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意味の先行

 立花は、今見た光景を頭の奥に焼き付けるようにしながら、キッチンへ向かった。

 コップに水を汲み、一息もつかずに飲み干す。


 喉を水が通り抜けていく感覚だけが、はっきりとしていた。


 未名現象は、これまでにも何度か経験している。

 だからといって慣れているわけではないが、必要以上に取り乱すこともなかった。

 立花は動揺を抑え、意識的に思考を整理しようとする。


 ――今、何を見た?


 夢だった。

 その認識はある。


 だが、人を夢に見ること自体は、初めてではない。

 これまでも、何度かそういう夢は見てきた。


 人の形をしたシルエット。

 輪郭だけがあり、顔は決して見えない。

 それでも、不思議と「誰なのか」だけは分かる。


 そういう夢だった。


 今回も、それと同じだ。

 祖母の顔を見たわけではない。

 声も、はっきりとした音として聞いたわけではない。


 それでも、祖母だと分かった。


 ――じゃあ、なぜ。


 立花は、空になったコップをシンクに置いたまま、しばらく動かなかった。

 疑問は一つではない。

 なぜ祖母だったのか。

 なぜ今なのか。

 なぜ、忠告めいた言葉だったのか。


 祖母が亡くなったのは五年前だ。

 命日が近いわけでもない。

 和歌山に関係する出来事が、最近あったわけでもない。


 理由が見当たらない。


 未名現象として受け止めるには、あまりにも個人的で、あまりにも具体的だった。

 それでいて、意味の核心には触れていない。


 立花は、自分の中で何かが始まってしまった感覚を、はっきりと自覚していた。

 だが、それが何なのかは、まだ言葉にできない。


 疑問だけが、静かに積み重なっていく。


            *


翌日、立花は榊の教授室を訪ねた。

午前中の講義が終わった直後で、室内にはまだチョークの匂いが残っている。


榊はデスクの上の書類から顔を上げ、立花を見ると、軽く顎で椅子を示した。


「で、どうした」


立花は腰を下ろし、短く息を整えてから口を開いた。


「昨日の夜……夢を見ました」


榊は何も言わず、続きを促すように視線を向ける。


「母方の祖母です。五年前に亡くなっています。和歌山に住んでいた祖母で……葬式にも出ています」


「顔は?」


「見えませんでした」


即答だった。


「シルエットだけです。輪郭だけがあって、表情も分からない。でも……祖母だと分かりました」


「“分かった”?」


「はい。理屈じゃないんです。見た瞬間に、そうだと認識した。ただ……」


立花は一瞬、言葉を探す。


「もしかしたら、祖母だと“認識したかった”だけかもしれません。実際には、ただの人影だった可能性もある」


榊は腕を組み、少し考え込むように視線を落とした。


「何か話したか」


「和歌山弁で……『気をつけるんだよ』と。

声として聞いたというより、そういう意味が頭に入ってきた感じです」


榊は小さく息を吐いた。


「……出来たら起きた時に電話が欲しかったんだが」


立花は即座に頭を下げる。


「すみません。流石に深夜二時でしたし、ご迷惑かと思って……」


「迷惑かどうかは、こちらが決めることだ」


責める調子ではなかった。

むしろ、状況を惜しむような声音だった。


榊は椅子の背にもたれ、改めて立花を見る。


「起きた直後、何か変調はあったか。動悸、めまい、現実感の欠落」


「ありません。水を飲んで、冷静に考えました。

……夢だという認識もあります」


「それでも、お婆様だと分かった」


「はい」


短い沈黙が落ちる。


榊は、立花の言葉を頭の中で反芻するように、しばらく何も言わなかった。


「……君が“お婆様を見た”のか、それとも“祖母という意味を与えた”のか」


榊はそう言ってから、立花の反応を待った。


「……違うんですか」


立花は戸惑いを隠さずに言う。


「夢の中で見た以上、祖母は祖母じゃないんですか」


「“お婆様の夢そのもの”かどうかは分からない」


榊は淡々と答えた。


「人は夢の中で、対象を“見る”前に“理解”してしまう事がある。輪郭や声といった情報より先に、意味が立ち上がる」


「意味……」


「例えば、顔のない人影を見て、恐怖を感じる。

その瞬間、脳は『これは怖いものだ』と判断している。

何が怖いのかは、その後で補完される」


榊は指先でデスクを軽く叩く。


「君の場合、あのシルエットに最初に与えられたのは『祖母』という意味だ」


「でも……祖母の声でした」


「和歌山弁、だったな」


「はい」


「それも、“祖母らしい”要素だ。

だが、声帯の記憶か、言語のイントネーションか、あるいは単なる言語野の再生かは分からない」


立花は眉を寄せた。


「じゃあ先生は、祖母が“現れた”わけじゃないと?」


「まだ、そこまでは言っていない」


榊は即座に否定する。


「重要なのは、“見えなかった顔”だ」


「……顔は、見えませんでした」


「にも関わらず、君のお婆様だと確信した。

ここに、通常の夢とは違う匂いがある」


立花は思わず身を乗り出した。


「違う、というのは」


「多くの夢は、視覚情報が先行する。

顔、場所、状況──そこから意味を読み取る」


榊はゆっくりと言葉を選ぶ。


「だが君の体験は逆だ。

意味が先にあり、映像がそれに追いついていない」


「……じゃあ、あれは」


「“君のお婆様の姿をした何か”ですらない。

もっと正確に言えば──」


榊は一拍、間を置いた。


「“祖母という概念を纏った現象”だ」


教授室に、静かな沈黙が落ちた。


立花は背中に、じわりと汗が滲むのを感じた。


「それって……」


「安心するな。怖がるのも早い」


榊は穏やかに続ける。


「これはまだ、仮説にもなっていない。

だが少なくとも言えるのは──」


立花を見る。


「君は“誰かに語りかけられた”と感じた。

そして、その感じ方は、これまで我々が聞いてきた証言と一致している」


立花は、昨日まで自分が“観察者側”だった事を思い出す。


「……じゃあ僕も、同じ側に立った、という事ですか」


「そうだ」


榊は静かに頷いた。


「ようやく、机上の話ではなくなった」


(続く)


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