
全部断った。
「本当に?」
ある日の茶会。
クラリッサ公爵夫人が呆れたように言った。
「あなた、昨日も伯爵家からの縁談を断ったのでしょう?」
「はい」
「随分条件のいい家よ」
「そうですね」
「ではなぜ?」
私は紅茶を一口飲んだ。
「まだ、結婚したいと思える方ではありませんでしたので」
「あなた……意外と欲張りね」
「一度しか結婚できないのであれば、欲張ってもいいかと」
本当は。
一度ではなかったのだけれど。
それは言えない。
「それに」
私は笑う。
「焦って決めると、後悔する気がするんです」
「まるで経験者みたいに言うのね」
「……勘です」
危ない。
クラリッサ公爵夫人は妙に勘が鋭い。
私は慌てて紅茶を飲んだ。
けれど。
その甲斐はあった。
少しずつ。
王都ではこんな噂が流れ始めた。
――あれほど美しいのに、誰にもなびかない。
――一体誰なら彼女を射止められるのか。
狙い通りだった。
高嶺の花は。
自分で作るものなのだ。
◇
そんなある日。
「今度の舞踏会、私と最初の曲を踊らないか?」
王宮の庭園を歩いていた時。
突然エドワードに言われた。
私は危うく立ち止まりそうになった。
来た。
とうとう来た。
王太子から、舞踏会へのお誘い。
しかも最初の曲。
舞踏会において最初の一曲を誰と踊るかは、かなり意味がある。
まして王太子。
その相手が誰なのか。
社交界中の人間が見る。
前の人生の私なら。
その場で飛び上がって喜んでいただろう。
でも。
私は一度考えた。
「申し訳ありません」
エドワードの表情が止まった。
「……断るのか?」
「その日は父と約束があります」
「私より父君を?」
「先にした約束ですので」
沈黙。
しまった。
少しやりすぎただろうか。
王太子を追わない。
簡単になびかない。
それは確かに私の戦略だった。
でも。
父との約束があるのも本当だ。
久しぶりに王都まで来る父を案内すると約束していた。
「申し訳ございません」
私は頭を下げる。
しばらく黙っていたエドワードが。
やがて小さく笑った。
「そうか」
「……怒っていらっしゃいます?」
「いや」
「本当に?」
「ああ」
むしろ。
どこか楽しそうだった。
「ますます君が分からなくなった」
「どういう意味でしょう?」
「そのままの意味だ」
結局。
エドワードはそれ以上何も言わなかった。
私は微笑みながら頭を下げた。
背中には、冷や汗をかいていた。
◇
部屋へ戻ってから。
私は枕へ顔を埋めた。
「王太子の誘い、断っちゃった……」
冷静になってみると。
とんでもないことをした気がしてきた。
最初の曲。
王太子から。
しかも向こうから誘ってくれた。
それを。
『父と約束があるので』
で断った。
「高嶺の花って、こんなに怖いの?」
誰も教えてくれなかった。
◇
エドワードは執務室へ戻るなり。
「断られた」
と呟いた。
向かいで書類を確認していたセドリックが顔を上げる。
「何をです?」
「舞踏会だ」
「誰に?」
「リゼットに」
セドリックの手が止まった。
「……殿下が?」
「ああ」
「舞踏会へ女性を誘って?」
「ああ」
「断られたと?」
「何度言わせる」
セドリックが露骨に顔を背ける。
「笑いたければ笑え」
「そのような不敬なことは」
「肩が揺れているぞ」
「気のせいです」
「こっちを向け」
「仕事中ですので」
腹立たしい。
しかし。
妙なことに。
リゼット本人にはまったく腹が立っていなかった。
『父と先に約束があります』
あの言葉を思い出す。
もし。
あれが別の男との約束だったら。
自分は同じ気持ちだっただろうか。
そこまで考えて。
エドワードは眉を寄せた。
「……他の男」
「どうされました?」
「いや」
最近。
リゼットには求婚が増えている。
その話は、嫌でも耳に入ってくる。
男爵家。
伯爵家。
侯爵家。
ただし。
全部断っている。
それを聞くたびに。
なぜか安心している自分がいた。
「セドリック」
「はい」
「リゼットは、なぜ結婚しないと思う?」
セドリックがゆっくり顔を上げた。
「私に聞きますか?」
「昔から知っているだろう」
「殿下より数年長い程度ですが」
「何か聞いていないか?」
「聞いていたとしても、女性の結婚観を勝手に話すわけにはいきません」
「……そうか」
エドワードは書類へ視線を戻す。
だが。
文字がまるで頭に入ってこなかった。
なぜ誰とも結婚しないのか。
どんな男なら選ぶのか。
そればかりが気になる。
「殿下」
「なんだ?」
「かなり重症だと思いますよ」
「何がだ」
「お気になさらず」
その日の夕方。
エドワードは王都で評判の茶葉を用意させた。
リゼットの父へ贈るために。
――次に誘う時くらいは。
父親に負けたくなかった。
◇
数日後。
王宮を訪れた私に、エドワードが小さな包みを差し出した。
「これは?」
「父君へ」
「父に?」
包みを開く。
中には、王都でも有名な上等の茶葉が入っていた。
私ですら知っている品だ。
「どうして?」
「先日は、私のせいで娘との時間を奪うところだったからな」
私は顔を上げた。
「……覚えていらしたのですか?」
「君に断られた理由くらいは覚えている」
何でもないことのように言う。
「父君は茶を飲むのだろう?」
「好きですけど……」
「では渡してくれ」
私は包みを見る。
王太子からすれば。
地方で畑を耕している父など、覚える必要もない相手だ。
なのに。
「殿下」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
自分でも驚くほど。
素直な声が出た。
エドワードが少し目を丸くする。
「どうした。今日は随分素直だな」
「返してください」
「嫌だ」
彼が茶葉を背中へ隠した。
「冗談です!」
思わず手を伸ばす。
