表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第5章 灰の家

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/47

第4節 冬のはじまり

 翌朝、カスパルは、

 息子の顔を見て、何かを察した。


 セーレンは、昨夜から机の前に座ったままだった。


 手記は、机の上に置かれている。

 開いた痕跡はない。


 ただ、そこに置いてある。


 触れることも、

 読むことも、

 できないまま。


 暖炉の火は、ほとんど消えかけていた。


 カスパルは、黙って薪を足した。


 炎が、ゆっくりと大きくなる。


 セーレンは、それを見ているようで、

 見ていなかった。


 視線は、どこか遠くを向いている。


 カスパルは、息子の肩に手を置こうとして——

 やめた。


 (……今は、触れない方がいい)


 そう思った。


 一人の時間が、必要なのだろう。


「街で、特に用がないならだが」


 カスパルは、そう前置きしてから言った。


「お前は、この家で過ごすといい。

 冬支度はしてある。  

 私は街に呼ばれている」  


 セーレンが僅かに頷いたのを見て、

 カスパルは、それ以上は何も言わず、

 自分の部屋へ戻った。

  しばらくして、

 旅支度を始めた。


 昼過ぎ、カスパルは、

 荷物をまとめ終えた。


 セーレンは、まだ机の前にいた。


「セーレン」


 カスパルが声をかけると、

 息子はようやく顔を上げた。


「私はそろそろ街へ向かう」


 セーレンは、黙って頷いた。


「ひと月ほどで戻る。

 その間、村の診療所を頼む」


「……父さんが、いなくても大丈夫なのか」


「お前なら、できる。

 薬の調合も、診察も、

 教えた通りにすればいい」


 カスパルは、棚から古い帳面を取り出した。


 診療の記録だ。


 患者の名前。

 症状。

 処方した薬。


 すべてが、几帳面な字で記されている。


「これを見れば、

 誰がどの薬を必要としているか分かる。


 急な怪我や病なら、

 ここに書いてある通りに処置すればいい」


 セーレンは、帳面を受け取った。


 ずっしりとした重み。


 父の、何年分かの記録が、

 ここに詰まっている。


「……わかった」


「馬は、街へ返しておく。

 この雪では、置いておけんしな

 それと——」


 カスパルは、小さな革袋を取り出した。


 中には、乾燥させた薬草と、

 調合済みの粉薬が入っている。


「これは、お前の咳止めだ」


 セーレンは、一瞬、目を逸らした。


「……大丈夫だ。大したことない」


「大したことない咳を、

 何カ月も引きずる人間はいない」


 カスパルの声は、低く、静かだった。


 だが、そこには、

 医者としての確信があった。


「飲め。

 一日に二度。

 朝と夜。


 これを飲まずに診療に出れば、

 患者に移す」


 その一言が、セーレンの言い訳を封じた。


「……わかった」


 セーレンは、革袋を受け取った。


 カスパルは、それを確認してから、

 荷物を肩に掛けた。


「冬の間、ここを頼む」


 短い言葉。


 セーレンは、立ち上がった。


「……気をつけて」


「ああ」


 カスパルは、戸口で一度だけ振り返った。


 息子の顔を見る。


 疲れている。

 痩せている。

 目の下に、隈がある。


 咳も、まだ治まっていない。


 だが——

 今は、何も言わない方がいい。


 一人で、

 考える時間が必要なのだろう。


 カスパルは、そう判断した。


「戻ったら、また話そう」


 それだけ言って、

 カスパルは灰の家を出た。




 戸が閉まる音が、

 静寂の中で大きく響いた。


 セーレンは、しばらく戸口を見つめていた。


 父の足音が、

 雪の中を遠ざかっていく。


 やがて、それも聞こえなくなった。


 机の上には、

 診療記録の帳面と、

 咳止めの革袋。


 そして、ヨアヒムの手記。


 セーレンは、まず革袋を手に取った。


 中を開けると、

 乾いた薬草の匂いがした。


 懐かしい匂い。


 子どもの頃、

 母リサが咳き込んでいたとき、

 父が同じ匂いのする薬を作っていた。


 あの薬は、効いたのだろうか。


 母は、結局——


 セーレンは、革袋を閉じた。


 飲むべきだと、頭では分かっている。


 だが、今は——


 今は、それすら億劫だった。


 窓の外を見る。


 カスパルが去ってから、

 雪が強まっていた。


 昨日までの、細く頼りない雪ではない。


 大粒の、重い雪だった。


 風が、雪を横殴りに吹きつける。


 窓ガラスに、雪が張り付く。


 父の姿は、もう見えない。


 白い世界の中に、

 すべてが飲み込まれていく。


 音も、

 輪郭も、

 すべて。


 灰の家の中は、

 急に広く感じられた。


 いつもは気にならなかった、

 暖炉の音。

 風の音。

 自分の呼吸の音。


 それらが、妙に大きく聞こえる。


 (一人だ)


