第2節 出発
トーマ達から別れ一時間ほど。
帝都の夕暮れは、まだ冷たい。
沈みきらない光が石畳に残り、
街全体が、どこか落ち着かない色をしている。
セーレンは、長距離馬車の発着所で
翌朝一番の便の手続きを終えた。
書類を受け取り、
署名を済ませる。
それだけの動作が、
やけに現実味を伴っていた。
発着所は、まだ帝都の中にある。
城壁の内側。
研究棟からも、兵舎からも遠くない。
だが、
今は戻らない場所になった。
待合には、数人の旅人がいた。
皆、声を潜め、
それぞれの荷を足元に置いている。
兵士の姿も混じっていた。
だが、休暇帰りの顔ではない。
腰に下げた薬瓶。
無駄に揃った動作。
視線の硬さ。
(……始まっている)
誰も口にはしない。
だが、
何かが動き出していることだけは、
はっきりと伝わってくる。
セーレンは、外套を着たまま、
待合の柱のそばに腰を下ろした。
そのときだった。
「……やっぱり、あなた」
振り向くと、エレナが立っていた。
籠を手にしている。
買い物の途中なのだろう。
発着所に用事がある様子ではない。
「久しぶりね」
その声に、
胸の奥が、わずかに緩んだ。
エレナは、
セーレンの顔を見るなり、
小さく息をついた。
「……痩せたわね」
責める調子ではなかった。
驚きでもない。
ただ、しみじみとした、
生活の側から出てくる言葉だった。
「うちに寄る暇は、なさそうね」
セーレンは、否定しなかった。
エレナは籠から布包みを取り出し、
紙袋に入れて差し出した。
「明日の朝ごはんになる予定だった物だけど」
少しだけ、言い訳するように続ける。
「これで、サンドイッチくらいは作れるでしょう」
紙袋の重みが、
手のひらに伝わる。
食べ物の重さ。
今日を越えるための、現実の重さ。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ震えた。
エレナは、それに触れなかった。
「ルドルフも、会いたがってるわ」
穏やかな声で言う。
「今度は、ご飯を食べに寄ってね」
“今度”という言葉に、
約束は含まれていない。
それでも、
戻れる場所があるという事実だけが、
静かに置かれる。
「……はい」
それだけで、十分だった。
エレナはそれ以上何も言わず、
籠を持ち直して歩き去った。
人の流れに溶け、
生活の匂いだけが、わずかに残る。
セーレンは、紙袋を膝に置き、
しばらく動けずにいた。
祈りではない。
答えでもない。
ただ、
生きている側から渡されたもの。
夜が、帝都に降りてきた。
待合の魔素灯が、ひとつ、またひとつと点る。
帝都は、セーレンにとってもっとも好きな街だった。
それは感傷ではない。
事実として、ここには理があり、祈りがあり、そして生活があった。
研究所では、問いが許されていた。
どれほど突飛な仮説でも、筋道さえ立てれば、笑われることはなかった。
トーマと議論を交わし、時に声を荒げ、最後には互いのノートを突き合わせる。
理解されること。
理解しようとされること。
それが、こんなにも人を生かすのだと、帝都で初めて知った。
街に出れば、祈りがあった。
鐘の音が朝と夜を区切り、名も知らぬ人々が同じ方向を向いて立ち止まる。
それは研究とは異なる秩序で、
正しさではなく、続いていくことを選び取るための行為だった。
そして、生活があった。
パンを焼く匂い。
洗濯物の間を縫う風。
道端で交わされる、意味のない会話。
エレナが差し出した、明日の朝のための食料。
「これでサンドイッチくらいは作れるでしょう」と、当たり前のように言う声。
帝都は、世界の中心などではない。
だが、セーレンにとっては、
理と祈りと生活が、
同じ地平に並んで存在する、
稀有な場所だった。
だからこそ、ここを離れる。
捨てるのではない。
見限るのでもない。
やるべきことを、終わらせるためだ。
セーレンは知っている。
自分は、まだ戻ってこられる人間ではない。
この街で交わされた言葉に、
この街で受け取った理解に、
今の自分は、まだ応えきれていない。
トーマに会うだろう。
必ず会う。
エレナとルドルフの家で、食事をし、泊まる日も来る。
それは約束ではなく、確信だった。
だが、それは「やり終えてから」だ。
帝都は、再び人に会うための街になる。
問いを持ち帰り、答えを携えて、戻ってくる場所になる。
だが、今ではない。
夜が深まる。
この時間、
かつては遠くで鐘のなる音だけが聞こえていた。
今も、鳴ってはいるのだろう。
だが——
馬のいななき、
荷を運ぶ音、
金属が触れ合う音に、
その音は、かき消されている。
それでも、
ここではまだ、
人は眠り、
食事をし、
次の朝を待つ。
セーレンは、壁に背を預け、
外套の襟を立てた。
戦争の気配が漂っている。
(理解では、もう止められない)
それは、はっきり分かっている。
だが、
理解できなくても、
行かなければならない。
止めるべきものがある。
それだけが、
今の自分を前に進ませている。
紙袋を抱え、
目を閉じる。
発着所の夜は浅い。
誰も、深くは眠らない。
それでも、
体を休めることはできる。
翌朝、
ここから出る。
帝都を離れ、
中央国家へ向かう。
セーレンは、
静かな待合で、
その夜を過ごすことにした。
まだ街の中にいながら。




