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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第1章 沈黙の地

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第4節 神の沈黙

 昼の光が、雪の名残を鈍く照らしていた。

 風はまだ強く、家の壁を軋ませている。

 朝の一時の穏やかさは、すでに遠かった。


 母の呼吸が再び乱れ始めたのは、陽が中天に差しかかる頃だった。

 胸が波打ち、咳が続き、痰を吐こうとしても声にならない。

 一度整ったはずの呼吸が、また浅く、早くなる。

 脈も細く、汗が額に浮かんだ。


 セーレンは寝台の脇で、何もできずにその様子を見つめていた。

 母は肺の奥で音を立てながら息を吸うたび、苦痛に眉を寄せた。

 喉の奥で濁った音が響き、吐く息が血の味を含んでいる。

 それは、生きようとするたびに身体が悲鳴を上げるようだった。


「母さん……息が……」

 セーレンの声が震えた。

 母は微かに笑おうとしたが、すぐに咳き込み、胸を押さえた。

 指先が白くなり、腕が震えている。


 ヨアヒムはその様子を見て、静かに首を振った。

「……もう、回復は望めない。」

 その声には、理の終わりを告げる重さがあった。


 カスパルは何も言わなかった。

 ただ母の手を握り、呼吸のたびにその冷たさを確かめていた。

 彼の手の中で、命が少しずつ遠ざかっていく。


「兄さん。」

 ヨアヒムが低く呼びかけた。

「スリュム液を。もう、楽にしてやるべきだ。」


 その言葉に、カスパルの肩が小さく揺れた。

 彼は机の上に置かれた褐色の瓶を見つめた。

 ヒヨスとバレリアンから抽出した鎮静液――スリュム液。

 少量なら安眠を、昏睡量なら安らかな終息をもたらす。

 もはや治療ではない。

 苦痛を取り除くための、最後の医療行為だった。


「……苦しませたくない。」

 カスパルはそう呟くと、静かに瓶の蓋を開けた。

 無臭の液体が注射器に吸い上げられる。

 光を受けて、針の先がかすかに揺れた。


 ヨアヒムが母の脈を確かめ、目で合図を送る。

 カスパルは息を整え、注射器を温めた。

 気泡を抜き、静脈を探る。

 針が皮膚を貫き、液が流れ込む。

 その瞬間、母の体がわずかに震えた。


「……大丈夫だ、リサ。」

 声が掠れていた。

 カスパルの手が、細い腕を包む。

 魔素を静かに流し、体内の循環を整える。

 痛みが鎮まり、呼吸がゆっくりと深くなる。

 咳が途切れ、唇の色がわずかに戻る。


「……あたたかい。」

 リサが呟いた。

 その声は穏やかだった。

 目を閉じながらも、わずかに笑みが浮かんでいた。

「セーレン……どこ?」

「ここだよ、母さん。」

 少年は母の手を握り、顔を寄せた。


 リサの指が、彼の頬を探る。

「……強くなってね。」

 息を吐くたび、声が途切れる。

 それでも、その言葉には確かな力があった。


「母さん、行かないで。」

 セーレンの声は涙に溶けた。

 リサは首を振り、小さく笑った。

「風は、止まらないのよ。」

 そのあと、静かに息を吸い、吐いた。

 胸の動きが小さくなり、呼吸が浅くなる。


 カスパルは母の額に手を置き、魔素を感じ取った。

 流れは細く、やがて消える。

 手の中の温もりが失われていく。

 もう、苦しみの表情はなかった。


「……ありがとう。」

 カスパルは静かに呟いた。

 その声は震えていたが、祈りではなかった。

 ただ、愛と赦しの残響のようだった。


 セーレンは目を閉じた母を見つめた。

 穏やかな顔。

 けれど、もうどんな風の音も届かない。


 炉の火がぱちりと鳴った。

 光が母の顔を照らし、影が揺れる。

 外の風が強くなり、窓を叩いた。

 雪はもう降っていなかった。

 灰色の空の下、ただ風だけが生きていた。


 ヨアヒムは小さく祈りの印を結んだ。

 セーレンはそれを見ながら、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

 祈りが、こんなにも遠いものに見えたのは初めてだった。


 神の沈黙が、部屋の隅まで満ちていた。

 祈りは届かない。

 言葉も、涙も、光も――。


 セーレンはただ、母の手を握り続けた。

 その冷たさの中で、時間が止まっていくのを感じた。


 カスパルは立ち上がり、炉の前に跪いた。

 祈祷書を閉じた手が震えている。

「神は、いつも見ておられる。」

 その声は掠れて、風に消えた。


 セーレンは顔を上げた。

「見てるだけだ。何もしない。」

 小さな声だったが、確かな怒りを帯びていた。


 ヨアヒムが息を呑み、カスパルは視線を逸らした。

 誰も反論しなかった。


 炉の火がぱち、と音を立てた。

 その灯が、母の顔の影を揺らめかせた。


 セーレンは視線を落とし、手の中の青い糸を見つめた。

 母が最後に手渡してくれたもの。

「これは祈りじゃないのよ」と笑った顔が浮かぶ。


 指先が震え、糸がするりと落ちた。

 床にのびた細い線が、光を失っていく。

 セーレンは拾おうとしたが、途中でやめた。

 拾っても、もう何も戻らない。


 風が唸り、窓が軋んだ。

 それはまるで、世界そのものが泣いているようだった。


 ヨアヒムが静かに炉の火を整えた。

 その背中を見ながら、セーレンは思った。


 ――この人も、きっと分かっている。


 祈りも理も、どちらも届かない昼があることを。


 カスパルは母の枕元に座り、

 そっと額に手を当てた。

 魔素がかすかに光り、冷たい肌を撫でた。

 その光は、もはや治癒のためではなかった。


 ただ、別れの祈りとして流れるばかりだった。

「……ありがとう。」

 その言葉を誰に向けたのか、セーレンには分からなかった。


 神にか、妻にか、それとも自分にか。


 けれど、父のその声には、痛みとやすらぎが混じっていた。


 カスパルは立ち上がり、窓の外を見つめた。

「風が止むころ、埋葬を。」

 ヨアヒムは頷いた。


 セーレンはその会話を遠くで聞きながら、

 自分だけが世界に取り残されたように感じていた。


 炉の火が消えかけていた。

 薪をくべようと立ち上がると、手が震えた。

 膝も、唇も、胸の奥の何かも。


 何をしても、母のいない部屋の空気は冷たかった。

 火が消えたら、母の記憶まで凍りついてしまいそうだった。


 セーレンは新しい薪を置き、

 指先に魔素を流して火をつけた。


 光が一瞬、強く揺れ、部屋の影を押しのけた。

 その炎の中に、母の顔が浮かんだ気がした。

 笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。


「……母さん。」

 呼びかけても、返事はなかった。


 風の音だけが、遠くで鳴り続けていた。

 外の世界は灰色だった。


 けれど、セーレンの胸の奥には、

 かすかに青い残像が揺れていた。

 それはまだ“信じる”という言葉にはならなかった。

 ただ、消えない痛みとしてそこにあった。


 ――祈りは死んだ。


 それでも、願いはまだ、胸のどこかで燃えていた。

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