 そう思った瞬間、

 喉の奥から、また咳が這い上がってきた。


 セーレンは片手で口を押さえ、

 咳が収まるのを待った。


 胸が痛い。


 背中も痛い。


 (……薬を、飲むべきか)


 革袋が、机の上にある。


 手を伸ばせば、届く。


 だが——


 (今は、まだ)


 その「まだ」が、

 何を待っているのか、

 自分でも分からなかった。


 窓の外では、

 雪が降り続けていた。


 例年より、ずっと多い。


 この分だと、

 すぐに道が塞がるだろう。


 村へも、

 街へも、

 行けなくなる。


 (閉じ込められる)


 その予感が、

 胸の奥で重く沈んでいった。



 ヒンメルランドに、冬が戻った。


 雪は静かに降り始め、

 屋根の軋む音を、

 遠くの足音を、

 世界の音をひとつずつ消していく。


 風も、焚き火の音も、

 やがて雪に吸い込まれた。


 セーレンは外に出て、

 白一面の景色を見つめた。


 吐く息が白く広がり、

 すぐに溶けて消える。


 その様子を見ているうちに、

 自分も同じように、

 どこかへ消えてしまうのではないかという

 奇妙な感覚に包まれた。


 理性も、祈りも——

 ここまで届いているのかどうか、

 分からなかった。


 凍てついた静寂の中、

 雪の上に落ちる影だけが、

 自分がここに立っていることを示していた。


 孤独は、まだはっきりとした形を取らないまま、

 胸の奥に沈んでいった。



 その夜、

 窓の外の雪はさらに積もり、

 ヒンメルランドは再び音を失った。


 セーレンは、机の前に座った。


 手記が、目の前にある。


 灰色の表紙。

 腐食した紙。


 その隣に、

 診療記録の帳面。


 父の几帳面な字。

 村人たちの名前。

 症状と処方。


 (父は、これを何年も続けてきたのか)


 ページをめくると、

 同じ名前が何度も現れる。


 持病を抱えた老人。

 頻繁に怪我をする子ども。

 出産を控えた女性。


 それぞれの人生が、

 この帳面の中に、

 淡々と記録されている。


 ヨアヒムの手帳も、

 同じだった。


 村の名前。

 患者の症状。

 処方。


 どちらも、

 奇跡も魔素もない。


 ただ、

 日々の身体の不具合と、

 その手当てだけが記されている。


 (叔父は、これで満足していたのだろうか)


 その問いが、また浮かぶ。


 セーレンは、手記を開こうとして——

 また、手が止まる。


 (読めば、何が分かる?)


 そう自問する。


 ヨアヒムの苦悩。

 ヨアヒムの後悔。

 ヨアヒムの、最期の言葉。


 それを知ったところで——


 (僕に、何ができる?)


 答えは出ない。


 セーレンは、手記を閉じたまま、

 立ち上がった。


 暖炉の火を見つめる。


 炎が、揺れている。


 その揺れ方が、

 規則的なのか、不規則なのか、

 分からない。


 かつては、そういうものを

 すべて理で測ろうとした。


 数え、記録し、

 法則を見つけようとした。


 だが、今——


 (何も、測れない)


 窓の外では、

 雪が降り続けていた。


 音を消していく。


 世界を、白く塗りつぶしていく。


 セーレンは、窓際に立ち、

 その光景を見つめた。


 白だけの世界。


 輪郭が、消えていく。


 自分も、

 この白の中に溶けていくような気がした。


 机の上には、

 革袋が置かれたままだった。


 咳止め。


 飲むべきだと、

 まだ頭のどこかでは分かっている。


 だが——


 (今は、まだ)


 その夜、

 セーレンは薬を飲まなかった。


 灰の家は、

 完全に雪に閉ざされた。


 外の音が、

 すべて消えた。


 残ったのは、

 暖炉の小さな音と、

 自分の呼吸だけだった。


 そして——


 時折、喉の奥から這い上がってくる、

 乾いた咳の音。


 セーレンは、窓際に立ったまま、

 夜が更けていくのを見つめていた。


 雪は、降り続けている。


 明日も、

 明後日も、

 きっと降り続けるだろう。


 この白い沈黙の中で、

 自分は——


 (何を、するのだろう)


 その答えは、

 まだ見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