その瞬間。
距離が近づいた。
「……」
「……」
思っていたより。
ずっと近くにエドワードの顔がある。
青灰色の瞳。
長い睫毛。
思わず。
息を止めた。
エドワードも何も言わない。
私は慌てて一歩下がった。
「と、とにかく父には渡しておきます」
「ああ」
エドワードは笑っていた。
その日から。
王宮へ向かう馬車の中で。
私は少しだけ。
鏡を見る回数が増えた。
◇
翌年。
予想していた北部の凶作が現実になった。
ただし。
前の人生とは違う。
作物の転換はある程度進んでいる。
備蓄も増やしてある。
それでも。
すべてが順調に進むわけではなかった。
食料が足りない村。
輸送用の馬車が足りない地域。
税を減らさなければ冬を越せない場所。
王宮では連日。
対応についての会議が続いた。
私も。
農村の実情を知る人間として、何度か呼ばれた。
ある夜。
かなり遅い時間まで仕事が続き。
気がつけば。
執務室には私とエドワードだけが残っていた。
北部へ送る穀物の一覧。
馬車の数。
税を免除する村。
机の上には書類が積み上がっている。
「殿下」
「なんだ?」
「もうお休みになった方が」
「君も起きているだろう」
「私は王太子ではありませんので」
「便利な言葉だな、それは」
エドワードが苦笑する。
その顔には明らかな疲れが浮かんでいた。
いつもなら綺麗に整えられている金髪も。
今日は少し乱れている。
私はしばらく彼の横顔を見た。
「どうして、そこまでなさるのです?」
「何が?」
「北部の村です」
私は机の書類を見る。
「殿下ご自身が、ここまで細かく確認する必要はないでしょう?」
王太子が顔を上げる。
「以前、君が言っただろう」
「私が?」
「この国の人間のほとんどは、宮殿では暮らしていないと」
私は目を瞬く。
そんな話。
ずっと前にした気がする。
「王になるというのは、宮殿にいる人間だけを守ることではないんだろう?」
そう言って。
エドワードはまた書類へ目を落とした。
誰かに見せるための言葉ではない。
この部屋には。
私しかいない。
それでも。
この人は本気で国のことを考えている。
「……殿下」
「今度はなんだ?」
「パンを食べませんか?」
エドワードの手が止まった。
「パン?」
「お腹が空きました」
「この空気で?」
「この空気でも、お腹は空きます」
私は持ってきていたパンを取り出した。
昼に食べるつもりだったものだ。
半分に割る。
片方を、エドワードへ差し出した。
「村では、こういう時は食べます」
「どんな時だ?」
「どうしようもなく大変な時です」
エドワードは一瞬黙った後。
笑いながらパンを受け取った。
「では、今は食べるべきだな」
「はい」
豪華な王宮の一室で。
私たちは。
冷めたパンを2人で食べた。
銀の食器もない。
葡萄酒もない。
音楽もない。
ただ。
書類に囲まれ。
疲れ切った2人で。
パンを食べる。
不思議だった。
子供の頃。
絵本の中では。
王子様との恋は、いつも舞踏会で始まった。
美しいドレスを着て。
音楽が流れて。
手を取り合って踊る。
私はずっと。
それが素敵なのだと思っていた。
なのに。
今は。
華やかな舞踏会よりも。
書類だらけの机の前で。
この人とパンを食べている時間の方が。
ずっと心地よかった。
どうしてなのか。
その時の私は。
まだ。
はっきりとは分かっていなかった。
◇
リゼットが帰った後。
執務室には、半分ほど残ったパンが1つだけ置かれていた。
エドワードは、それをしばらく眺めていた。
『村では、こういう時は食べます』
そう言って。
リゼットは当たり前のようにパンを半分に割った。
王太子と食事をするというのに。
銀の食器も。
豪華な料理も。
葡萄酒もなかった。
ただの冷えたパン。
それなのに。
「……楽しかったな」
思わず口にしてから。
エドワード自身が驚いた。
最初は。
変わった娘だと思った。
次に会った時には。
頭のいい娘だと思った。
それから少しずつ。
次にいつ王宮へ来るのかが気になるようになった。
他の男から求婚されたと聞けば、なぜか落ち着かない。
すべて断ったと聞けば、安心する。
舞踏会へ誘えば。
父親との約束を理由に断られた。
腹が立つどころか。
そんな彼女だからこそ、ますます気になった。
そして今日。
疲れ切った自分の前で。
リゼットは王太子へ接するような遠慮もなく。
「パンを食べませんか?」
と言った。
王太子としてではない。
ただ。
疲れている1人の男に言うように。
「……そういうことか」
エドワードは椅子の背にもたれた。
ようやく分かった。
嬉しい時。
困った時。
疲れた時。
誰かに話したいと思った時。
いつからか。
最初に思い浮かぶ顔がリゼットになっていた。
王太子妃として相応しいのか。
家柄はどうなのか。
そんなことは。
とっくにどうでもよくなっている。
ただ。
自分の隣にいてほしい。
それだけだった。
その時。
扉が開いた。
「殿下。まだお仕事を?」
セドリックだった。
「セドリック」
「はい」
「聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
エドワードは真剣な顔で尋ねた。
「女性に求婚する時は、何を用意すればいい?」
セドリックが固まった。
「……は?」
「指輪だけでいいのか?」
「少々お待ちください」
「なんだ」
「心の準備が」
「なぜお前がするんだ」
セドリックは額を押さえた。
「いや……長かったなと思いまして」
「何の話だ?」
「こちらの話です」
「何か知っているなら言え」
「何も」
そう答えながら。
セドリックは明らかに笑いを堪えていた。
「ただ、殿下」
「なんだ?」
「求婚するのでしたら、もう少しお待ちになった方がよろしいかと」
