第5節 崩壊
雪は、降り続いていた。
降り始めた日を、セーレンはもう覚えていない。
最初の週は、
まだ日付を数えていた。
廃教会で見つけた
ヨアヒムの残した手記とバツの書かれた3枚の紙。
まず、手記を読む。
ヨアヒムが液体魔素について、試行錯誤を繰り返す様子が読み取れた。
走り書き。
消された数式。
ヨアヒムの研究記録だった。
白衣会を追放される直前のものまで。
セーレンは、最初は淡々とそれを読んでいた。
懐かしさすらあった。
——この筆跡。
——この式の癖。
だが、ページを進めるうちに、
違和感が生じた。
セーレンが中央国家で発表したものと、
似た内容がいくつかあった。
手が、止まる。
この手記は、
十年前のものだ。
自分がこれらを発見したのは、
直近の四年。
(師が、先に?)
胸が、ざわつく。
しかし、
先行研究のリストには、
なかった。
どこにも。
ヨアヒムの名前も、
これらの理論も。
(ないはずなのに)
(なぜ、ここにある)
息が、浅くなる。
(もしや)
(発表しなかった?)
(なぜ)
視界の端で、
何かが揺れた。
人の、形。
横たわっている。
誰かは、わからない。
ただ、
息が詰まる。
折りたたまれた三枚の紙を見やる。
手が、震える。
赤インクで、大きく引かれた「×」。
裏返した瞬間、
世界が、止まった。
魔素の収束。
人体への適合。
制御機構の閾値。
——知っている。
——いや、違う。
使っている。
今。
自分が。
ヨアヒムの走り書きの横に、
短いメモがあった。
――この三つがなければ、
液体魔素は再現できない。
私は、これを世界に残さない。
(残さない)
(世界に)
(液体魔素)
(聖女再現計画)
(僕が)
(穴を)
全てが、
一瞬で繋がった。
セーレンは、紙を置いた。
置いたのか、
落としたのか、
分からない。
(埋めた)
(僕が、埋めた)
声が、出ない。
ヨアヒムが壊した封印を、
自分が修復した。
液体魔素を再現させないために、
彼が抜いた部品を、
別の理論で補ってしまった。
(完成させた……)
その日から、
セーレンは一日中、机に向かっていた。
二週目には、
日を数えるのもやめた。
今が何日目なのか、
分からない。
ただ、窓の外が白く、
音が少なくなり、
時間の手触りが失われていったことだけは分かる。
灰の家は、完全に閉ざされていた。
朝と夜の境目は曖昧で、
目を閉じて、また開くと、
同じ白がそこにある。
紙を広げ、
計算をし、
書き直し、
破った。
——知らなかった。
——意図していない。
——応用したのは他者だ。
言葉を並べる。
理屈を組み立てる。
「科学は中立だ」
「理論そのものに罪はない」
口に出す。
何度も。
だが、
言うたびに、
胸の奥が軋んだ。
ペン先が紙を滑る。
式を書く。
消す。
また書く。
(僕は、ただ欠損を埋めただけだ)
(誰かがやった)
(いつか、誰かが)
指先が、震える。
紙が破れる。
——でも。
——最初に道を作ったのは。
その思考を、必死に振り払う。
理性で。
論理で。
理由を積み上げれば、
この重さから逃れられると信じて。
一週間が経った。
咳が、ひどくなっていた。
食事は、一日に一度。
それすら、
喉を通らない日もあった。
革袋の薬は、
机の端に置いたままだ。
(飲めば、楽になる)
分かっている。
だが、
楽になって、
また考えるのか。
それが、
嫌だった。
三週目に入ると、
セーレンは眠れなくなった。
目を閉じると、
式が浮かぶ。
開くと、
雪が降っている。
父の診療記録を読み返し、
ヨアヒムの手帳を開き、
また閉じる。
ある夜、
レイナの顔が浮かんだ。
力なく横たわる、
あの目。
その光景を僕自身は見ていない。
僕の頭が勝手に作った幻だ。
(彼女は……)
(犠牲者だ)
虚ろな瞳は、僕の首を絞める。
息苦しい。
だが、すぐに別の考えが浮かぶ。
(でも、聖女再現計画は)
(本当に、悪だったのか?)
