第5節 灰色の海
風の音が雪を削る。
白だけの世界に立っていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。
雪が降るのを見上げていると、すっと音が消えていく。
そのまま自分自身が吸い込まれてしまいそうで、怖い。
だからセーレンは、世界に“形”をつけようとした。
音を数え、風の流れを記録し、雪の舞う高さを測った。
理で囲えば、世界は沈黙しない――そう信じていた。
葬儀の朝、風はなく、雪だけが落ちていた。
音のない世界だった。人々の足音までも、雪の下に吸い込まれていく。
母の棺は、丘の上の祈祷堂へと運ばれた。
鐘は鳴らない。ただ、灰色の空の下、村人たちは静かに帽子を取った。
セーレンは手を組んで立っていた。祈りの言葉はもう思い出せなかった。
代わりに、母の手の冷たさだけが、何度も頭に浮かんだ。
ヨアヒムは終始黙っていた。
黒い外套には雪が積もり、肩の線が見えなくなっていた。
短い弔辞のあと、彼は雪の中で深く一礼し、
そして兄にだけ小さく言葉を残した。
「兄さん、どうか、自分を責めないでくれ。」
カスパルは何も答えなかった。
雪が肩に積もっても払おうとせず、遠くを見ていた。
祈祷堂の裏手では、葬送の火が準備されていた。
この地では、火によって魂を空へ還す。
火は神の息、灰は大地の記憶だと信じられている。
棺のまわりに薪が積まれ、静かな円を作っていた。
雪の降る中、その場に立つのは三人だけだった。
カスパルと、ヨアヒムと、セーレン。
それがこの家族のすべてだった。
司祭の言葉はなかった。
カスパルが代わりに、短く祈りの句を唱えた。
その声は掠れていて、雪に吸い込まれるように消えた。
ヨアヒムが先に一歩前に出た。
手のひらに魔素を集めると、小さな炎が浮かんだ。
それは青白く、冷たい光を帯びていた。
彼は黙って薪の端にその火を移した。
火は静かに燃え広がり、木の匂いが立ち上った。
次に、カスパルが進み出た。
彼の火は白く柔らかかった。
祈りの言葉を一言だけ口にし、
その火をヨアヒムの火に重ねるように置いた。
炎が少しだけ強くなり、雪の粒をはじいた。
セーレンの番が来た。
指先が冷たく、魔素が集まらなかった。
何度か息を整え、手を伸ばしたが、
光は小さくちらつくだけで、火にならなかった。
「……無理だよ。」
そう呟いたとき、父の手がそっと添えられた。
その瞬間、掌の中に小さな火が生まれた。
赤くも青くもない、鈍い灰の色の火。
父と子の手の間で、かすかに揺れている。
カスパルが言った。
「これでいい。」
それだけだった。
セーレンは黙って頷き、その火を棺の傍へ運んだ。
火は他の炎と交わり、灰色の煙を上げながら燃え広がった。
雪は音もなく溶け、蒸気が静かに立ち上る。
風がないせいで、煙はまっすぐに伸びた。
まるで空そのものが呼吸をしているようだった。
セーレンはその煙を見つめた。
涙は出なかった。
泣けば楽になるのかもしれないが、
悲しみは涙の形をしていなかった。
体の奥に、鉛のように沈んでいった。
ヨアヒムは灰を一握り掬い、
小瓶に入れて静かに封をした。
「帝都の教会に納めよう」
カスパルは頷いた。
葬儀の翌朝、肺を刺していた冷たい風がやんだ。
灰色の空の下、家の中にはまだ焚き火の煙が残っている。
カスパルは台所に立ち、冷めた湯を鍋に注いだ。
湯気が立ちのぼり、すぐに消える。
ヨアヒムは椅子に座ったまま、何も言わなかった。
目の前の机には、リサが最後まで縫いかけていた布がある。
白地に青い糸が、半分だけ模様を描いて止まっている。
「薬は……足りていたのか」
ヨアヒムがぽつりと呟いた。
カスパルは手を止めずに答える。
「いつもの分は足りてた。……でも効かなかった。肺がもう、もたなかった」
ヨアヒムは頷くでもなく、視線を落とした。
「俺がもう少し早く、液を安定させていれば」
「やめろ。」
カスパルの声は低かった。
「そういう“もし”は、もうやめよう。」
沈黙。
薪がぱちりと割れる音がした。
ヨアヒムはゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づく。
外は一面の白で、遠くの海が灰色に光っていた。
カスパルは鍋を火から下ろしながら言った。
「あの人は外に出たがってた。
春になったら海にいこう、って。」
ヨアヒムが微かに笑う。
