第6節 雪解け
春の雨が降り始めたのは、それから数日後のことだった。
静かに、しかし絶え間なく。
雨が、残っていた白を洗い流していく。
屋根から。
軒先から。
地面から。
白が溶け、
土が現れ、
灰色の世界に、茶色が戻ってくる。
セーレンは、窓を開けた。
冷たい風が、部屋に入ってくる。
雨の匂い。
土の匂い。
草の匂い。
生きている世界の、匂いだった。
その日の夕方、足音が聞こえてきた。
重い足音。
雨の中を歩いてくる音。
戸が開く。
「帰った」
父の声だった。
カスパルは、雨に濡れた外套を脱ぎながら、
息子の顔を見て、
何かを察したように小さく頷いた。
荷物を降ろす音。
薪を足す音。
水を沸かす音。
生活の音が、戻ってきた。
カスパルは、まず外の薪置き場を見た。
積まれたままの薪。
ほとんど減っていない。
(……寒かったはずなのに)
次に、食品庫を開けた。
乾燥肉。
固いパン。
穀物。
どれも、一ヶ月前と、さほど変わらない量だった。
(……一人分としても、少なすぎる)
カスパルは、息子の方を見た。
痩せている。
顔色も悪い。
だが——
生きている。
「……よく、耐えたな」
その一言だけで、
セーレンの喉の奥が熱くなった。
答えようとして、
言葉が出ない。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
「町から、お前宛ての手紙を預かってきた」
カスパルは、封書を二通取り出した。
「一通は、トーマから。
もう一通は——ヨアヒムからだ」
セーレンの手が、止まった。
「……叔父さんから?」
「ああ。私宛てだ。
読んでみるか」
カスパルは、一通目を差し出した。
兄さんへ。
ある村で医者をしている。
自分が医者になるなんて思わなかった。
村の人々は温かい。
診療所に来る子どもたちが、"先生"と呼んでくれる。
兄さんの凄さが、ようやく分かった。
理で病を解き、祈りで心を癒す。
その両方が、医者には必要だと。
理だけでは、人は救えない。
祈りだけでも、人は救えない。
兄さんは、それを知っていたのだろう。
僕は、理に溺れた。
その報いを、今も背負っている。
Rからの時計は、まだ動いている。
あの音を聞くたび、あの頃に戻れるような気がする。
もし、もう一度やり直せるなら——
兄さんのように、理解した上で祈る者でありたい。
――ヨアヒム
読み終えたあと、しばらく沈黙が続いた。
「……叔父さんは、きっと慕われてただろうね」
「ああ」
カスパルの声は静かだった。
「あいつは、理で人を救おうとして——
結局、祈りの側に辿り着いたんだろう」
「祈りの側、に?」
「医者というのは、そういうものだ。
理で病を解いても、人の心までは治せない。
祈りがなければ——
いや、祈ろうとする姿勢がなければ、
人は救えない」
カスパルは窓の外を見た。
雨音が静かに響いている。
「ヨアヒムは、それを分かったんだろう。
遅すぎたかもしれん。
完全には辿り着けなかったかもしれん。
だが——
あいつなりに、やり直そうとしていた。
それで、いいんじゃないか」
セーレンは、父の横顔を見た。
カスパルの目には、
弟への信頼と——
わずかな安堵のようなものが浮かんでいた。
「お前も、そうだ」
カスパルは息子の方を向いた。
「完全に辿り着けなくても、
やり直そうとする——
それで、十分だ」
セーレンは何も言えなかった。
喉の奥に、何かが詰まっている。
それが涙なのか、言葉なのか、
自分でも分からなかった。
「もう一通も、読むか」
カスパルは、二通目を差し出した。
トーマの字だった。
セーレンへ。
叔父さんが亡くなったと聞いた。
もし帝国にいるなら、一度会いたい。
帝国では今、魔素適合性向上計画っていう
体内の魔素を強化する研究が進んでいる。
軍部が動いている。
何か、よくないことが起きそうだ。
お前が何か知っていたら、教えてほしい。
急がなくていい。
ただ、帰ってこられる場所は、まだここにある。
――トーマ
手紙を読み終え、
セーレンは二通の手紙を握りしめた。
ヨアヒムは、理の果てで祈りに降伏した。
トーマは、帝国で何かが起きていることを察している。
自分の理論が、どこで、どう使われているのか——
もう、目を逸らすことはできない。
セーレンは、懐中時計をもう一度取り出した。
止まった針。
ヨアヒムは、これを最後まで持っていた。
壊れていても、止まっていても、手放さなかった。
(……それは、執着だったのか)
トーマからの手紙を見る。
「帰ってこられる場所は、まだここにある」
(僕には、まだある)
ヨアヒムには——
もう、なかったのだろうか。
それとも——
(時計が止まっても、繋がりは消えない)
そう信じていたのだろうか。
答えは出ない。
ただ、