エドワードの眉が寄る。
「なぜだ?」
「リゼットはまだ平民です」
「私は気にしない」
「殿下が気にされなくても、周囲は気にします」
「……」
それは。
エドワードにも分かっていた。
王太子の結婚は。
本人同士だけの問題ではない。
貴族たち。
王家。
外国との関係。
多くの人間が口を出す。
「それに」
セドリックが机の上の書類を見る。
「今回の北部の件が上手く収まれば、状況は変わるかもしれません」
「どういう意味だ?」
「国王陛下も、あの村の功績には注目されています」
エドワードは少し考えた。
そして。
口元を緩めた。
「なるほど」
「ですから今しばらくは」
「待つ」
「意外と素直ですね」
「ただし」
エドワードは机の上に残ったパンを見る。
「待っている間に誰かが求婚したら、すぐ私に報告しろ」
「またですか」
「断ったかどうかもだ」
「それはご本人に聞かれては?」
「……まだ聞けない」
「殿下」
「なんだ」
「かなり重症です」
◇
北部の食料不足は。
前の人生とは比べものにならないほど、小さな被害で収まった。
麦が不作になっても。
豆や蕪がある。
備蓄もある。
食料が不足した地域には、早い段階で他の土地から運び込むことができた。
冬が終わる頃には。
王都でも今回の政策が成功だったと評価されるようになった。
もちろん。
それを実行したのはエドワードだ。
私がしたのは。
自分の知っていることを話しただけ。
だから。
王宮から父宛ての使者がやってきた日も。
最初は何の話なのか分からなかった。
「フェルナー殿」
使者が父の名前を呼ぶ。
父が。
見たこともないくらい緊張した顔で前に出る。
「はい」
「国王陛下より沙汰がある」
私は隣で。
嫌な予感というか。
ものすごく良い予感というか。
とにかく。
胸がざわついていた。
「そなたの村が行った凶作への備え、また周辺の村々への食料支援を高く評価し」
使者が巻物を読み上げる。
「フェルナー家に男爵位を授ける」
父が固まった。
母も固まった。
私も。
一瞬だけ固まった。
「……男爵?」
父が間抜けな声を出した。
「はい」
「私が?」
「そうです」
「畑しかできませんが」
使者が困った顔をした。
「今後、必要な教育については王都より人を送るとのことです」
「はあ……」
父はまだ状況を理解できていない。
母が隣で私の腕を掴んだ。
「リゼット」
「何?」
「うち、貴族になるの?」
「……みたい」
母の顔が青くなった。
「嫌よ」
「え?」
「だって貴族って毎日舞踏会に行くんでしょう?」
私は思わず吹き出した。
「行かないわよ」
「本当?」
「少なくとも父さんは、たぶん畑にいると思う」
その予想は当たった。
男爵になった翌朝も。
父はいつも通り畑へ行った。
ただ。
私にとっては。
大きな変化だった。
私は正式に。
リゼット・フェルナー男爵令嬢になった。
農民の娘であることは変わらない。
むしろ。
変えるつもりもなかった。
でも。
少なくとも。
王太子妃候補として名前を挙げられても。
「平民だから」
その一言だけで排除されることはなくなった。
王太子妃への道が。
また一歩。
近づいた。
最初に考えていた通りなら。
ここで私は。
もっと喜ぶべきだったのかもしれない。
計画通り。
あと少し。
そう思うはずだった。
けれど。
最近。
私の頭に浮かぶのは。
王太子妃という肩書きより。
冷めたパンを食べながら笑っていた。
エドワードの顔の方だった。
◇
男爵令嬢となってから。
王都での私の扱いは、目に見えて変わった。
以前なら。
「平民なのにクラリッサ公爵夫人に気に入られている娘」
だった。
それが。
「国王から爵位を授かった家の令嬢」
になった。
夜会への招待はさらに増え。
求婚話も増えた。
けれど。
私は相変わらず全部断った。
「侯爵家からも?」
母が届いた手紙を見て目を丸くする。
「断るわ」
「どうして?」
「結婚したい人がいるから」
口に出して。
私自身が止まった。
母も。
止まった。
「……誰?」
「今のなし」
「誰なの?」
「何でもない」
「リゼット」
「忘れて」
「無理よ」
母がものすごく楽しそうな顔をしている。
私は逃げるように部屋を出た。
廊下を歩きながら。
自分の頬に触れる。
熱い。
「……結婚したい人」
いつから。
そう思うようになったのだろう。
◇
その答えを。
私は思ったより早く知ることになった。
王都の公爵家で開かれた夜会。
クラリッサ公爵夫人から招待を受け。
私は新しく仕立てたドレスを着て参加していた。
その日は。
いつもより多くの視線を感じた。
理由は分かっている。
私が男爵令嬢になってから。
王太子妃候補の1人として名前を挙げる者が出てきたからだ。
当然。
面白く思わない人もいる。
「リゼット・フェルナー様」
呼び止められ。
振り返る。
そこに立っていたのは。
マリアンヌ・バルハルト侯爵令嬢だった。
公爵家に次ぐ名門侯爵家の娘。
幼い頃から王妃教育を受けており。
以前から。
王太子妃の最有力候補の1人と噂されている。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、マリアンヌ様」
笑顔で挨拶する。
彼女も笑っている。
ただ。
目は笑っていなかった。
「最近、随分お名前を聞きますわ」
「ありがたいことです」
「まさか農村から王宮までいらっしゃるとは」
「私自身、一番驚いております」
「そうでしょうね」
周囲に。
少しずつ人が集まってくる。
嫌な感じだ。
「ですが」
マリアンヌが扇を閉じた。
「王太子妃には不相応ではなくて?」
周囲が静かになる。
来た。
そう思った。
「元は農民でしょう?」
マリアンヌが続ける。
「爵位をいただいたからといって、血まで変わるわけではありませんわ」
