表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第5章 灰の家

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/47

第2節 帰郷

 十一月半ば、中央国家の首都を発つ日、空は朝から低く垂れ込めていた。


 雨は細く、冷たく、降っているとも止んでいるとも言いがたい。

 舗道は常に湿り、馬車道には泥が溜まっている。

 街路樹はすでに葉を落とし、枝だけが空に向かって突き出ていた。


 研究棟の玄関で、セレンは最後に一度だけ振り返った。


 四年間。


 この街で、理性を盾に、罪を償おうとした。

 魔素ゆらぎ仮説。魔素安定化理論。

 どちらも、中央国家の「標準式」として組み込まれた。


 それでも——


 (償えたのだろうか)


 答えは出ない。


 荷物は少ない。

 黒いコートに、旅支度の鞄。

 その中に、ヨアヒムの遺品を詰めた木箱。


 懐には、懐中時計。

 ときおり、冷たい金属が胸に触れる。


 セレンは、馬車の停留所へ向かった。


 石畳を踏む音が、霧の中で鈍く響く。

 すれ違う人々の顔は、どれも灰色に見えた。


 (この街は、変わらない)


 自分がいてもいなくても、世界は同じように動く。


 その事実が、妙に軽かった。


 セレンは、中央国家と帝国を結ぶ定期馬車の一つに乗り込んだ。


 車内は暗く、揺れに合わせて軋む音がする。

 向かいの席には誰もいない。

 荷と人を半々に積むこの時期の馬車は、いつも空席が目立った。


 膝の上には、ヨアヒムの手帳。


 革表紙はすでに湿気を含み、指先にひんやりとした感触を残す。

 馬車が揺れるたび、ページの端が微かに鳴った。


 セレンは、手帳を開いた。


 診療の記録。

 日付と村の名。

 熱、咳、怪我、出産。


 淡々とした文字の列を追っているうちに、

 喉の奥がひくりと痙攣した。


 咳が出る。


 一度、二度。

 喉を押さえて耐えるが、三度目は抑えきれなかった。


 湿った咳が車内に落ちる。


 向かいの席に人がいなくて、良かった。


 胸の奥に、冷たい空気が沈み込む感覚があった。

 中央国家に来てから、何度も繰り返してきた症状だ。


 研究室の乾いた空気。

 夜更けまで続く作業。

 そのすべてが積み重なった結果だと、頭では理解している。


 (……大したことはない)


 そう思いながら、咳止めを探す気にもなれなかった。


 窓の外を見る。


 畑が広がっている。

 晩秋の色。

 刈り取られた後の、茶色い土。


 中央国家の豊かな土地も、

 この季節には色を失う。


 灰色の空の下、

 すべてが同じ色調に沈んでいく。


 馬車は、十日を超えて走り続けた。


 途中の宿場町で停まり、夜を越え、また走る。


 セレンは、ほとんど人と話さなかった。


 宿屋の主人に部屋を頼むとき。

 食事を注文するとき。

 それ以外は、黙って手帳を眺めているだけだった。


 ある晩、宿の窓から外を見ていると、

 雨が雪に変わりかけているのに気づいた。


 白いものが、雨粒に混じって落ちてくる。


 それは地面に着く前に溶けて、

 また雨に戻る。


 (もうすぐ、冬だ)


 ヒンメルランドは、もっと寒いだろう。


 雪が降り積もり、

 音を消していく。


 あの静寂の中へ、

 自分は戻ろうとしている。


 帝都が見えてきたのは、出発から十二日目の朝だった。


 高い建物の影が重なり、川の匂いが風に混じる。

 かつて何度も訪れた街並みが、鈍い色合いで広がっていた。


 馬車を降り、荷を受け取る。


 ここからは船だ。


 ヴェーザー川の船着き場までは、徒歩で四十分ほど。

 最短の道を行けば、研究所の前を通ることになる。


 一瞬、足が止まった。


 迂回することもできる。


 少し遠回りになるが、

 見ずに済む。


 会わずに済む。


 (……だが)


 逃げることは、認めることと同じだと思った。


 自分が、何かから逃げている。

 誰かから、隠れている。


 それを自覚してしまう。


 セレンは、そのまま歩き出した。


 (見えても、会わない)


 (それなら——)


 まだ、逃げたことにはならない。


 石畳の通り。

 見覚えのある街角。

 あの日、四人で歩いた道。


 トーマ、マルク、アデル、セーレン。


 まだ「セレン」ではなかった頃の、自分。


 その面影は、もうこの街のどこにも残っていない。


 研究所の正面玄関が見えた。


 石段。

 重厚な扉。

 高い窓。


 窓越しに、人影が動くのが見えた。


 背格好。

 歩き方。


 胸の奥が、ひとつ跳ねた。


 (トーマ……?)