「お前が止めただろ。」
「そりゃそうだ。風に当たれば咳が止まらなくなる。」
二人はそれきり、また黙った。
けれど、先ほどよりは柔らかな沈黙だった。
やがてヨアヒムが言う。
「セーレンは?」
「まだ寝てる。夜中に泣いてたけど、今は静かだ。」
「……泣けるうちは、いい。」
その言葉に、カスパルは少しだけ顔を上げた。
ヨアヒムは窓の外を見たまま、
「泣かないと、声の出し方を忘れる。俺たちは、もう忘れかけてる。」
と言った。
カスパルは返事をしなかった。
ただ、鍋の中で冷めた湯が小さく揺れた。
外では、風がまた向きを変えた。
ヨアヒムはその日、帝都へ帰った。
灰色の馬車が雪の道を下っていく。
セーレンは玄関先に立ち、遠ざかる音を聞いていた。
叔父の背中は、雪に溶けるように消えた。
その夜、家の中は異様に広く感じられた。
炉の火は弱く、父の姿は部屋の隅に沈んでいた。
カスパルは机に突っ伏し、動かない。
薬瓶が散らばり、開きかけの祈祷書が床に落ちていた。
セーレンはそっと拾い上げた。
開かれた頁には、古びた文字で「癒し」と書かれていた。
父はそれを奪うように取り返し、しばらく見つめていた。
そして、掠れた声で呟いた。
「……私が、あの弟のように学んでいれば。」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
セーレンは何も言わなかった。
父の背中が、ゆっくりと小さく見えた。
その肩が、わずかに震えていた。
夜が更けても、父は動かなかった。
風が止み、炉の火が消えた。
部屋の空気が冷えていく。
セーレンは窓辺に立ち、外を見た。
雪に覆われた丘の向こうに、海があった。
昼間は霞んで見えなかったが、
夜の光の中では、かすかにその輪郭が見えた。
灰色の波が、遠くでゆるやかにうねっている。
母が「青い」と言った同じ海。
けれど、彼の目には、何の色も見えなかった。
丘の向こうから、風が少しだけ吹いた。
凍てついた空気の中に、微かに潮の匂いが混じる。
セーレンはその匂いを吸い込みながら、母の声を思い出そうとした。
「この土地をね、私は好きよ。」
あの声は、もうどこにもいなかった。
「神さま……」
声はかすれた。
何を言いたいのか、自分でも分からなかった。
助けてほしいわけではない。
ただ、あの沈黙の理由を知りたかった。
どうして何も起こらないのか。
どうして祈っても、世界は変わらないのか。
雪がゆらめくように降り続く。
地面も空も、同じ白に溶け合っていく。
音はなく、時間の流れさえ止まって見えた。
世界のどこにも、神の気配はなかった。
それでも、セーレンは目を閉じなかった。
――祈りの言葉は失った。
だが、“見る”ことはまだ残っている。
息が白く浮かんで消える。
その一瞬一瞬が、生きている証のようだった。
冷たい窓に指を当てると、白い曇りが小さく広がった。
その曇りの向こうに、海があった。
波の形は見えないが、音のような気配がある。
それをただ、見つめた。
誰もいない世界で、ひとり、息をしていることを確かめるように。
外の雪が、やがて細かい光の粒に変わった。
夜明けが近い。
灰色の空が、ゆっくりと白に滲みはじめる。
丘の上の祈祷堂が、かすかな光を受けて浮かび上がった。
母を焼いた煙が空に溶け、もう跡形もない。
けれど、セーレンにはその灰の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
カスパルの部屋から、微かな物音がした。
振り返ると、父が立ち上がり、机の上に散らばった薬瓶をひとつひとつ拾い集めていた。
その動作はぎこちなく、けれど確かだった。
セーレンは何も言わずに見ていた。
「……眠れなかったか。」
父の声は掠れていた。
「うん。」
それだけ言って、セーレンは窓の外を見た。
父は隣に来て、同じように外を見た。
しばらくのあいだ、二人とも何も言わなかった。
やがて、父が小さく息をついた。
「海が見えるな。」
「うん。灰色だね。」
「……ああ。」
短い会話だった。
けれど、その沈黙の中に、
確かに“まだ何かが続いている”という気配があった。
雪が静かに降り続く。
セーレンはもう祈らなかった。
けれど、母が愛したこの土地の息を、
確かに胸の奥で感じていた。
――灰の向こうに、何があるのか。
その問いだけを抱いて、
少年は、夜明けの光の中に立っていた。




