第1節 トーマの苦悩
帝都の研究棟。
班長代理となったトーマは、机に資料を広げていた。
魔素適合値の測定データ。
軍部からの要請書。
そして——小瓶に入った、赤黒い液体。
「魔素適合性向上計画」
そう呼ばれている。
表向きには、魔素を向上させる薬。
だが——
トーマは、小瓶を手に取った。
粘度のある液体が、
光を透かして鈍く光る。
(……これ、本当に薬か?)
最近、妙に体力のある兵士が増えた。
疲れを知らない動き。
異様な回復力。
そして——
時折見せる、人間らしくない反応。
(俺たちは、何を研究させられてるんだ)
戦争の気配が、近づいている。
それは、肌で感じていた。
トーマは、小瓶を机に置いた。
(……怖い)
その感情を、認めたくなかった。
でも——
魔獣の記憶が、蘇る。
幼い頃、村を襲った魔獣。
黒い影。
赤い目。
人を襲う、という目的だけに突き動かされた動き。
あの恐怖が、
今、また近づいている気がした。
扉をノックする音がした。
「どうぞ」
マルクとアデルが入ってきた。
アデルは、赤ん坊を抱いている。
「アデルも来たのか」
トーマは、立ち上がった。
「ええ。セーレンが来るって聞いて」
アデルは、子どもをあやしながら言った。
「久しぶりにみんな揃うのね」
マルクが、窓の外を見た。
「新しい技術、楽しめたかな」
「……どうだろうな」
トーマは、小瓶を見ながら応えた。
出向直前のセーレンの顔を、
言葉少ない手紙のことを、
思い出していた。
足音が聞こえた。
廊下を歩いてくる、静かな足音。
扉が開く。
セーレンが、そこに立っていた。
五年ぶりの姿。
元々、細見の男だったが、
さらに痩せている。
顔色も悪い。
目の下に隈がある。
でも——
目には、あの異端者の谷で消えてしまった、
光のような何かが、
再び光っていた。
「……久しぶり」
セーレンの声は、低く、静かだった。
「セーレン」
トーマが、一歩前に出た。
その視線が、セーレンの首元に向かう。
マフラー。
茶色い、編み込みのマフラー。
一昨年の秋、送ったもの。
「……それ、使ってくれてたんだな」
トーマの目が、わずかに細まった。
「ああ」
セーレンは、マフラーに手を触れた。
「暖かいよ」
その一言に、トーマの胸が温かくなった。
「セーレン!」
アデルが、赤ん坊を抱いたまま近づいてきた。
「久しぶり。手紙で結婚は知ってたでしょ?」
「……ああ」
セーレンは、視線を落とした。
赤ん坊が、小さな手を動かしている。
「この子は?」
「うちの子。生まれて半年」
アデルは、誇らしげに笑った。
「……そうか」
セーレンは、赤ん坊を見つめた。
小さな手。
柔らかそうな頬。
無垢な目。
「おめでとう」
その言葉が、今度は素直に出た。
アデルは、微笑んだ。
「ありがとう」
「座れよ」
トーマが、椅子を引いた。
セーレンは、頷いて座った。
アデルも座り、
マルクは壁に寄りかかった。
しばらく、沈黙があった。
五年前、
この部屋で、
四人は一緒に働いていた。
セーレンが班長代理で、
トーマ、マルク、アデルがメンバーだった。
あの頃は——
笑っていた。
未来があると信じていた。
でも、今——
トーマは、机の上の小瓶を手に取った。
「……話さなきゃいけないことがある」
その声は、重かった。
セーレンは、トーマの顔を見た。
「手紙に書いてあった。
魔素適合性向上計画、だったか」
「ああ」
トーマは、小瓶をセーレンに差し出した。
「これを、見てくれ」
セーレンは、小瓶を手に取った。
赤黒い液体。
粘度がある。
わずかに濁っている。
その瞬間——
背筋が凍った。
(……これは)
「表向きには、魔素を向上させる薬ってことになってる」
トーマの声が、落ちてくる。
「でも、俺は——
魔獣の血なんじゃないかって疑ってる」
セーレンの手が、震えた。
魔獣。
中央国家で、何度も対峙した。
羊が変異したもの。
犬が変異したもの。
鳥が変異したもの。
魔素濃度が異常に高く、
生き物を変容させる。
そして——
人を襲う、という目的に突き動かされる。
連携した動き。
恐ろしい執着。
セーレンは、その処理を何度も行ってきた。
そして、知っている。
魔獣の血から魔素を抽出する試みは、
ヨアヒムを始め、
中央国家でも過去に行われてきた。
だが——
不安定な物質は、
新たな魔獣を産むばかりで、
