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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第5章 灰の家

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第3節 ヨアヒムの手記

 ヒンメルランドに戻って、二日目の朝だった。


 雪は、まだ本格的には降っていない。

 だが空は白く濁り、いつ降り始めてもおかしくない色をしていた。


 セーレンは、灰の家を出た。


 目的地は、丘の陰にある古い教会だった。


 村の中心の教会ではない。

 灰の家のすぐ近く、

 使われなくなった廃教会。


 ヨアヒムの手帳には、

「診療所近くの教会」と書かれていた。


 だとすれば——

 あそこしかない。


 道は細く、踏み固められていない。

 枯れ草の間に霜が残り、足を置くたびに小さく音を立てた。


 使われなくなって、どれほど経つのだろう。


 教会は、丘の陰に沈むように建っていた。


 灰色の壁。

 崩れかけた尖塔。

 窓ガラスは半分割れ、

 そこから灰色の光が差し込んでいる。


 扉は歪み、半ば開いたままになっている。

 押すと、低く軋む音がした。


 中は、冷えていた。


 空気が澱み、埃と灰の匂いが鼻を刺す。


 礼拝堂の中央には、ひび割れた石の床。

 長椅子は倒れ、朽ちかけている。


 祭壇だけが、かろうじて形を保っていた。


 光は、祈りの場だったはずの空間を、

 均等に、無慈悲に照らしていた。


 セーレンは、祭壇の前に立った。


 ヨアヒムは、ここで祈ったのだろうか。


 それとも——


 視線を落としたとき、違和感に気づいた。


 祭壇の下。

 石の隙間に、不自然な影がある。


 屈み込み、指で埃を払う。


 灰と土が舞い上がる。


 そこに、小さな木箱があった。


 灰と埃に覆われ、

 まるで長い時間、封印されていたかのように見える。


 留め金は鉄製で、

 錆びながらも固く閉じられていた。


 セーレンは、しばらくその箱を見つめた。


 ——なぜ、隠す必要があった?


 指先に力を込め、留め金を外す。


 かちり、と音がした。


 蓋を開けた瞬間、

 冷たい空気が、箱の中から流れ出した。


 それは、外気よりもさらに冷たく、

 胸の奥に直接触れるような感覚だった。


 中には、手帳が収められていた。


 手帳は、研究記録か。

 白衣会を追放される前のものだろう。


 細かい文字。

 消された数式。

 書き直された行。


 手記だった。


 ところどころに、小さな書き込み。

 数式の余白に、祈りの言葉。


「神」

「赦し」

「沈黙」


 その単語が、何度も現れる。


 研究の合間に、

 あるいは研究から逃れるように、

 書き足されたものなのだろうか。


 セーレンは、慎重にページをめくった。


 途中、紙が三枚、挟まっていた。


 裏に大きく赤い「×」が書かれている。


 セーレンは紙は開かず、またページをめくった。


 《ルドルフからの時計、また開けてしまう。

 針の音が、まだあの工房にいた頃を思い出させる》


 手が、止まった。


 懐に、意識が向く。


 セーレンは、懐中時計を取り出した。


 銀色の蓋。

 冷たい感触。


 開く。


 針は、止まったままだ。


 (叔父さんは、この時計を何度、開けたのだろう)


 友を思い出すためか。

 それとも——

 過去に、縋るためか。


 その違いが、分からない。


 蓋を閉じる。


 金属の冷たさだけが、手に残った。


 再び、手記に視線を戻す。


 次のページ。


 文字が乱れている。


 《知ろうとすることが、いつも幸福を壊す。

 けれど、それが世界の仕組みだ》


 その下に、別の筆跡で書かれた一行。


 《神を否定せず、理解し、なお祈る者でありたい》


 セーレンは、その一行を、何度も読み返した。


 ——でありたい。


 願望形。

 到達していない言葉。


 知を極め、

 祈りに縋ろうとして——

 それでも、届かなかった。


 そう思った瞬間、

 胸の奥で、何かが軋んだ。


 (僕も、同じだ)