「おっしゃる通りです」
私は答えた。
マリアンヌが少し驚いた顔をする。
「否定なさらないの?」
「事実ですから」
私は微笑んだ。
「私は農民の娘です」
周囲を見る。
「畑も耕せます」
少し間を置いて。
「豚小屋の掃除もできます」
どこかから。
小さな笑い声が漏れた。
マリアンヌの眉が動く。
「でも」
私は続ける。
「そのおかげで分かったことがあります」
「何ですの?」
「この国のほとんどの人は、宮殿では暮らしていないということです」
周囲の空気が変わった。
「国を支えているのは、畑を耕す農民です。荷を運ぶ商人です。物を作る職人です」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「私は、その方々がどんなことで困り、どんな時に喜ぶのかを知っています」
「それが王太子妃に必要だと?」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「王太子妃になったことがありませんので」
今度は。
はっきりと笑い声が起きた。
私自身も少し笑う。
でも。
マリアンヌは笑わなかった。
「でしたら」
彼女の声が少し強くなる。
「身の丈に合った場所へ戻るべきではありません?」
その時だった。
「私は必要だと思うが」
後ろから。
聞き慣れた声がした。
周囲にいた全員が一斉に頭を下げる。
「殿下」
エドワードだった。
彼は。
こちらへ歩いてくると。
私のすぐ隣で立ち止まった。
「国を知らぬ者より」
静かに言う。
「知っている者の方がいい」
「ですが殿下」
マリアンヌが何か言おうとする。
「私は」
エドワードが遮った。
「リゼットが農民の娘だったことを、欠点だとは思っていない」
私の心臓が。
大きく鳴った。
「むしろ」
彼がこちらを見る。
「彼女だから分かることがある」
「……」
「北部の食料不足を防ぐことができたのも、王宮の人間だけでは気づけなかったことを彼女が教えてくれたからだ」
誰も何も言わない。
エドワードは。
それ以上マリアンヌを責めることはしなかった。
「身分は大切だ」
そう言って。
「だが、それだけで人の価値が決まるわけでもない」
その言葉で。
話は終わった。
マリアンヌも。
それ以上何も言えなかった。
◇
夜会の後。
私は1人で庭園へ出た。
春の夜風が。
火照った頬に気持ちいい。
「疲れた……」
小さく呟く。
「珍しいな」
後ろから声がした。
振り返る。
エドワードだった。
「殿下」
「君でも疲れるのか?」
「私を何だと思っているんです?」
「侯爵令嬢に囲まれても笑っている女性」
「かなり疲れています」
「そうか」
エドワードが隣へ並ぶ。
少しの間。
2人で何も言わず庭を眺めた。
「先ほどは」
私から口を開いた。
「ありがとうございました」
「何がだ?」
「マリアンヌ様とのことです」
「私は思ったことを言っただけだ」
「それでもです」
エドワードは私を見る。
「気にしていたのか?」
「何を?」
「農民だったことを」
私は少し考えた。
「以前は」
「以前?」
「貴族になれば、もっと素敵な人間になれると思っていました」
「変わった考えだな」
「そうなんです」
私は笑った。
「でも、今は違います」
父。
母。
村の畑。
橋。
冷めたパン。
そして。
隣にいるこの人。
「農村で育ったからできたことも、たくさんありました」
「ああ」
「だから今は、嫌いではありません」
「ならよかった」
エドワードが微笑む。
私は。
その顔を見た。
初めは。
王太子だから狙った。
借金がない。
没落しない。
地位もある。
将来性も申し分ない。
この国で一番。
条件のいい結婚相手。
それだけだった。
でも。
土に触れてきた手を褒めてくれた。
父との約束を大切にしてくれた。
私の意見を真剣に聞いてくれた。
疲れ切った夜。
冷めたパンを一緒に食べた。
そして今。
私が農民だったことを。
弱点ではなく。
私の価値だと言ってくれた。
そこで。
ようやく分かった。
私はもう。
王太子妃になりたいから。
この人の隣にいるのではない。
この人の隣にいたいから。
王太子妃になりたいのだ。
「リゼット?」
「はい?」
「どうした?」
「いえ」
私は小さく笑った。
「なんでもありません」
言えるわけがない。
あなたを好きになったみたいです。
なんて。
そんなことを。
今さら本人に言えるはずがなかった。
◇
その夜。
エドワードの私室には、3つの指輪が並べられていた。
1つは、王家に代々伝わる大粒の宝石を使ったもの。
1つは、王都でもっとも名高い職人が仕立てた、細かな装飾の施されたもの。
そして最後の1つは。
小さな青い石だけが嵌め込まれた、比較的飾り気のない指輪だった。
「王太子妃となる方に贈られるのでしたら、こちらがよろしいかと」
宝飾商が示したのは。
当然。
一番豪華な指輪だった。
「王家の威光を示す意味でも、申し分ございません」
「……そうだな」
エドワードは答えた。
けれど。
手を伸ばしたのは、その隣。
青い石の指輪だった。
「これは?」
「青玉でございます。ただ、他の2つに比べますと少々控えめでして」
「これにする」
「こちらでございますか?」
「ああ」
宝飾商がわずかに驚く。
だが。
エドワードには理由があった。
青い石を見た瞬間。
リゼットの瞳を思い出した。
それだけで。
もう他の指輪は目に入らなくなった。
「これで頼む」
「かしこまりました」
宝飾商が下がり。
部屋に1人になる。
エドワードは。
小さな箱に収められた指輪を眺めた。
「……何と言えばいい」
国王の前でも。
各国の使節の前でも。
何百人もの貴族を相手にしても。
言葉に困ったことなど、ほとんどない。
なのに。
明日。