否定された研究だった。
「……トーマ」
セーレンの声が、かすれる。
「これを、人に?」
「ああ」
トーマは、目を伏せた。
「上が何を企んでるのか、
何をしようとしてるのか——
正直、俺は怖いよ」
その言葉が、胸に刺さった。
トーマが「怖い」と言う。
いつも明るく、
いつも前向きだった男が。
セーレンは、小瓶を見つめた。
(……そんなものを注入し続ければ)
人が壊れる。
「知ってるのか」
トーマが、セーレンを見た。
「……ああ」
セーレンは、小さく頷いた。
「……間違いない」
沈黙が、部屋を満たした。
アデルが、赤ん坊を抱きしめる。
その小さな手を見つめながら、
セーレンは思った。
(止めなければ)
でも——
(どうやって)
「もう一つ、ある」
マルクが、口を開いた。
「教皇が聖都を離れた」
セーレンの目が、見開かれた。
「……教皇が?」
「ああ。
もし、何かが起こるなら——
この隙だと思う」
「どこに?」
セーレンが問う。
「中央国家よ」
アデルの応えに、
セーレンの胸が凍った。
あの晩餐会。
貴族の女性が言っていた。
「聖女を迎える準備をしている」
——その意味が。
(まさか)
「中央国家で、
聖女再現計画が——
もう一度、実行されようとしている」
セーレンの声が、震えた。
「聖女再現計画?」
「……ああ」
セーレンは、目を閉じた。
言わなければならない。
もう、隠せない。
「白衣会が、かつて行った計画だ」
声が、かすれる。
「液体魔素を使って、
聖女を人工的に再現しようとする試み」
トーマの目が、見開かれた。
「それは——」
「失敗した」
セーレンは、目を開けた。
「犠牲者を出して、
計画は破棄された」
「……犠牲者?」
アデルの声が、震えた。
「ああ」
セーレンは、頷いた。
「ただの女の子が死んだ」
沈黙。
「僕の、レポートが使われた」
重い、沈黙。
セーレンの声は、もう聞こえないほど小さかった。
「十七歳のとき、
僕が書いた魔素適合値の分析。
それが、試験体の選定に使われた。
レイナが、選ばれた。
そして——死んだ」
「……セーレン」
トーマが、立ち上がった。
「おまえ、それであの時——
ずっと、一人で」
セーレンは、何も言えなかった。
ただ、小瓶を握りしめた。
「帝国も、中央国家も——
同じことをしようとしている」
セーレンは、顔を上げた。
「でも、帝国の技術では、
液体魔素の精製は不可能だ。
だから——
魔獣の血を使おうとしている」
「……くそ」
マルクが、壁を叩いた。
「じゃあ、僕たちは——」
「魔獣を作ろうとしている」
セーレンの声が、落ちた。
「人間を、魔獣に変えようとしている」
アデルの赤ん坊が、小さな声を出した。
笑っているような、
そんな声。
セーレンは、その声を聞きながら、
目を閉じた。
(……守らなければ)
この子の未来を。
この世界を。
「魔獣の血だとわかっただけで十分だ」
トーマが、セーレンの肩に手を置いた。
「あとは俺たちでなんとかする。
こう見えて、伝手はできてきてんだ」
その声は、強かった。
「帝国の未来は、俺たちが守る」
トーマは、まっすぐにセーレンを見た。
「お前は、中央国家へ行け」
セーレンは、トーマの顔を見た。
まっすぐな目。
五年前と、変わらない目。
「……ありがとう」
その言葉が、出た。
トーマは、小さく微笑んだ。
「マフラー、大事にしろよ」
「ああ」
セーレンは、マフラーに手を触れた。
「ずっと」
セーレンは、立ち上がった。
「……行ってくる」
アデルが、赤ん坊を抱いて立ち上がった。
「気をつけてね、セーレン」
「……ああ」
マルクが、手を上げた。
「無事に戻ってこいよ」
「ああ」
セーレンは、扉へ向かった。
振り返ると、
三人が立っていた。
トーマ。
マルク。
アデル。
そして、小さな命。
「……またな」
その言葉を残して、
セーレンは研究棟を出た。
外では、夕焼けが街を染めていた。
オレンジ色の光が、
建物の壁を照らし、
影を長く伸ばしている。
アデルの子どもの、
あの笑い声が、
まだ耳に残っていた。
セーレンは、深く息を吐いた。
(……レイナ)
もう一度、向き合わなければならない。
あの日、
自分が何をしたのか。
そして——
何ができるのか。
中央国家へ。
もう一度。
前を向く。
道は、まだ続いている。




