第6節 沈黙の理
春が終わり、風がぬるくなってきた。
丘を渡る空気には、干し草と動物の匂いが混ざっている。
ヒンメルランドの短い“誕生の季節”だ。
雪に埋もれていた大地がようやく息を吹き返し、馬や牛が次々と仔を産む。
セーレンはその合間を縫うように働いていた。
朝は家畜の世話、昼は診療所で瓶を並べ、器具を洗う。
父の手伝いをするようになってから、日々の生活に隙間がなくなった。
それでも、父と同じ空気を吸える時間がうれしかった。
カスパルの手の動きは、いつ見ても静かだった。
患者の額に手を当て、深く息を吸い、掌の中で魔素の流れを確かめる。
その瞬間、父の目は少しだけ光る。
流れの乱れを見極め、魔素の循環を整える――
医者の仕事のそれを、村では“祈り”として教わってきた者が多い。
けれど、医者の祈りにはもっと現実の匂いがあった。
カスパルは手を当てるとき、必ず一言だけ、患者の名前を呼ぶ。
「……治りますように。」
その声には信仰よりも、願いがこもっていた。
村人はそれを神の呪文のように受け取っていた。
医者が祈るから、神が癒す。
火を灯すときの詠唱と同じだと思っている。
誰も、魔素がどう流れ、どこで滞るのかなど考えない。
理よりも奇跡が、人の安心を作っていた。
ある朝、北の放牧地から急報が入った。
「牛が倒れた。疫病だ。」
使いの青年は泥まみれで、肩で息をしていた。
カスパルは即座に動いた。
診療所の奥から薬箱を取り出し、透明な瓶を布で包んで鞄に入れた。
「セーレン、火を落とすな。夕方までには戻る。」
それだけ言い残して出ていった。
その瓶には、帝都で作られた“科学薬”が入っていた。
ヨアヒムが冬に調合したばかりのものだ。
成分は「セフェトリウム液」――魔素ではなく、物質の反応によって細菌を抑える薬。
注射によって体内に入れるという新しい療法だった。
放牧地は異臭に包まれていた。
草は腐り、空気がぬるい。
牛たちは泡を吐き、地面に伏していた。
村人たちは距離を取り、祈りの印を胸に描いている。
「先生……これは治りますか。」
「神に見放されたんじゃないか。」
「呪われたんだよ。」
カスパルは黙って膝をつき、牛の首筋に手を当てた。
皮膚の下に沈んだ熱を確かめ、呼吸の浅さを聞く。
魔素の流れを読むと、肺の奥で炎症が広がり、血が重く滞っていた。
呪いなどない――細菌が肺を蝕んでいる。
「群れを離せ。」
低い声で言うと、村人たちが一斉に顔を上げた。
「倒れていない牛は南の柵に。水桶と飼い葉は別にしろ。道具も共有するな。」
「で、でも……祈りは?」
「祈るのは後でいい。今は隔てろ。」
その声音に押され、村人たちは慌てて動いた。
カスパルはその間に、牛の口の泡を拭い、瞼をめくった。
眼球は充血し、呼吸は荒い。
もう薬草では追いつかない。
鞄から瓶と注射器を取り出す。
透明な薬液が陽光を受けて淡く揺れた。
周囲の空気がざわめいた。
「先生、それは……」
「薬だ。」
「飲ますのか?」
カスパルは応えず、薬液で満たし、注射器内の気泡を抜く。
針を刺す音がした。
細い管の中を薬液が落ち、血の流れに混ざり込んでいく。
それは光も音も立てず、ただ確かに生命の中へ溶けていった。
祈りの言葉はなかった。
ただ、唇の動きだけがわずかに震えた。
――どうか、生きてくれ。
夜明け前、最初の牛が立ち上がった。
呻き声が止み、目に光が戻る。
村人の誰かが息を呑んだ。
「……奇跡だ。」
「違う。薬の力だ。」
「いや、神が働いたに違いない。」
混乱した声が飛び交った。
その夜、教会から司祭がやってきた。
白い法衣の裾を泥で汚しながら、村人たちの前でゆっくりと言った。
「その治療法は、聖都でも用いられている。
神の理に背くものではない。」
