意味の確定
教授室の空気が、わずかに張り詰めていた。
榊は立花から視線を外し、デスク脇のホワイトボードに向き直る。
そこにはすでに、簡潔な箇条書きが並んでいた。
冨田彩香
緒川達彦
谷村清登
立花彰
「さて……」
榊はペン先で、立花の名前を一度だけ軽く叩いた。
「ここまでで、四人分の体験が出揃った。数としてはまだ少ないが、比較するには十分だ」
立花は、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「君の体験は、他の三人と決定的に違う点がある」
「……何ですか」
「像の情報量だ」
榊はそう言って、冨田の名前の横に、丸を一つ描いた。
「冨田さんの夢には、“顔”がある」
立花は、はっとして榊を見る。
「看護師の……」
「そうだ。彼女は、亡くなった患者の顔を、はっきりと見ている。年齢も、表情も、病室の光景も含めてだ」
榊は、次に緒川の名前へとペンを滑らせる。
「緒川医師の場合も同様だ。奥様の姿は、実在した記憶とほぼ一致している。髪型、声の調子、立っていた位置まで、かなり具体的だ」
「じゃあ……」
立花は、自分の体験を思い返す。
「僕だけが、違う?」
「正確に言えば──」
榊は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「君の夢だけが、“情報を欠いたまま成立している”」
「欠いたまま……」
「顔がない。表情もない。空間のディテールも乏しい。にもかかわらず、“誰か”だと分かっている」
榊は振り返り、立花をまっすぐ見た。
「これは、夢としては少し不自然だ」
立花は、喉の奥が乾くのを感じた。
「でも……シルエットの夢なんて、珍しくないですよね」
「珍しくはない。だが、その場合、多くは“誰だか分からない”」
榊は即座に答える。
「君の場合は逆だ。
見えないのに、分かっている」
榊は、冨田の名前の横に書いた丸に、線を足していく。
「冨田さんは、まず“見て”、その後で“意味づけ”をしている。亡くなった患者だ、と」
次に緒川。
「緒川医師も同じだ。
見慣れた妻の姿を見て、そこに意味が重なる」
そして、谷村。
「谷村君もそうだ。幼少期に亡くした父親の顔を、成長後の記憶で再構成して見ている」
榊はペンを止め、最後に立花の名前を囲った。
「だが君は、最初から“祖母”だった」
「……」
「視覚情報を経由していない。
意味が、直接立ち上がっている」
立花は、思わず拳を握りしめた。
「それって……僕の脳が、勝手に作ったってことですか」
「“勝手に”と言うと語弊がある」
榊は静かに否定する。
「むしろ、非常に効率的だ。
必要最低限の情報で、結論に達している」
「結論……」
「『これは、祖母だ』という結論だ」
榊はホワイトボードに、小さく矢印を書き加える。
視覚 → 意味
意味 → 視覚
「冨田さんたちは前者だ。君は後者に近い」
立花は、言葉を探すように視線を落とした。
「じゃあ……先生」
「うん」
「僕の夢は、他の人たちとは“同じ現象じゃない”可能性もあるってことですか」
榊は、すぐには答えなかった。
しばらく考え込み、それから、ゆっくりと首を振る。
「同じ“系列”だとは思っている。だが──」
ペンを置く。
「同じ“層”かどうかは、まだ分からない」
「層……」
「冨田さんたちは、“過去の記憶が強く再生された夢”と説明できる余地がある。緒川医師は、命日前後という心理的条件も揃っている」
榊は、少しだけ声を落とした。
「だが君には、それがない」
「……」
「命日でもない。
環境要因も見当たらない。
強い感情のトリガーも、直前には存在しない」
立花は、自分の胸の内を探るように、息を整えた。
「ただ……調査をしていただけです」
「そうだ」
榊は、そこで初めて、ほんのわずかに口角を上げた。
「だからこそ、厄介なんだ」
立花は、嫌な予感を拭えなかった。
「先生……」
「君の体験は、“原因側”ではなく、“観測側”に近い可能性がある」
「観測……」
「まだ仮説だ。だが──」
榊は、立花を見据える。
「君が見たのは、誰かの記憶ではないかもしれない」
教授室に、再び沈黙が落ちた。
