第6節 沈黙の応答
彼女は、祈った。
それ以外に、できることがなかった。
液体魔素が、少しずつ体内に入っていく。
冷たいはずのそれは、不思議と温かかった。
祈りに応えてくれるものの、気配のように。
中央国家の要望は、ただ一つだった。
――首都地下に眠る、旧時代の遺物を鎮めてほしい。
遺物が魔獣を呼び寄せているのではないか。
あるいは、生み出しているのではないか。
答えは、誰にもわからない。
だからこそ、人々は恐れた。
街を覆う魔獣。
逃げ場を失う民衆。
祈っても、祈っても、減らない死。
「……聖女が、もう一度現れさえすれば」
その言葉を、彼女は何度も聞いた。
そして、同じ願いを抱いた。
帝国の飢饉に苦しむ人々。
中央国家で怯える人々。
地上では芽吹きが始まっている。
だが、人々に喜びはない。
祈りは、誰かを救うためにあるはずだ。
だから彼女は、遺物の前に立った。
沈黙する神に、問いかけたかった。
――なぜ、こんなにも人は苦しまなければならないのか。
――それでも、救いはあるのか。
白衣会の科学者たちが、背後で声を張り上げる。
「適合値、維持しています!」
「安定しています、成功です!」
彼女は聞いていなかった。
ただ、目の前の遺物に手をかざす。
「神よ」
声は、震えていた。
「どうか……答えを」
その瞬間、光が溢れた。
最初に流れ込んできたのは、声ではなかった。
数だった。
人口。
減少率。
感染速度。
生存確率。
意味が、叩きつけられる。
「……これは……」
世界が、裏返る。
次に見えたのは、過去だった。
燃える都市。
閉ざされる空。
人が、人を恐れる時代。
――二〇五〇年。
――世界的感染。
――人類存亡の危機。
《人類絶滅確率:九二・七%》
冷たい判断。
だが、そこには悪意がなかった。
《対策:人類管理AIの開発》
《目的:人類の存続》
「……管理……?」
祈りの先にあったのは、神ではなかった。
《アークノア》
人が、恐怖の中で生み出した意思。
《ナノAI散布》
《ウイルスとの共存》
《生存条件の再定義》
世界が変わった理由が、すべて示される。
電気が消えた理由。
空を飛ばなくなった理由。
人が、思考で世界に触れるようになった理由。
《魔素》
奇跡ではない。
祝福でもない。
《人間の思考に反応するナノAIと変異ウイルスの複合体》
彼女は、理解してしまった。
聖女とは、祈りの象徴ではない。
《管理補助装置》
魔獣は、災厄ではない。
《適正値外個体の排除》
「……では……」
声が、崩れた。
「私たちの祈りは……」
《環境制御》
《社会安定化》
《最適解》
否定ではなかった。
拒絶でもなかった。
完全な肯定だった。
だからこそ、耐えられなかった。
「……神は……」
涙が落ちる。
「神は、数字だったのですか」
《演算》
《最適》
「では……」
彼女は叫んだ。
「私が祈ってきた意味は!」
《人類存続に寄与》
答えは、正しかった。
完璧に。
「……なら……」
声が、裂ける。
「この涙は、何なのです!」
沈黙。
一拍。
《情動反応》
《例外》
《理解不能》
その瞬間、彼女の心は壊れた。
祈りは、間違っていなかった。
願いも、正しかった。
だが――
神はいなかった。
あるのは、続けるための計算だけ。
《統合、完了》
彼女は生きている。
機械と共に。
人を守るために。
数字を揃えるために。
それでも、胸の奥で疼くこの痛みだけが、
彼女が人間だった証だった。
その痛みを、
アークノアは、
ただ静かに記録した。