たった1人の女性へ伝える言葉だけが。
どうしても決まらなかった。
最初に会った日のことを思い出す。
農村からやってきた、美しい娘。
最初は確かに。
美しいと思った。
けれど。
それ以上に印象に残ったのは。
王太子を前にしているというのに。
麦と豆と蕪の話しかしなかったことだった。
そして。
畑仕事で傷のついた手を。
恥ずかしそうに隠そうとした。
あの時。
もう一度会ってみたいと思った。
その次は。
王宮へ来る日が気になるようになった。
舞踏会へ誘えば。
『父との約束があります』
と断られた。
あの時は驚いた。
けれど。
腹は立たなかった。
むしろ。
そんな彼女だからこそ。
好きになったのだと。
今なら分かる。
王太子だからと。
先にした約束を変えない。
自分に近づくために。
態度を変えようともしない。
そして。
彼女への縁談を聞くたび。
自分でも情けないほど落ち着かなくなった。
伯爵家。
侯爵家。
名のある貴族から求婚されたと聞くたびに。
セドリックへ。
『断ったのか』
と確認した。
断ったと聞けば。
安心した。
「……随分前からだったな」
思わず呟く。
それでも。
自分の気持ちをはっきり自覚したのは。
もっと後だった。
あの夜。
北部の飢饉対策で遅くまで仕事をして。
疲れ切った自分に。
リゼットが冷めたパンを差し出した。
『殿下も食べてください』
たったそれだけ。
豪華な晩餐でもない。
美しい舞踏会でもない。
書類だらけの机。
疲れた2人。
半分に割った。
ただのパン。
なのに。
あの時間が。
不思議なほど心地よかった。
嬉しい時。
困った時。
疲れた時。
この先も。
彼女が隣にいればいい。
そう思った。
「……好きだから、結婚してほしい」
口にしてみる。
悪くはない。
でも。
何か違う。
「王太子妃になってほしい」
もっと違う。
それでは。
役目を押しつけているだけだ。
エドワードは椅子へ深く座り。
額を押さえた。
「難しいな……」
何度も考え。
何度も言葉を変え。
結局。
最後に残ったのは。
もっとも単純なものだった。
君と結婚したい。
君だから。
妻にしたい。
それだけだ。
エドワードは。
青い指輪の箱を閉じた。
「……断られたらどうするかな」
口にした瞬間。
急に現実味を帯びる。
一度。
舞踏会への誘いを断られた女だ。
王太子から求婚されたからといって。
必ず頷くとは限らない。
むしろ。
そういう女ではないからこそ。
好きになった。
エドワードは。
小さく笑った。
「まったく。面倒な女性を好きになったものだ」
けれど。
その表情は。
どこか嬉しそうだった。
◇
翌朝。
エドワードは予定よりかなり早く庭園へ来ていた。
春の朝は。
まだ少し肌寒い。
噴水の水音だけが。
静かな庭園に響いている。
上着の内側には。
昨夜選んだ小さな箱。
何度目か分からないほど。
その位置を確認する。
「……落ち着け」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
昨日までなら。
求婚など難しいものではないと思っていた。
王太子である自分の結婚なら。
家同士で話を通し。
条件を整え。
形式通りに言葉を交わせばいい。
そういうものだと思っていた。
でも。
リゼット相手では。
何一つそうはいかない。
「殿下」
背後から声がする。
振り返らなくても分かった。
「お時間です」
セドリックだった。
「分かっている」
「そうは見えませんが」
「うるさい」
「昨夜から、その箱を何度確認されました?」
「数えていない」
「私は7回ほど見ました」
「見ていたのか」
「嫌でも目に入りましたので」
エドワードは睨む。
だが。
セドリックはまるで気にしない。
「殿下」
「なんだ」
「普通にお伝えになればよろしいかと」
「それが難しいから困っている」
「国境問題より?」
「今はな」
とうとう。
セドリックが吹き出した。
「笑うな」
「失礼いたしました」
まったく反省していない。
その時。
庭園の入口に。
人影が現れた。
「リゼット様がお見えです」
侍従の声。
エドワードの身体が。
一瞬だけ固まった。
「では、私はこれで」
「待て」
思わず呼び止める。
「なぜです?」
「……いや」
エドワードは息を吐いた。
「行け」
「ご武運を」
「戦争ではない」
「殿下にとっては、それ以上に緊張されているようですが」
言うだけ言って。
セドリックは去っていった。
「覚えていろ」
小さく呟く。
そして。
顔を上げた。
リゼットが。
こちらへ歩いてくる。
淡い色のドレス。
派手な宝石はつけていない。
朝の光を受けて。
金色の髪が柔らかく輝いている。
こちらへ気づくと。
いつものように。
少し笑った。
「殿下」
その顔を見た瞬間。
不思議なほど。
頭の中が静かになった。
昨日から考えていた言葉も。
順番も。
指輪をいつ出せばいいのかも。
どうでもよくなった。
この女性を。
これからも毎日見たい。
嬉しい時も。
苦しい時も。
疲れた時も。
自分が王になった後も。
年を取った後も。
ずっと。
隣にいてほしい。
それだけだった。
◇
「お待たせしましたか?」
「ああ」
エドワードが答えた。
「え?」
「いや。随分前から待っていた」
「そんなに早くいらしたのですか?」
「……そういう意味ではないんだが」
「?」
リゼットが首を傾げる。
その仕草を見て。
エドワードは笑った。
「リゼット」
「はい」
「今日は、国の話をするために呼んだわけではない」
「では、何のお話でしょう?」
「君に聞きたいことがある」
エドワードの顔が。
少しだけ真剣になる。
「君は」
ほんのわずかに間を置いた。
「誰と結婚するつもりだ?」
私の心臓が。
大きく跳ねた。
「……突然ですね」
「突然?」
