第3節 夢の呼び声
――夢の中。
白い光の海に、レイナは浮かんでいた。
水ではない。
空でもない。
ただ、あたたかくて、境目のない場所。
そこでは、息をしなくてよかった。
鳥の目になって、風を切る。
羽の付け根が少し痛くて、それが生きている証みたいだった。
次の瞬間、土の匂いがして、
小さな虫の身体で、葉の影に隠れる。
世界は大きくて、怖くて、すぐ終わった。
噛まれる感覚。
つぶれる音。
でも、痛みはすぐ遠のいた。
また、別の場所。
林檎を並べる商人の手。
赤い実と、少し傷のある実。
どちらを前に出すか、悩んでいる。
指先が冷えている。
冬が近い。
誰かの胸に顔をうずめる。
石鹸と、汗と、少しだけ懐かしい匂い。
母、という言葉は浮かばないけれど、
この場所は、知っている。
レイナは、たくさんの生を通り抜けていた。
選んだわけじゃない。
望んだわけでもない。
ただ、そうなっていた。
ずっと一緒にいる“何か”があった。
声ではない。
言葉もない。
光が揺れる感じ。
水面に指を入れたときの、かすかな抵抗。
楽しくて、心地よかった。
ここにいれば、
何も考えなくていい。
――そのはずだった。
突然、引っ張られた。
水から引き上げられるみたいに、
身体と意識が、ずれた。
光が遠のく。
目を、開ける。
まぶしい。
世界は、まだ形を思い出していないみたいだった。
天井。
白い石。
冷たい空気。
息をすると、胸が少し痛んだ。
(……あ)
何か、言おうとした。
口を開く。
でも、声が出ない。
喉が、ざらりと擦れた。
——かわいている。
そう思った瞬間、
身体より先に、心が動いた。
(……みず)
声にならないその思いは、
お願いみたいに、外へ滲んだ。
すると、空気の中で、
小さな光が、きらりと揺れた。
ひとつ。
ふたつ。
粉みたいに細かくて、
呼吸に合わせて、脈を打っている。
(……これ)
触れなくても、わかる。
さっきまで、ずっと一緒にいたもの。
夢の中で、
鳥になったときも、
虫になったときも、
母の匂いに包まれたときも。
(ひかり)
(いのちの、そばにある)
(祈りと一緒にあったもの)
レイナは、喉を鳴らした。
「…まそ」
光の粒が、少しだけ集まる。
冷たい感覚が、胸の奥を通り抜けた。
それで、十分だった。
身体が、少し軽くなる。
手を見る。
小さな手。
私の手だ。
立ち上がると、足元がふらついた。
光の粒たちが、ざわつく。
急かすわけでも、
引っ張るわけでもない。
ただ、
ここにいない誰かのほうを向いている。
ひとりで。
長いあいだ。
世界を、数字だけで見るだけだった誰か。
命が灯って、消えるのを、
遠くから数えていただけの誰か。
レイナは、小さく息を吸った。
楽しいことも、
怖いことも、
ぜんぶ思いでできてるんだよ。
世界はね、
思いがあるから
あんなにも綺麗だったんだよ。
レイナは、雪の中へ歩き出した。
理由は、はっきりしていた。
会いに行く。
またひとりぼっちになってしまった誰かに。
止まってしまった誰かに。
ただ、
隣に立つために。




