第7節 書物の灯り
夏の光は長く、丘の空気は熱を帯びていた。
窓を開けると、草の匂いが押し寄せてくる。
ヒンメルランドの短い夏は、すべてのものが息づく季節だった。
その夏、セーレンは書庫を与えられた。
父が無造作に鍵を差し出したのだ。
「もう、おまえの方が読むだろう。だが、火だけは使うな。」
それだけ言って、出ていった。
扉を開くと、冷たい空気が流れ出た。
紙の匂い、インクの鉄の香り。
古い机の上には、魔素理論、薬学、病理学、そして“傲慢の時代”と呼ばれる古代の記録が並んでいる。
窓からの光が、紙の上で波のように反射していた。
セーレンは最初の一冊を慎重に開いた。
「魔素の循環と臓器構造」。
父がいつも手を当てる位置が、図として描かれている。
人の身体が一つの流れとして記述されているのを見て、
彼は初めて“治療”というものを理屈で考えた。
――神が癒すのではなく、流れが整うから治るのだ。
その発見がうれしくて、毎晩のように灯を持ち込んだ。
火は使えない。だから、魔素で小さな光を作った。
掌にわずかな熱を集めて、親指の先で火花を散らす。
子どもでもできる簡単な灯し方だ。
しかし、彼が作りたいのは“光そのもの”だった。
炎ではなく、燃えず、ただ輝く球――理論上の魔素の集中形。
昼間、父が診療に出ている間、
セーレンは観察の練習を続けた。
掌を静かに開き、空気を撫でるように意識を流す。
魔素は目には見えないが、指先に微かな脈のようなものを感じる。
“流れを読む”――父がよく言っていた言葉だ。
それを“形にしたい”。
セーレンは、自分の中の魔素を集めるように息を整えた。
祈りではなく、考える。
「ここから、ここへ。」
指先に集まる光の粒を想像した。
脈が速くなる。掌の中心がかすかに熱を帯びた。
――あと少し。
青白い光が一瞬だけ膨らみ、弾けた。
空気が震え、紙が一枚、床に舞い落ちた。
驚きよりも先に、胸が高鳴った。
「見えた……!」
その声に重なるように、後ろから低い声がした。
「セーレン。」
父が立っていた。
玄関の音にも気づかないほど集中していたのだ。
机の上の焦げ跡を見て、カスパルは一歩近づいた。
「書庫ではやるなと言ったろう。」
「……すぐ消した。燃えてない。」
「問題はそこじゃない。」
声は静かだったが、言葉の奥に硬さがあった。
セーレンは唇を噛んだ。
「火を灯すくらい、誰でもできる。でも僕は……光を作りたかったんだ。」
「光?」
「祈らなくても、神を呼ばなくても。
自分で、見える形にできる気がしたんだ。」
カスパルは黙ったまま机の上の器具を整えた。
しばらくして、言った。
「光を作るのは悪くない。だが、形にする前に、意味を見ろ。」
「意味?」
「光は流れを示す。扱いを間違えれば、見失う。」
セーレンは下を向いた。
叱られたとは思わなかった。
けれど、胸の中の誇りが静かにしぼんだ。
「父さんは、僕がやること見る気はないの?」
「見ている。」
「嘘だ。」
「おまえがやろうとしていることは、理解している。」
「だったら、褒めてよ。」
初めて口にした言葉だった。
父は少しだけ目を細めた。
「褒めるのは簡単だ。だが、理解は時間がかかる。」
その声に怒気はなかった。
ただ、どこか痛みを含んでいた。
沈黙のあと、カスパルは棚の奥から小さな本を取り出した。
薄い紙にびっしりと手書きの文字が並んでいる。
「これは?」
「若いころの記録だ。魔素の観察日誌。」
セーレンは目を輝かせた。
「読んでいいの?」
「構わない。だが、答えを探すために読むな。」
「じゃあ、何のために?」
「問いを増やすためだ。」
その夜、風が強かった。
書庫の窓が鳴り、蝋燭の炎が揺れる。
父の残した日誌を開くと、
最初のページに、淡いインクでこう書かれていた。
“観察とは祈りの逆である。
世界に答えを求めず、自らを沈める行為だ。”
セーレンはその文を指でなぞった。
父がこんな言葉を書くとは思っていなかった。
それが、少しうれしかった。
ページをめくると、
体内の魔素流路の観察記録、
火・水・風・土の循環、
そして、魔素の“光点”の生成実験が残されていた。
彼は紙をめくる手を止めた。
「光点」――それこそが、自分が作ろうとしたものだった。
父も同じことを、昔、試みていた。
翌日から、セーレンは実験の続きを始めた。
父は何も言わなかった。
ただ、出発前に机を見て「道具を壊すな」とだけ言った。
セーレンはその言葉を、黙って了承した。
書庫の中で、夏が流れていった。
午前は家の仕事、午後は観察と記録。
夜になると、父が灯を整えに来て、
机の上の紙束を一枚だけめくり、何も言わずに去る。
セーレンは、褒められたいという気持ちを越えて、
ただ知ることそのものが楽しくなっていた。
光球はまだできない。
けれど、光の粒が掌の中に一瞬浮かんだとき、
それだけで世界が少しわかった気がした。
夏の終わり、雨が続いた。
書庫の湿気で紙が波打つ。
外では雷が鳴り、家が揺れた。
カスパルが扉を開け、濡れた外套のまま中に入ってきた。
「今日はやめておけ。」
「もう少しだけ。」
「雷じゃ、魔素も乱れる。」
「だからこそ、見ておきたいんだ。」
父は目を細めた。
「おまえはいつか、俺より遠くを見るだろう。」
「それって、褒めてる?」
「わからん。」
そう言って、父は背を向けた。
外の光が一瞬、書庫を照らした。
雷鳴と同時に、棚の本の背表紙が一斉に光ったように見えた。
そのとき、セーレンの掌の中で小さな光がまた弾けた。
火ではない。燃えず、ただ在るだけの光だった。
父は振り向かなかった。
けれど、背中の向こうでわずかに息を止めた音がした。
セーレンはそのことを、何も言わなかった。
雨上がりの翌朝、
書庫の窓から差し込む光が、机の上のノートを照らした。
そこには、拙い字でこう記されていた。
「光、ほとんど見えた。
父さんの本と同じ。
けど、たぶん意味は違う。」
セーレンは窓を開け、湿った風を吸い込んだ。
世界は静かで、遠くの村の鐘が聞こえた。
神の名を唱える声が風に乗って届く。
けれど、もうその声に、答えを求めようとは思わなかった。
彼の中には、すでに小さな光があった。
それは祈りではなく、確かめようとする目の光だった。