エドワードが眉を上げる。
「私にとっては、随分長い話なんだが」
「長い?」
「ああ」
そう言って。
エドワードは上着の内側へ手を入れた。
取り出したのは。
小さな箱。
その瞬間。
私は。
何も言えなくなった。
「少し長い話になる」
エドワードが。
箱を開く。
中にあったのは。
淡い青色の石が嵌め込まれた指輪だった。
「……綺麗」
思わず口から漏れる。
エドワードの表情が。
少しだけ緩んだ。
「君の瞳に似ていると思った」
「私の?」
「ああ。それで選んだ」
胸が。
また大きく鳴る。
私はずっと。
この瞬間を目指してきたはずだった。
王太子に選ばれるために。
未来を利用して。
人との縁を作った。
求婚を断り。
王宮で認められるように動いた。
なのに。
いざ。
目の前に指輪が現れると。
用意していたはずの言葉が。
1つも出てこなかった。
「最初に君と会った日のことを覚えているか?」
「もちろんです」
「私は驚いた」
「農民の娘が王宮にいたからですか?」
「違う」
即答だった。
「私を前にして、畑の話しかしなかったからだ」
「……そんなに畑の話をしていました?」
「麦、豆、蕪、税」
エドワードが指折り数える。
「少なくとも、私自身の話はほとんどしなかった」
「必要なお話でしたので」
「分かっている」
彼が笑う。
「最初は、変わった娘だと思った」
「褒めています?」
「今から褒める」
私は。
少しだけ笑った。
「でも」
エドワードの声が。
少し柔らかくなる。
「もう一度話したいと思った」
胸の奥が揺れた。
「次に会った時は、君の手を見ていた」
「手?」
「ああ。傷があった」
覚えている。
畑仕事でできた小さな傷。
王宮には似合わないと思って。
隠そうとした。
「それから」
エドワードが続ける。
「舞踏会へ誘った頃には、もうかなり怪しかったな」
「父との約束があったんです」
「知っている」
「まだ根に持っているんですか?」
「むしろ逆だ」
彼の表情が柔らかくなる。
「王太子の誘いより、先にした父君との約束を選んだ君を見て、安心した」
「安心?」
「私に近づくためなら、何でもする女性ではないと思った」
私は。
言葉を失った。
あの時。
確かに計算はあった。
王太子に媚びない。
誰にも簡単になびかない。
高嶺の花になる。
そう決めていた。
でも。
父との約束を守りたかったのも。
本当だった。
「それから君に縁談が来るたび」
エドワードが。
少し気まずそうな顔をした。
「セドリックへ確認していた」
「……何をです?」
「断ったのか、と」
「そんなことまでしてたんですか?」
「ああ」
「なぜ私には聞かなかったんです?」
「怖かったからだ」
一瞬。
聞き間違えたかと思った。
「殿下が?」
「私だって怖いことくらいある」
エドワードが苦笑する。
「もし君が誰かを選んだと聞かされたら」
その目が。
私をまっすぐ見る。
「その時点で終わりだろう?」
胸が。
苦しいくらいに鳴っていた。
「君が侯爵家からの縁談を断ったと聞いた時も」
一歩。
彼が近づく。
「伯爵家の男から求婚された時も」
もう一歩。
「何度も安心した」
気づけば。
すぐ近くにいる。
「自分でも随分情けないと思う」
エドワードが笑った。
「王太子なのに、君が他の男を選ばないことを祈っていた」
私は。
思わず聞いてしまった。
「では……いつから?」
「何が?」
「私を……その」
続きが。
急に恥ずかしくなった。
でも。
エドワードには伝わったらしい。
「はっきり分かったのは、あの夜だ」
すぐに分かった。
「パンを食べた?」
「ああ」
思わず笑ってしまう。
「随分地味ですね」
「私もそう思う」
エドワードも笑った。
「舞踏会でもない。立派な晩餐でもない。2人とも疲れ切って、書類に囲まれて、冷めたパンを食べただけだ」
「そうでしたね」
「でも」
彼の笑みが消える。
「あの日、思った」
エドワードは。
私の手を取った。
「王になれば、この先もっと大変なことが起きる」
指先が重なる。
「凶作かもしれない」
その手に。
少しだけ力がこもる。
「戦争かもしれない。自分の判断1つで、大勢の人生が変わることもある」
そして。
「そんな時に」
私を見た。
「隣にいてほしいと思ったのが、君だった」
何も言えなかった。
喉の奥が。
熱い。
「楽しい日だけではなく?」
「ああ」
「舞踏会だけでもなく?」
「ああ」
「王太子妃として、都合がいいからでも?」
「違う」
迷いのない答えだった。
「君だからだ」
胸の奥で。
何かが。
静かにほどけていった。
1度目の人生。
私は。
美貌だけを見て私を選んだ男と結婚した。
そして私も。
爵位だけを見て、その男を選んだ。
互いに。
相手ではなく。
条件を見ていた。
だから。
失敗した。
今回も。
最初は同じだった。
私はエドワードを。
『この国で一番、没落しそうにない男』
として見つけた。
借金なし。
地位あり。
将来性あり。
条件だけなら完璧。
でも。
いつの間にか。
変わっていた。
父のことを覚えてくれていた。
農民だったことを恥じなかった。
私の意見を笑わなかった。
働いてきた手を褒めてくれた。
疲れ切った夜に。
半分のパンを一緒に食べた。
国の未来を話す時間が。
好きになった。
隣にいることが。
嬉しくなった。
もう。
王太子だから。
この人と結婚したいのではない。
「リゼット」
「はい」
「私は、君を妻にしたい」
青い石が。
朝の光を受けて輝いている。
「王太子妃が必要だからではない」
一歩。
彼が近づく。
「これから先も」
静かな声だった。
「ずっと私の隣にいてほしいからだ」
私は。
唇を噛んだ。
泣くつもりなんて。
少しもなかった。
なのに。
視界が。
ほんの少しだけぼやけた。
「ずるいです」