 確認する前に、視線を伏せる。


 帽子を深く被り、歩調を早める。


 気づかれるな。


 声をかけられるな。


 今、会ってしまったら——


 (全部、話してしまう)


 中央国家での四年間。

 自分の理論が、液体魔素の再現に使われているかもしれないこと。

 白衣会の行方を追って、何も掴めなかったこと。

 ヨアヒムの死。


 そして——


 レイナのこと。


 トーマの前では、

 自分を繕うことができない。


 あの男は、こちらの顔を見ただけで、

 全てを察する。


「何があった?」


 そう聞かれたら——


 (言ってしまう)


 罪を。

 後悔を。

 空洞を。


 全部、吐き出してしまう。


 でも、それは——


 (赦しを求めることと、同じだ)


 償ってもいないのに。

 理解してもいないのに。


 トーマに縋りつくことは、

 自分が決めた「理性で償う」という道を、

 自分で踏み外すことになる。


 角を曲がると、研究所は視界から消えた。


 セレンは、小さく息を吐いた。


 肺の奥で、また咳がくすぶる。


 (ごめん、トーマ)


 心の中で、一度だけ謝った。


 (今は、会えない)


 その言葉を、誰にも聞かせることなく、

 セレンは船着き場へ向かった。


 小さな漁村。

 灰色の空の下、煙突から細い煙が立ち上っている。


 ヤンマーブクト。


 ヒンメルランドへの入口。


 空気が、はっきりと冷たかった。


 セレンは、船を降りた。


 足が、久しぶりに動かない地面を踏む。


 その感触が、妙に遠く感じられた。


 港の小屋で、馬を借りた。


「ヒンメルランドの内陸まで」


「この時期に? もうじき雪だぞ」


 漁師は怪訝そうな顔をしたが、

 硬貨を見せると、黙って馬を引いてきた。


 灰色の馬。

 痩せているが、足腰はしっかりしている。


 防寒具として渡されたのは、

 黒ずんだ毛皮のマントと、

 灰色がかった重い布だった。


 セレンは、それを肩に掛けた。


 黒いコートに、灰色の布が重なる。


 漁師の小屋の鏡に、自分の姿が映った。


 黒と灰色に覆われた男。


 顔色も悪い。

 目の下には隈がある。


 (……消えていく)


 そんな言葉が、頭をよぎった。


 馬に跨り、内陸へ向かう。


 馬が進むにつれ、潮の匂いが薄れていった。


 代わりに、土と枯れ草の匂いが鼻を突く。


 風が冷たい。


 骨の奥まで染み込む、

 ヒンメルランド特有の冷たさだ。


 道の両脇には、葉を落とした木々。


 灰色の幹。

 灰色の空。

 灰色の土。


 (……この色だ)


 ふと、自分の髪に手をやる。


 灰色の髪。


 中央国家では「神秘的」「珍しい」と言われた色。


 貴族の令嬢たちは、

「アルケイアの沈黙の光のよう」と言った。


 だが、ここでは——


 ただの、風景の一部だ。


 目立たない。

 特別でもない。

 ありふれた、灰色。


 (ここの色をしている)


 中央国家で何を成し遂げようと、

 帝都でどれだけ逃げようと、


 この色からは、逃げられない。


 馬の足音だけが、静かに響く。


 やがて、見覚えのある丘が見えてきた。


 あの丘を越えれば——


 灰の家がある。


 丘を越えた瞬間、

 灰の家が視界に入った。


 灰色の壁。

 煙突。

 小さな窓。


 何も変わっていない。


 変わったのは、自分だけだった。


 ——いや。


 (変わっていない)


 中央国家で「セレン」を演じた。

 理性を盾に、仮面をかぶり、誰にも心を開かなかった。


 だが、この色の中に戻った瞬間、

 その仮面は、意味を失った。


 灰色の空の下、

 灰色の家の前で、

 灰色の髪の男が馬を降りる。


 (結局、僕は——)


