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【完結】魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第6章 祈りの果て

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第8節 神なき世界

最初に異変に気づいたのは、井戸端の女だった。


いつものように、両手を合わせ、短い祈りを口にする。

火を乞うための、誰もが知っている言葉。


だが、火は灯らなかった。


「あれ……?」


もう一度、同じ言葉を唱える。

今度は、より丁寧に。

より強く、願いを込めて。


それでも、空気は沈黙したままだ。


「おかしい……」


声が、震えた。


隣の女性が、気づいて近づいてくる。


「どうしたの?」


「火が……火が出ないの」


「まさか」


その女性も、祈りを口にした。

だが、同じだった。

何も起こらない。


二人の女性は、顔を見合わせた。


「昨日までは……」

「神が……」


言葉が、途切れる。


その沈黙が、何よりも雄弁だった。


ざわめきは、瞬く間に広がった。


パン屋では、竈の前で主人が立ち尽くしていた。

朝の炊事ができない。


「火が……火が起きない……」


何度祈っても、同じだった。


飲み水が集まらない。

祈りで引き寄せていた水が、もう応えない。


「桶を持ってきて!」

「手で汲むしかない!」


人々は慌てて井戸へと走り出した。


医者が叫んでいる。


「井戸の水は沸かしてから飲むんだ!」


火は応えない、どう沸かせとというのか。


混乱と叫び声。


神殿では、司祭たちが集まっていた。


「教皇様は……?」

「まだ、お戻りにならない」


祭壇の前で、年老いた司祭が祈りを捧げる。

だが、いつもなら灯るはずの聖火は、

冷たいままだった。


「……これは」


司祭の顔が、青ざめた。


「神が、沈黙されている……」


その言葉が、恐怖となって、神殿中に響いた。


街路では、魔素灯が暗いまま動かない。

普段なら朝の光で満たされているはずの通りが、

薄暗く、重苦しい。


「おかしい」

「祈りが……」

「昨日までは……」


人々は空を仰いだ。

神殿を見た。

互いの顔を見た。


そして——


「神は、ついに私たちを見捨てたのか」


誰かの声が、恐怖を言葉にした瞬間、

混乱は確信に変わった。


祈っても、火も、水も、光も応えない。

――祈りとして受け継がれてきたものが、機能しなくなっていた。


都市は、音を失った。

いや、正確には、祈りの音だけが消えた。




地下深く、静まり返った制御室で。


教皇は、ゆっくりと目を開いた。


天井は低く、人工の光はない。

残っているのは、止まったままの遺物と、冷たい空気。


身体が、重い。


(……生きている)


そう思った瞬間、胸の奥に、痛みが走った。


記憶が、戻ってくる。


遺物に触れたこと。

溢れた光。

数字だけの世界。

《統合、完了》


そして——


少女の声。

「もう休もう」


教皇は、ゆっくりと手を見た。


自分の手だ。

震えている。


でも、動く。


(……私は、私のままだ)


その事実が、不思議だった。


アークノアと一つになったはずだった。

だが、今、ここにいるのは——


ただの人間だった。


教皇は、起き上がり、装置を見やった。


かつて神の座にあると思っていたもの。

今は、沈黙している。


彼女は、無意識に祈りの言葉を口にした。


神よ――


だが、光は生まれない。


当然だった。

神など、最初からいなかったのだから。


ため息が、静かな空間に落ちた。


「……そうか」


力なく、笑う。


祈ってきた相手は、数字だった。

救ってくれたのは、演算だった。


それでも——


人は、祈っていた。


その視線の先に、セーレンがいた。


槍を背負い、工具袋を下げたまま、静かに立っている。


「……神のいない世界で」


教皇は、掠れた声で問うた。


「人は、どう生きるのか」


問いは、責めではなかった。

答えを求める声だった。


セーレンは、すぐには答えなかった。


止めたのは、自分だ。

だが、壊したわけではない。


世界は、元に戻っただけだ。


「……理解した上で、なお祈る」


ゆっくりと言葉を選びながら、セーレンは言った。


「赦すことが、生きるということです」


少し間を置いて、付け加える。


「少なくとも、僕にとっては」


教皇は、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。


「理解した上で……なお、祈る……」


涙が、一筋、頬を伝った。


神はいなかった。

だが、人は、祈っていた。


祈りが、世界を動かしていたのではない。

世界の中で、人が生きようとすること自体が、祈りだったのだ。


地上では、混乱が続いている。


火を起こすために、人は火打石を探し始めた。

水を汲むために、井戸を掘り直した。

暗闇の中で、灯りを分け合った。


不便で、不安で、恐ろしい世界。


それでも、人は、立ち尽くさなかった。


神なき世界で。

それでも、生きていく。


「おじちゃん!朝だよ。

 ここから外に出られるよ!」


新しい朝を告げる声が響いた。


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