村人たちは顔を見合わせ、安堵よりも戸惑いの色を浮かべた。
「聖都で? 本当に?」
「じゃあ、なんで祈らずに効くんだ……?」
「飲んでも、塗ってもいないぞ……。」
理屈では理解しても、心が追いつかなかった。
翌日から、村では奇妙な噂が流れた。
「カスパルは神の力を奪った。」
「祈らずに病を癒すのは、人の傲慢だ。」
「やっぱり変人だったんだよ。」
その声は、風に乗って広がっていった。
数週間も経たぬうちに、“頼れる医者”は“気味の悪い医者”に変わった。
診療所に来る人は減り、井戸端では「やっぱり神の理に逆らう者は怖い」と囁かれた。
セーレンは丘を下るのが嫌になった。
けれど、買い出しに行かなければならない。
ある日、薬草を買いに出た帰り、村の子どもたちが石垣の上から声をかけてきた。
「おい、魔の医者の子!」
「呪い薬でも飲んでんのか?」
「神様に祈らなくていいんだろ、すげえな!」
笑い声が耳を刺した。
セーレンは立ち止まった。
胸が熱くなった。
「父さんを馬鹿にするな!」
声が裏返った。
「父さんは人を助けたんだ!何にも知らないくせに!」
「へえ、薬でな。神様いらねぇんだもんな!」
小石が飛んできた。
頬に当たって、痛みが走った。
セーレンは走り寄って、一人の胸倉を掴んだ。
「言うな!」
泥が跳ね、手が滑る。
押し倒され、頬に拳が当たった。
地面の冷たさと、怒りで涙が滲んだ。
家に戻ると、シャツが泥と血で汚れていた。
父が玄関に立っていた。
「喧嘩か。」
「……父さんのこと言われた。」
「何を。」
「神に逆らったって。馬鹿だって。何にも知らないのはあいつらなのに。祈れば治るなんて、馬鹿じゃないか。」
父は黙ってタオルを渡した。
「拭け。」
「なんで黙ってるんだよ!」
セーレンの声が震えた。
「言い返してよ! 父さんが悪いわけじゃないのに!」
「……言っても、変わらん。」
「変わるよ!」
叫んだあと、喉が痛くなった。
父は少し目を伏せ、
「祈る方が、あの人たちには楽なんだ。
……楽というより、そうして生きるしかないんだ。」と呟いた。
「楽?」
「祈れば、神に責任を預けられる。
けど、薬は違う。自分が選んで飲むんだ。
その違いが、怖いんだろう。」
カスパルの声には、どこか遠い静けさがあった。
それは諦めではなく、すでに何かを知っている人の沈黙だった。
セーレンには、それが“立ち止まっているように”しか見えなかった。
だが後に彼自身が、努力しても届かないという場所に立ったとき、
この沈黙の意味を、痛みの中で理解することになる。
それからしばらくして、診療所の灯が消える日が増えた。
患者が来ない夜、カスパルは机に向かい、瓶のラベルを並べ直していた。
セーレンは隣で、黙って書庫の本を開いた。
読んでも読んでも、胸の奥の熱は消えなかった。
丘の外れに立つその家は、村の明かりからも遠く、夜になると風の音しか聞こえなかった。
かつては、疫病の隔離のために造られた建物。
石壁と木の梁のあいだから、かすかに潮の匂いがする。
セーレンはその孤独な空間が嫌いではなかった。
静かだからこそ、父の息づかいが聞こえる。
けれど、ある夜ふと気づいた。
その息づかいが、もう“寂しさ”の音になっていることに。
セーレンは窓の外の村を見た。
遠くの灯がいくつか、風に揺れている。
あの灯の下で、自分を笑った子どもたちが眠っている。
怒りよりも、ただ悲しかった。
――父さんの優しさは、あの人たちには届かない。
その夜、セーレンは小さく決意した。
父を守る言葉を持たないなら、
いつか自分が、理屈で父を守れるようになりたい。
世界が理解しないなら、理解してやる。
手のひらを見つめる。
父がいつも魔素を読む手。
その形を、真似してみた。
掌の奥で、何かがわずかに熱を帯びた気がした。