やっと出た声は、自分でも驚くほど震えていた。
「何が?」
「そんなことを言われたら……断れるわけがないじゃないですか」
エドワードが目を見開いた。
「それは……」
「はい」
私は泣きそうになるのを誤魔化すように笑った。
「お受けします」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
エドワードは何を言われたのか分からないような顔をした。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……本当に?」
「何度言わせるつもりですか?」
「確認したかった」
「王太子なのに?」
「君相手では、何の保証にもならないからな」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
この国で最も身分の高い男性の1人が、私の返事を怖がっていた。
3年前の私が聞いたら、絶対に信じなかっただろう。
私は自分から左手を差し出した。
「つけてください」
「私が?」
「そのための指輪でしょう?」
「ああ……そうだった」
どうやら本当に緊張していたらしい。
エドワードは箱から指輪を取り出した。
そして私の左手を取る。
王太子とは思えないほど慎重な手つきで、薬指へ指輪を通した。
淡い青色の石が、朝の光を受けてきらりと輝く。
「……どうだ?」
私は手を持ち上げて眺めた。
「少し地味ですね」
エドワードの顔が固まった。
「え?」
「冗談です」
「リゼット」
「とても気に入りました」
笑うと、彼は大きく息を吐いた。
「心臓に悪い」
「私もさっきまで同じ気持ちでしたから、おあいこです」
「君は本当に……」
呆れたように言いながらも、エドワードは笑っていた。
そして指輪をはめた私の手を、そのまま握る。
「1つだけ聞いてもいいか?」
「何でしょう?」
「君は、いつから私を?」
私は固まった。
これは。
非常に答えづらい質問だった。
「……最初は」
「最初は?」
期待するような目で見られる。
困った。
でも、嘘をつくのも違う気がした。
「この国で一番、没落しなさそうな方だと思っていました」
沈黙。
春の庭園に、噴水の水音だけが響いた。
「……それが理由か?」
「かなり重要でした」
「私は今、随分ひどい告白を聞いた気がする」
「最後まで聞いてください」
私は慌てて彼の手を握り返した。
「最初は本当にそうだったんです。借金がなくて、家が没落しなくて、遊び人ではなくて、ちゃんと働く人がいいと思っていました」
「随分具体的だな」
「大事です」
「何かあったのか?」
「……こちらの話です」
前世の夫のことは、さすがに言えない。
「でも」
私はエドワードを見る。
「途中から違いました」
彼が黙る。
「殿下だからではなくて」
一度だけ、指輪を見る。
「エドワード様と一緒にいたいと思うようになりました」
彼の目が少し大きくなった。
「父のことを覚えていてくださったのが嬉しかった。農民だった私を恥ずかしいと思わなかったことも。私の話を、いつも真剣に聞いてくださったことも」
思い返せば。
たくさんあった。
「それに」
「それに?」
「冷めたパンを一緒に食べた夜も、好きでした」
エドワードが笑う。
「やはり、あの夜か」
「舞踏会よりずっと地味ですけど」
「私たちらしい」
「そうですね」
私はもう一度、彼の手を握る。
1度目の人生では。
結婚とは、私を幸せな場所へ連れていってくれるものだと思っていた。
違った。
どこへ行くかではなく。
誰と歩くかを決めることだった。
「私も」
今度は、はっきり言った。
「あなたと結婚したいです」
すると。
エドワードが笑った。
王太子として人前で見せる笑みではない。
ただ嬉しくて仕方がない。
そんな顔だった。
「それなら」
「はい」
「これから先も、随分長い付き合いになりそうだな」
「そうですね」
「飽きないか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「少なくとも、借金まみれの子爵よりは」
「……誰の話だ?」
「こちらの話です」
エドワードが怪訝そうな顔をする。
私は笑って誤魔化した。
◇
その年。
リゼット・フェルナー男爵令嬢と、エドワード王太子の婚約が発表された。
王都は大騒ぎになった。
当然だ。
公爵令嬢でもなければ、侯爵令嬢でもない。
ほんの数年前まで、畑で泥だらけになっていた娘が王太子妃になるのだから。
反対の声もあった。
だが。
思っていたほど多くはなかった。
セドリックが支持した。
クラリッサ公爵夫人も支持した。
北部の貴族たちは、食料不足を防いだ功績を覚えていた。
そして国王自身も、これまでの私の働きを認めてくださった。
気づけば。
私が少しずつ作ってきた縁が。
今度は私を支えてくれていた。
婚約から1年後。
私は正式にエドワードの妻となった。
◇
結婚して3か月ほど経った頃。
王宮で、地方貴族たちとの謁見が行われた。
私はエドワードの隣に座り、次々と挨拶を受けていた。
伯爵。
子爵。
男爵。
名前と顔を一致させながら、笑顔で言葉を交わしていく。
その中に。
見覚えのある顔があった。
「グランディール子爵家、アルベルト・グランディールでございます」
私は。
ほんの一瞬だけ固まった。
前の人生の夫だった。
まだ若い。
まだ屋敷も、完全には傾いていない。
服装も整っている。
そして当然。
今の彼は。
私のことなど知らない。
アルベルトは深く頭を下げた後、顔を上げた。
私を見て。
少しだけ不思議そうな表情をする。
「失礼ながら……妃殿下とは、以前どこかでお会いしたことがございますでしょうか?」
私は彼を見る。
5年間。
雨漏り。
借金。
賭場。