 理性で罪を償おうとして、

 償いきれなかった。


 理解しようとして、

 理解の果てで、何も掴めなかった。


 (行き着く先は、沈黙だけなのか)


 手記を閉じる。


 灰と埃の匂いが、礼拝堂に満ちていた。


 窓の外を見ると、

 空の色が、さらに白く濁っていた。


 セーレンは、紙束を木箱に戻した。


 だが、手記だけは懐に入れた。


 すべてを、ここに置いていくことはできなかった。


 木箱を元の場所に戻し、

 祭壇の下に押し込む。


 埃を被せ、

 元通りの影に還す。


 (誰かが来ても、気づかないだろう)


 それでいい。


 廃教会を出る。


 外は、すでに暗くなり始めている。


 空は白く濁り、

 輪郭を失いかけていた。


 (雪が、来る)


 その予感が、背筋を這い上がる。


 セーレンは、足を速めた。


 灰の家へ戻るために。


 溶けてしまう前に、

 まだ形を保っているうちに。


 


 灰の家に戻ったのは、夕暮れだった。


 戸を開けると、

 暖炉の火が、小さく揺れていた。


 カスパルは、祭壇の前に座っていた。


 祈りの姿勢ではない。

 ただ、何かを考えているようだった。


 セーレンは、黙って部屋に入り、

 机の前に座った。


 懐から、手記を取り出す。


 灰色の表紙。

 腐食した紙の端。


 ページを開こうとして——


「……見つけたのか」


 カスパルの声が、背後から聞こえた。


 セーレンは、手記を膝の上に置いたまま、

 振り返らなかった。


「廃教会に、あった」


「そうか」


 短い返答。


 カスパルは、それ以上何も聞かなかった。


 まるで——

 そこにあることを、

 知っていたかのように。


 セーレンは、父の方を振り返った。


「……父さんは、知っていたのか?」


 カスパルは、祭壇の前で、小さく首を横に振った。


「知らん。

 だが、あいつならそうするだろうと思っていた」


「どういう意味だ?」


「ヨアヒムは、いつも何かを隠していた。

 見せるものと、見せないもの。

 その区別を、あいつははっきりつける人間だった」


 カスパルの声には、

 弟への理解と、

 わずかな諦めのようなものが混じっていた。


「だから、もし何か残すとしたら、

 誰にも見つからない場所に置く。


 だが——

 お前なら、見つけるだろうとも思っていた」


「……なぜ?」


「お前は、あいつの弟子だ。

 同じように、物事を考える」


 セーレンは、何も言えなかった。


 カスパルは、立ち上がり、

 暖炉に薪を足した。


 炎が、少し大きく揺れる。


「その手記に、何が書いてあったかは聞かん。

 それは、お前とヨアヒムの間のことだ」


 カスパルは、セーレンの方を向かずに言った。


「だが——

 あいつが最期に何を思っていたのか、

 お前が知りたいのなら、


 その紙に書かれていることだけが、

 答えではないぞ」


「……どういう意味だ」


「人は、書けることしか書けん。

 書けないことの方が、ずっと多い」


 カスパルは、そう言って、

 部屋の奥へ消えていった。


 セーレンは、手記を見下ろした。


 灰色の表紙。

 腐食した紙。


 (書けないこと……)


 その言葉の意味が、

 まだ掴めなかった。


 窓の外では、

 ついに雪が降り始めていた。


 小さな白い粒が、

 灰色の空から静かに落ちてくる。


 音もなく。


 セーレンは、手記を机の上に置き、

 窓際に立った。


 雪は、まだ積もるほどではない。


 だが、これから——


 積もっていくのだろう。


 世界を、白く覆っていく。


 セーレンは、小さく息を吐いた。


 吐息が白く広がり、

 すぐに消えた。


 (ここで、一冬を過ごすのか)


 その予感が、

 胸の奥で重く沈んでいった。

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