懐中時計を握りしめたまま、
セーレンは窓の外を見た。
雨音が、静かに響いている。
止まった時間の先に、
また時間が流れ始めている。
(僕も、動き出せるだろうか)
そう思いながら、
懐中時計を懐にしまった。
金属が、少しだけ温かくなっていた。
セーレンは、窓の外を見た。
雨が降り続けている。
「……雨がやんだら、帝国に行く」
静かな声だった。
カスパルは、息子の横顔を見た。
「そうか」
短い返事。
それから、間を置いて——
「なら、しっかり休め」
セーレンは、父の方を向いた。
カスパルは、理由を聞こうともしなかった。
止めようともしなかった。
ただ、立ち上がり、
台所へ向かった。
カスパルは、棚から乾燥肉を取り出した。
次に、穀物。
保存してあった根菜。
薬草。
それらを手際よく調理し始める。
薪を足す音。
鍋を火にかける音。
包丁で何かを刻む音。
セーレンは、その音を聞いていた。
何年ぶりだろう。
誰かが、
自分のために、
何かをしてくれる。
その事実が、
妙に新鮮だった。
やがて、湯気が立ち上った。
スープの匂い。
肉の匂い。
薬草の匂い。
「食え」
カスパルは、椀を差し出した。
セーレンは、受け取った。
温かい。
その温度が、手のひらから伝わってくる。
口をつける。
味がした。
何週間ぶりに、
ちゃんと味がした。
「……美味い」
その言葉が、自然に出た。
カスパルは、小さく頷いた。
「明日も作る。
雨がやむまで、ちゃんと食え」
「……ああ」
セーレンは、ゆっくりとスープを飲んだ。
体の中に、温かさが広がっていく。
食事の後、カスパルは革袋を取り出した。
「これも飲め」
咳止めの薬だった。
セーレンは、素直に受け取った。
粉薬を口に含む。
水で流し込む。
苦い。
でも、もう億劫ではなかった。
「雨がやむまでに、体を整えろ。
長旅になるんだろう」
「……ああ」
カスパルは、それ以上何も言わなかった。
ただ、暖炉に薪を足し、
部屋を温め続けた。
その夜、二人は暖炉の前に座っていた。
外では、まだ雨が降っている。
セーレンは、炎を見つめていた。
カスパルも、同じように炎を見ている。
言葉は、なかった。
問いも、答えも。
ただ、
二人並んで、
雨音と炎の音を聞いている。
それだけだった。
やがて、カスパルが立ち上がった。
薪を足す。
炎が、少し大きくなる。
それから、また座る。
沈黙が、戻ってくる。
どれくらい、そうしていたのか。
時間の感覚が、曖昧だった。
やがて、セーレンが立ち上がった。
「……寝る」
「ああ」
カスパルは、頷いただけだった。
セーレンは、自分の寝床へ向かった。
背後で、カスパルが暖炉の火を調整する音がした。
それが、この夜の会話の全てだった。
翌朝、目を覚ますと、
暖炉の火が既に起きていた。
カスパルが、先に起きて薪を足したのだろう。
台所から、何かを煮る匂いがする。
セーレンは、起き上がった。
「起きたか」
カスパルは、椀を差し出した。
昨日と同じスープ。
でも、昨日より具が多い。
「食え」
セーレンは、黙って受け取った。
温かい。
ゆっくりと飲む。
「……美味い」
「明日も作る」
短い会話。
それだけで、十分だった。
三日後、雨がやんだ。
朝、窓を開けると、
空が明るかった。
灰色ではない。
わずかに、青が混じっている。
地面は泥濘んでいるが、
雨に洗われて、
色が鮮やかになっていた。
土の茶色。
木々の黒。
草の緑。
世界に、色が戻っていた。
セーレンは、荷物をまとめた。
旅支度の鞄。
ヨアヒムの遺品。
懐中時計。
そして——
マフラーを取り出した。
トーマからの贈り物。
中央国家で受け取ったとき、
これは灰色だと思っていた。
でも——
「……茶色だったのか」
灰色だと思っていた糸に、
わずかに暖かい色が混じっている。
セーレンは、マフラーを首に巻いた。
少しだけ、温かい。
カスパルが、戸口に立っていた。
「行くのか」
「ああ」
セーレンは、鞄を肩にかけた。
「気をつけてな」
短い言葉。
セーレンは、父の顔を見た。
言葉を探す。
何度も、喉まで出かかって、
また引っ込む。
(……言わなきゃ)
(でも)
(どう言えば)
やがて——
「……ありがとう」
その言葉が、ようやく出た。
小さく、かすれた声だった。
でも、確かに言えた。
カスパルは、小さく微笑んだ。
「いってこい、セーレン」
セーレンは、灰の家を出た。
足元の泥が、靴を濡らす。
空気が、冷たい。
でも、悪くない。
振り返ると、
カスパルが手を上げていた。
セーレンも、小さく手を上げた。
それから、前を向いて歩き出した。
道は、まだ泥濘んでいる。
でも、進める。
一歩ずつ、
確実に。
空の青が、少しずつ広がっていく。
セーレンは、帝都へ向かって歩き続けた。