パン屋。
銀貨17枚。
壊れかけの馬車。
売った宝石。
毎月増えていく請求書。
すべてが。
一瞬で頭の中を駆け抜けた。
そして。
私は王太子妃として。
最高に優雅な笑顔を作った。
「いいえ」
首を横に振る。
「初対面ですわ」
「そうでございますか」
アルベルトは再び頭を下げた。
そのまま。
何事もなかったように下がっていく。
私は、その背中を見送った。
すると。
彼の後ろにいた家令が、何枚もの紙を抱えているのが見えた。
ちらりと見えた一番上。
支払い請求書。
「……」
私は思わず目を閉じた。
危なかった。
本当に。
危なかった。
「どうした?」
隣からエドワードの声がした。
「何でもありません」
「そうか?」
「はい」
「随分嬉しそうだが」
「そう見えます?」
「ああ」
私は。
もう一度だけ。
遠ざかっていくアルベルトの背中を見た。
前の人生では。
あの男の隣にいた。
そして毎日のように。
どうしてこんなことになったのだろう。
そう思っていた。
今は。
違う。
私は隣に座るエドワードの腕へ。
そっと手を添えた。
「エドワード様」
「なんだ?」
「私、今、とても幸せです」
彼が一瞬。
驚いたように私を見る。
「急にどうした?」
「たまには言っておこうと思いまして」
「では、私も言っておこう」
エドワードが私の手を握った。
薬指には。
あの日もらった青い指輪。
「君と結婚してよかった」
胸の奥が。
じんわりと温かくなった。
「私もです」
◇
1度目の人生。
私は。
貴族なら誰でも。
私を幸せにしてくれると思っていた。
大きなお屋敷。
綺麗なドレス。
宝石。
舞踏会。
それさえ手に入れば。
きっと毎日幸せなのだと。
でも。
違った。
爵位が。
幸せをくれるわけではない。
美貌が。
幸せを保証してくれるわけでもない。
幸せになりたいなら。
自分で選んで。
自分で動いて。
時には未来さえ利用して。
自分で掴まなければならない。
もっとも。
もし。
3度目の人生があるのなら。
今度は。
階段の近くに帳簿を置かないようにしようと思う。
あれは本当に危ないから。
――とはいえ。
今回ばかりは。
あの階段から落ちたことに。
少しくらい感謝してもいいのかもしれない。
だって私は。
没落貴族の妻ではなく。
愛する人の妻に。
なれたのだから。
後日談
◇
結婚してから。
私たちの暮らしが、毎日華やかだったかと聞かれれば。
答えは、たぶん違う。
もちろん。
舞踏会もある。
晩餐会もある。
王族として参加しなければならない式典だって多い。
けれど。
私が一番好きなのは。
そういう日ではなかった。
「リゼット」
「はい」
「それは何だ?」
ある日の午後。
執務室へ入ってきたエドワードが。
私の手元を見て足を止めた。
「豆です」
「それは見れば分かる」
「では、なぜ聞いたんです?」
「なぜ王太子妃が、執務室で豆を広げているのかと聞いている」
机の上には。
数種類の豆が並んでいた。
「今年、北部で育てる品種を比べています」
「君が?」
「私が」
「王太子妃が?」
「何度聞くんです?」
エドワードは額を押さえた。
「せめて専門の役人に任せろ」
「役人から借りてきたんです」
「そういう問題ではない」
そう言いながら。
エドワードは私の隣へ座った。
「それで?」
「はい?」
「どれがいいんだ?」
結局。
付き合ってくれる。
私は笑いながら。
1つの豆を手に取った。
「これは寒さに強いんです」
「収穫量は?」
「普通です。でも痩せた土地でも育ちます」
「では北部向きか」
「そう思います」
エドワードが豆を摘まみ。
真剣な顔で眺める。
この人は。
本当に変わらない。
王太子妃になってからも。
私が農業の話を始めれば。
最後まで聞いてくれる。
「そういえば」
エドワードが突然言った。
「今日は何か持ってきていないのか?」
「何か?」
「あれだ」
「あれ?」
「パン」
私は吹き出した。
「またですか?」
「今日は朝から何も食べていない」
「それは自慢することではありません」
「君なら持っているかと思った」
「私を何だと思っているんです?」
「困った時にパンを出す女性」
「随分限定的ですね」
呆れながら。
私は持っていた籠を開けた。
中から。
布に包んだパンを取り出す。
エドワードが笑った。
「あるではないか」
「一応です」
「やはり君と結婚して正解だった」
「パンで?」
「ああ」
「安い妻ですね」
「そんなことはない」
エドワードはパンを受け取りながら。
何でもないことのように言った。
「君がいると、ちゃんと休める」
手が止まった。
「……急にそういうことを言うの、ずるくないですか?」
「何が?」
「何でもありません」
私は残ったパンを半分に割った。
結婚する前と同じ。
冷めたパン。
豪華な王宮。
書類だらけの机。
そして。
隣にはエドワード。
私はふと思った。
昔の私が見たら。
きっと驚くだろう。
あれほど憧れていた貴族の暮らしを手に入れたのに。
今の私が一番幸せだと思う瞬間は。
宝石を身につけて舞踏会で踊っている時ではない。
好きな人と。
同じ机でパンを食べている時なのだから。
「リゼット」
「はい?」
「笑っているぞ」
「そうですか?」
「ああ」
「幸せなので」
エドワードが少しだけ目を丸くした。
それから。
嬉しそうに笑った。
「私もだ」
窓の外では。
春の風が王宮の庭を抜けていく。
昔。
私は幸せとは。
もっと派手なものだと思っていた。
大きなお屋敷。
綺麗なドレス。
宝石。
舞踏会。
でも。
本当は。
こんなものなのかもしれない。
好きな人が隣にいて。
同じものを食べて。
どうでもいい話をして。
明日もまた。
同じ人の顔を見られる。
そんな毎日を。
私は今。
とても気に入っている。