紙を取り出す。
——聖女が再現できれば、世界は救われる。
——魔素災害は、防げるようになる。
——多くの命が、助かる。
文字を書く。
手が、止まらない。
——僕の理論がなければ、それは実現しなかった。
——つまり、僕は間接的に世界を救う可能性に貢献した。
水溜まりの上を、跳ねただけだ。
雨上がりの道で、
子供が、ただ楽しくて跳ねるように。
水を飛ばすつもりはなかった。
誰かを濡らす意図もなかった。
ただ、跳んだだけだ。
だが、跳べば水は跳ねる。
それは、選べない。
その水が、
誰にかかるかも。
書き終えた瞬間、
吐き気がした。
(……何を)
(何を言っている)
紙を、握りつぶす。
だが、
握りつぶしても、
言葉は消えない。
頭の中で、
同じことが繰り返される。
(でも、間違ってはいない)
(論理的には、正しい)
(なら、なぜ)
(なぜ、こんなに)
咳が出る。
止まらない。
床に、
何かが落ちた音がした。
見ると、
血が混じっていた。
四週目。
雪は、まだ降っている。
炉の火が、
何度も消えた。
薪を足す気力が、
なくなっていた。
部屋が、冷えていく。
それでも、
机に向かった。
紙の上に、
また言葉を並べる。
理屈を、組み立てる。
だが、
書けば書くほど、
文字が空虚に見えた。
時間が、
分からなくなる。
さっき考えていたことが、
思い出せない。
紙に書いた文字が、
ただの線に見える。
また、
レイナの顔が浮かぶ。
今度は、
その横に。
第二の。
第三の。
知らない顔が、並ぶ。
(……違う)
そう思おうとする。
(僕がやったわけじゃない)
だが、
最初にその道を開いたのは、
確かに自分だった。
(でも、僕が何もしなくても)
(誰かが、いつか)
言葉が、軽い。
まるで、
手のひらに乗せた瞬間、
風に飛んでいくような。
その軽さが、
自分に何かを突きつけてくる。
雪が降り続く。
炉の火は、弱くなり、
また薪を足し、
それでも、すぐに小さくなる。
五週目に入った頃、
ある夜、
ふと手が止まった。
「どうして……」
声が、落ちる。
「どうして、あのとき論文を出した?」
答えは、いくつも思いついた。
役に立ちたかった。
贖いたかった。
理性で、世界を正せると思った。
だが、それがどうなった?
紙をめくる。
もう一度、理由を並べる。
——魔素災害を防げる者が増えた。
——医療技術が進んだ。
——知識は、本来中立だ。
言葉は、出てくる。
だが、
どれも軽かった。
(これは……)
(嘘だ)
声にならない。
(でも、本当のことも言っている)
(じゃあ、何が違う?)
答えが、出ない。
もう一度、言葉を探す。
——科学は、使う者次第だ。
——僕は、悪意を持っていなかった。
出てくる。
すぐに、消える。
レイナの顔が、
また浮かぶ。
(彼女は……)
(僕が、殺したのか?)
その問いに、
答えられない。
(殺してはいない)
(でも)
(……)
言葉が、
続かない。
(……他には)
思いつかない。
(もっと、何か)
何も、ない。
何日目か、
もう分からない。
咳が、ひどくなった。
革袋は、
机の端に置いたままだ。
(飲めば、少しは楽になる)
分かっている。
だが、
体を楽にして、
何をする?