立花は、自分の見た祖母の影を思い出す。
顔のない、意味だけを帯びた存在。
それが、他の誰かの夢とは、どこか決定的に違っていた理由が、
ようやく輪郭を持ち始めていた。
*
ホワイトボードの前で、立花は腕を組んだまま黙り込んでいた。
冨田、緒川、谷村、そして自分。四つの体験を並べてみても、腑に落ちる一本の線は、まだ見えない。
「……先生」
沈黙を破ったのは、立花だった。
「一つ、変なこと言ってもいいですか」
榊は視線を上げる。
「“変”かどうかは、聞いてから決めよう」
立花は少し言いづらそうに、言葉を選びながら続けた。
「冨田さんたちの夢って、“その人自身の記憶”が再生されたようにも見えますよね」
「うむ」
「でも、僕のは……そうじゃない気がするんです」
榊の眉が、わずかに動いた。
「どう違う」
「祖母の記憶を、細かく思い出したわけじゃない。
顔も、仕草も、場所もない。
あるのは……“祖母だと分かる感じ”だけでした」
立花は、自分でも不思議そうに首を傾げる。
「記憶というより……
“祖母という情報が、まとめて渡された”みたいな」
榊は、その言葉を聞いた瞬間、完全に動きを止めた。
「……まとめて、渡された?」
「はい。順番が逆なんです。普通は、細かい映像や音から『ああ、祖母だ』ってなるはずなのに、僕は最初から答えだけ知っていた」
榊は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「立花君……」
その声には、さきほどまでになかった熱が滲んでいる。
「今の言い方、もう一度言ってくれ」
「え?」
「“順番が逆”というところだ」
立花は一瞬考え、言い直す。
「観測する前に、結論を知っていた……みたいな感じです」
その瞬間だった。
榊は無言でデスクに戻り、パソコンを操作し始めた。
キーボードを叩く速度が、明らかに速い。
「先生……?」
「少し待て」
画面に、英語論文のタイトルが次々と並ぶ。
量子論、情報理論、認知科学。
分野が、急激に跳躍していく。
やがて、榊は一つの記事を開いた。
「……なるほどな」
低く、感心したような声だった。
「そういう考えは、なかったな」
立花は、思わず身を乗り出す。
「何なんですか、それ」
榊はモニターを回し、立花にも見えるようにした。
「令和に入ってから出てきた学説だ。
“結果が、原因を規定する”という考え方」
「え……」
「量子の世界では、もう珍しくない。
観測されるまで状態が定まらない、というやつだ」
榊は画面を指でなぞる。
「量子の世界では、結果が原因を規定するという考え方自体は昔からあった。だが――令和に入ってからだ。
これを“情報”や“認知”の領域にまで拡張しようという動きが、はっきりと形を取り始めた」
立花は、息を呑んだ。
「じゃあ……」
「君の夢がもし、“記憶の再生”ではなく、
“意味の確定そのもの”だったとしたら──」
榊は言葉を切り、立花を見る。
「祖母の姿を見たのではない。
『祖母だ』という意味を、先に確定させた」
立花の背筋に、ぞくりとしたものが走る。
「それって……未来の理解が、夢を作ったみたいな……」
「近い」
榊は、はっきりと頷いた。
「冨田さんたちは、過去の記憶を再生している。
緒川医師も、同様だ。
だが君は、“意味の確定点”に先に触れている」
「……それが、未名現象?」
「いや」
榊は首を振る。
「未名現象“そのもの”ではない。
だが、未名現象が成立する“条件”に近い」
教授室に、しばし沈黙が落ちる。
榊は、ふっと息を吐き、少しだけ笑った。
「立花君」
「はい」
「昨日は成り行きで、玉川さんには君のことを“助手”と紹介したが──」
立花は内心、またか、と思った。
「案外、それは正解かも知れんな」
「……え?」
「君は、観測される側に立っただけじゃない。
仮説を“連想できる位置”に来ている」
榊は、モニターを閉じる。
「これからは、同行ではなく、参加だ」
立花は言葉を失ったまま、ただ榊を見ていた。
未名現象は、まだ解けていない。
だが――
問いの質が、変わった。
それだけは、はっきりと分かった。
(続く)