 セーレン・エルンスト。


 ヒンメルランドの、灰色の息子。


 中央国家で何を成し遂げようと、

 帝都でどれだけ逃げようと、


 この色からは、逃げられない。


 吐息が白く広がり、すぐに灰色の空に溶けた。


 灰色の空を見上げていると、

 雪が静かに降り始めた。


 風の音が、雪を削る。


 白だけの世界の中で、

 自分がどこに立っているのか、

 わからなくなる。


 見上げていると、

 すっと音が消えていく。


 ——そのまま、

 自分自身が吸い込まれてしまいそうで、

 怖かった。


 昔、

 僕はこの恐怖に、

 理で輪郭を与えようとした。


 音を数え、

 風の流れを記録し、

 雪の舞う高さを測った。


 理で囲えば、

 世界は沈黙しない。


 ——そう信じていた。


 けれど今、

 その理の内側で、

 僕自身が、

 ぼろぼろと形を失っていくのがわかる。


 わかっている。



 それでも、

 目を逸らした。


(僕は、ここに戻ってきた)


 逃げ切れなかった。


 馬の手綱を結びながら、

 小さく息を吐いた。


 戸の前に立つ。


 雪が、うっすらと積もり始めていた。


 手を伸ばし、戸を叩く。


 一度。

 二度。


 しばらく沈黙があった。


 やがて、中から足音が聞こえる。


 重い足音。

 ゆっくりとした動き。


 戸が開いた。


 セーレンは、息を呑んだ。


(……父さん)


 老けている。


 髪に、白いものが混じっている。

 顔には、深い皺が刻まれている。


 19年という時間が、

 そこにあった。


(こんなに……)


 ショックだった。


 記憶の中の父は、

 もっと若かった。


 ずっと大きかった。


 でも——


 目の前に立つ男は、

 確かに年老いていた。




 カスパルもまた、

 僅かな驚きとともに息子を見つめていた。


 しばらく、何も言わなかった。


 ただ、見ている。


 痩せている。

 顔色も悪い。


 でも——


 どことなく、自分に似ている。


 弟ヨアヒムにも、似ている。


 灰色の髪。

 灰色の目。


 12歳の少年は、

 もういない。


 目の前にいるのは、

 31歳の男だった。


 


「よく戻った、セーレン」


 ようやく落ちた父の声は、低く、静かだった。


 その名前——


 セーレン。


 四年間、誰にも呼ばれなかった名前。


 中央国家では、「セレン」だった。


 でも、ここでは——


 ここでだけは、


 セーレンでしかない。


「……ただいま」


 声がかすれた。


 喉の奥から、また乾いた咳が這い上がってくる。


 セーレンは片手で口を押さえ、

 咳が収まるのを待った。


 カスパルは何も言わず、

 ただ戸口を開けて、中へ入るよう促した。


 灰の家の中は、変わらず寒かった。


 暖炉には火が入っているが、

 部屋全体を温めるには足りない。


 壁は石造りで、

 窓は小さく、

 光も少ない。


 セーレンは、荷物を降ろした。


 木箱を床に置く。


 その音が、静寂の中で大きく響いた。


「叔父さんのことは……聞いた?」


 セーレンは、父の背中に向かって言った。


 カスパルは、祭壇の前に立っていた。


 祈りの言葉が、小さな紙に書かれて置かれている。


「ああ。村から手紙が届いた。」


 カスパルは、一度だけ息子の方を振り返った。


 その目には、何かを察したような色があった。


 だが、何も言わず、また祭壇に向き直る。


 沈黙が、部屋を満たす。


 やがて、セーレンは口を開いた。


「叔父さんは……最期は、どうだったんだろう」


 しばらく沈黙があった。


 カスパルは、祈りの手を解き、

 静かに立ち上がった。


「村の者いわく、穏やかな最期だったそうだ」


「……穏やか」


 その言葉の意味が、掴めなかった。


「あいつは、最後まで診療所で働いていた。

 村の者たちに看取られて——

 満足していたんだろう」


「満足……」


 セーレンは、その言葉を反芻した。


「それで十分だ」


 あれほど才能のあった科学者が、

 無名の村医者として死ぬことに、

 本当に満足できたのだろうか。


 父は、そう信じたいだけなのではないか。


 その疑念を、言葉にはしなかった。


 カスパルは、息子の表情を見て、

 何かを察したように小さく頷いた。


「冬の間は、ここにいるつもりか」


「長くは。

 一週間ほどのつもり。

 雪が本格的になる前に、山を下って街へ行くよ」


「そうか」


 それ以上何も言わず、

 小さな祈りの言葉と共に祭壇に火を灯した。


 炎が、静かに揺れる。


 灰色の家に、祈りの気配だけが残った。


 セーレンは、咳を堪えながら、

 その背中を見つめていた。


 窓の外では、雪が降り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