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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第1章 沈黙の地

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第8節 ヨアヒムの訪れ

 母が死んでから、四年が経った。

 ヒンメルランドの丘は、また夏の色を取り戻していた。

 草の先に小さな白い花が咲き、羊の群れが遠くで鳴いている。

 風は湿って重く、しかしどこか懐かしい匂いを含んでいた。


 セーレンは十二になっていた。

 背が伸び、手が父の肩に届くほどになった。

 朝は家畜を見に行き、昼は父の診療を手伝う。

 薬瓶を拭き、布を煮沸し、時々は父の代わりに簡単な手当をする。


 父はほとんど何も言わない。

 けれど、道具を渡す手つきだけで、

 「それでいい」と伝わる瞬間がある。

 そのわずかな合図が、セーレンにとっては何よりの報酬だった。


 夜になると、彼は書庫へこもった。

 父が読んでいた医学書、古い聖典、ヨアヒムの論文。

 最初は意味がわからなかった言葉も、今ではすらすらと読める。

 理屈が分かるたびに、世界が少し整って見えた。

 光がどう進み、熱がどう流れ、

 人の体がどうして動くのか。

 それを知ることが、祈るよりも確かな気がした。


 そんなある日の午後、丘の道に馬の足音が響いた。

 見慣れない馬車が、ゆっくりと登ってくる。

 日差しの中で銀の飾りが光った。

 玄関の前で馬が止まり、扉が開く音がした。


 背の高い男が立っていた。

 日焼けした顔、白に近い灰色の外套。


 「久しいな。」

 その声に、セーレンは一瞬息を呑んだ。


 叔父――ヨアヒムだった。

 記憶の中の彼は、葬儀の日の暗い影と重なっていた。

 けれど今目の前に立つヨアヒムは、以前よりもやつれ、

 しかしその目には、何かを掴んだ者の光が宿っていた。


 「大きくなったな。」

 ヨアヒムは微笑んだ。

 「十二か。」

 「うん。」

 「賢そうな顔になった。」

 「……父さんに似た?」

 「いや、違うな。」

 ヨアヒムは笑い、外套の埃を払った。


 そこへ、父が出てきた。

 短い沈黙。

 兄弟は互いに視線だけを交わした。


 ヨアヒムが先に口を開く。

 「久しいな、兄さん。」

 「四年ぶりだ。」

 「聖都は?」

 「変わらん。相変わらず、信仰と理屈が喧嘩している。」

 カスパルは小さく息をついた。

 「おまえは、理屈の側にいるんだな。」

 「神が沈黙している間は、理が語らねばならん。」


 その言葉に、セーレンはかつて父が呟いた言葉を思い出した。

 ――「神は沈黙している。けれど、それでいい。」

 ふたりの間には、同じ“沈黙”をめぐる、まったく異なる解釈が流れている気がした。


 夕方、ヨアヒムは書庫を見たいと言った。

 カスパルは無言で鍵を渡した。


 扉を開けると、傾いた陽が棚を黄金色に染めた。

 ヨアヒムは目を細めて本の背表紙を指でなぞった。

 「相変わらずだな。兄さんの几帳面さは変わらん。」

 「昔より少し散らかってるよ。」

 セーレンが笑うと、ヨアヒムも頷いた。


 「読むのか?」

 「うん。ほとんど。」

 「ほとんど?」

 「最初は意味が分からなかったけど、今は読めるようになった。」


 ヨアヒムは驚いたように眉を上げた。

 「魔素理論の書もか?」

 「うん。」

 「……兄さん、すごいな。息子がこれほど理解してるとは思わなかっただろう。」

 カスパルは黙ったまま、窓の外を見ていた。


 「教えたのか?」

 「教えてはいない。」

 「じゃあ、独学か。」

 セーレンは少し誇らしげに胸を張った。

 「父さんの本と、叔父さんの本も読んだよ。」


 ヨアヒムの目が、一瞬だけ柔らかくなった。

 「私の?」

 「うん。“魔素と生命の可塑性”って本。」

 「難しかっただろう?」

 「難しかった。でも面白かった。

  魔素を変えることで、身体の働きを変えるって書いてあった。」


 「それで?」

 「それで、思ったんだ。

  人の体の中の光を変えられたら、

  たぶん病も治るんじゃないかって。」


 カスパルがその言葉に振り向いた。

 ヨアヒムは静かに微笑んだ。

 「いい発想だ。実際、そう考えて研究している。」

 「本当に?」

 「本当に。」


 ヨアヒムの声は柔らかかったが、その奥には苦い疲労があった。

 「一度だけ――成功したことがある。」

 「成功?」

 「液化魔素だ。魔素を物質として安定させ、体内で働かせることに成功した。

  だが、再現はできていない。奇跡のような偶然だった。」


 カスパルのまぶたが震えた。

 「神の力を、理で閉じ込めたというのか。」

 「神の力ではない。理が見つけた“もう一つの秩序”だ。」

 「おまえはまだ、神と競うつもりか。」

 ヨアヒムは短く笑った。

 「競う? 違う。理は神の沈黙の裏側を照らすだけだ。」


 兄弟のあいだに、再び沈黙が落ちた。

 セーレンはその空気の重さを、肌で感じ取った。


 夜、父が灯を消したあと、セーレンは寝室を抜け出して書庫へ向かった。

 扉を開けると、ヨアヒムがそこにいた。

 机の上に、銀の筒が置かれている。

 その中で、青白い液体が静かに揺れていた。


 「これ……何?」

 「液化魔素だ。」

 ヨアヒムの声は囁くように低かった。

 「今のところ、世界にひとつだけ。

  この中に、魔素が“理”として存在している。」


 セーレンは息を呑んだ。

 液体は光を放たず、ただ冷たく、澄んでいた。

 だが、その沈黙の中に確かな“動き”がある気がした。


 「叔父さん、これは……神の力なの?」

 「違う。神の沈黙を、少しだけ覗いた理の結果だ。」

 ヨアヒムは目を細めた。

 「兄さんには見せられん。祈る人には、これは重すぎる。」


 「怖くないの?」

 「怖いさ。」

 ヨアヒムは静かに笑った。

 「だが、私はこの沈黙の意味を知りたい。

  神が語らないのなら、世界の方が語るはずだ。」


 その言葉に、セーレンの胸が熱くなった。

 父の沈黙とは違う、もうひとつの沈黙――

 破ろうとする沈黙の姿が、そこにあった。


 「おまえ、世界を知りたいか?」

 「うん。」

 「なら、祈るな。観察しろ。」

 セーレンは頷いた。

 「父さんは、祈りながら見てる気がする。」

 「それでいい。人は完全には理になれない。」

 「叔父さんは?」

 ヨアヒムは一瞬だけ黙り、遠くの夜を見た。

 「私は――理の方に、少しだけ踏み込みすぎた。」


 その声には、かすかな後悔と誇りが同居していた。

 セーレンはその意味をまだ知らない。

 けれどその夜、

 自分の中で何かがひっそりと動き始めた。


 窓の外では風が止み、

 遠くの森の向こうに青白い光がかすかに見えた。

 夜明けの兆しだった。


 セーレンはその光を見つめながら、思った。

 ――この人の後を追いたい。

 その思いが、まだ言葉にならないまま、

 心の底にゆっくりと沈んでいった。

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