再び、考えるのか。
再び、
言い訳を組み立てるのか。
それが、
ひどく億劫だった。
立ち上がろうとして、
膝が折れた。
床に手をついた。
冷たい。
いつから、
こんなに冷えていたのか。
炉の火が、
消えている。
薪を、
足さなければ。
だが、
体が動かない。
そのまま、
床に座り込んだ。
窓の外で、
雪が降り続けている。
どれくらい、
そうしていたのか。
分からない。
気づくと、
また机の前にいた。
紙の上の文字が、
意味を失っていく。
理論。
公式。
論理。
それらは、確かにそこにある。
だが、
それが何なのか、
もう分からなかった。
(僕が何を書いても)
(世界は、変わらない)
(いや……)
(変わってしまった)
(僕が、変えてしまった)
ペンが、手から落ちる。
音もなく。
(……)
(……結局)
(僕は)
(……)
(正しい側に、立ちたかっただけ)
その考えが浮かんだ瞬間、
もう何も、
思いつかなかった。
言葉が、
どこにもなかった。
逃げる場所が、
なかった。
雪の音だけが、
家を包んでいた。
やがて、
その音すら、消えた。
いつからか、
外が静かになっている。
雪は、止んでいた。
窓の外に、
灰色の空が、薄く覗いている。
何日が経ったのか、
分からない。
世界がどうなっているかも、
気にならなかった。
机の上に、
ヨアヒムの手記がある。
その横に、
自分の計算紙。
セーレンの手から、
何かが滑る。
理性という名のロープ。
その先に繋がっていたのは、
正しい場所ではなかった。
レイナと、
同じ場所。
自分は、
ずっと間違った方向へ進みながら、
必死に、
その方向を「正しい」と呼ぼうとしていた。
手を開く。
ロープが、
指の間から落ちていく。
足元には、
何もない。
セーレンは、
落ちていった。
叫びも、
言葉も、
なかった。
雪がどさりと落ちる音がした。
残ったのは、
ただ、ひとつのことだけだった。
(世界は、僕が何をしても動く)
(僕が、何もしなくても)
(父は言った)
(「あいつは、満足していたんだろう」)
(本当に、そうだったのか)
手記の最後の言葉。
「理解した上で、なお祈る者でありたい」
(願望形だ)
(到達していない)
(でも——)
父の声が、耳の奥で蘇る。
「それで十分だ」
(十分……?)
(それで十分なのか)
(祈ろうとしただけで、十分なのか)
セーレンは、その問いに答えられなかった。
理性は「不十分だ」と囁く。
だが、理性の向こうで——
何か別のものが、静かに光っているような気がした。
それが何なのか、
まだ名前をつけることはできない。
外の世界がどうなっているかも、
もう気にならない。
「世界は、僕が何をしても動く。
僕が何もしなくても、動く。」
声に出してみた。
理性を武器にしてきた男が、
初めてその理性を"置く"瞬間、
言葉が消え、沈黙が生まれた。
窓の外では、
うっすらと灰色の空が顔を出し始めていた。
セーレンは、ただ窓際に座り、
その空を見つめていた。
思考は止まっている。
判断もしない。
動けない。
ただ——
世界が動く音だけを、聞いていた。
世界が動く音だけを、聞いていた。
ふと、机の端に視線が向いた。
革袋が、そこにある。
セーレンは、手を伸ばした。
理由は、分からない。
考えたわけでもない。
ただ、手が動いた。
粉薬を口に含む。
水で流し込む。
苦い。
喉の奥に、冷たさが広がる。
咳は、すぐには止まらなかった。
それから、セーレンは動くようになった。
考えてはいない。
ただ、動いた。
暖炉に薪を足す。
棚から乾燥肉を取り出す。
湯を沸かす。
口に運ぶ。
味は、しない。
空腹も、感じない。
ただ、
身体が必要としているから、
そうした。
夜になれば、床に就く。
朝になれば、起きる。
思考は、まだ戻らない。
問いも、
答えも、
どこかへ行ってしまった。
部屋の中を歩く。
窓の外を見る。
また座る。
何日が経ったのか、
分からない。
ある朝、水の音で目を覚ました。
屋根から、雪解けの雫が滴る音。
窓を開けると、
外の世界は少しずつ白から灰色へと戻り始めていた。
セーレンは、外に出た。
足元の雪は柔らかく、
靴が沈む。
空気が、少しだけ温かい。
(……春が、来る)
その予感が、胸の奥で小さく鳴った。
まだ、動けない。
まだ、答えは出ていない。
でも——
世界は、動き続けている。
セーレンは、その音を聞きながら、
ゆっくりと息を吐いた。
白い吐息が、灰色の空に溶けていく。




