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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第5章 灰の家

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第1節 遺品

 ヨアヒム・エルンスト(医師)、帝国人。

 中央国家西部ルボン村にて死亡確認。

 右、親族に通知されたし。


 淡々とした文字が並んだ紙片を、セレンは二度読み、三度目でようやく意味として受け取った。


 中央国家医療局・記録課の狭い部屋は、相変わらず薄暗かった。窓ガラスには曇った空が貼りつき、街の輪郭はにじんでいる。壁にかかった時計の音だけが、規則的に時を刻んでいた。


 机の向こうで、事務官が咳払いをする。


「こちらが、故人の遺品です。顧問の親族でお間違いありませんか」


 床に置かれた木箱に目を落とす。特別な印はない。どこにでもある、よくある箱だ。


 セレンは、頷く代わりに椅子を引いて立ち上がった。


 蓋を開けると、乾いた木の匂いがした。


 上に詰められていた布をどけると、まず目に入ったのは、見慣れた形の器具だった。


 金属製の注射器。聴診器。薬瓶を収める革の小箱。

 訪問診療用の一そろいの道具だ。


 どれも使い込まれているが、手入れは行き届いている。縁の擦り切れ具合まで、彼の記憶にあるものと同じだった。


 (間違いない。叔父さんの……)


 器具の下から、布で包まれた厚みのあるものが出てきた。古びた手帳だった。


 角が丸くなり、表紙には指でなぞられたような艶が出ている。開く前から、何度も開閉されたことがわかる。


 最後に一冊、細長い箱が残った。軽く振ると、箱の中で何かがかすかに触れ合う音がした。


 セレンは指先で留め金を外し、慎重に蓋を持ち上げた。


 遺品として、ヨアヒムの手帳と、

 訪問診療用の器具、

 そして――


 懐中時計が入っていた。


 セレンは、その時計を手に取った。


 見慣れた金属の輝き。

 蓋の裏に刻まれた、細い文字が目に入る。


 ──R.V.


 ルドルフ・ヴェルナー。


 叔父の親友。

 セレン自身が、ヨアヒム失踪後に世話になった男。


 背が高く、髭面で、笑うと腹が揺れる男だった。

 声が大きく、どんな場でもよく笑った。


 ヨアヒムが理屈を並べれば、ルドルフは大声で笑い飛ばした。

 神との距離を測りかねているときでさえ、

「そんなもん、気にすんな」と、あっさり言ってのけた。


 二人が並んで話す姿を、セレンは何度も見ている。

 軽口と議論が入り混じる、その騒がしさ。


(理解してくれる人、だったんだ)


 子どもの頃のセレンは、そう思っていた。


 理に挑み、理に裏切られた師にも、

 まだ隣に立つ誰かがいた。


 その証が、この時計だった。


 ヨアヒムは、この時計をいつも懐に入れていた。


 研究室でも、診療所でも、どこへ行くときも。

 白衣の内ポケットに、かすかな重みを忍ばせて。


 (……最後まで、持っていたのか)


 指先で蓋を押し開ける。


 文字盤は、何度も開け閉めされた痕で、縁が黒ずんでいた。針は、短いほうも長いほうも、同じ場所で止まっている。手巻き式だ。巻けば動くのかもしれないが、セレンは巻こうとは思わなかった。


 止まっているほうが、自然だと思えた。


 事務官が、控えめに口を開いた。


「診療記録らしき手帳も、同封されていました。内容の確認は……」


「こちらでします」


 セレンは短く答え、箱ごと抱えて部屋を出た。


 廊下には、同じような扉が等間隔に並び、無機質な灯りが続いている。窓の外には、雪か霧か区別のつかない白いものが漂っていた。人影は薄く、靴音だけが遠くで響く。


 自分の部屋に戻ると、机の上を片づけ、遺品を一つずつ並べた。


 診療器具。手帳。懐中時計。


 どれも、色を持たないものばかりだと、ふと思う。金属の鈍い光と、紙のくすんだ白。それだけで世界ができているような気がした。


 手帳を開く。


 書き込まれているのは、村の名前と日付、簡単な病状と処方の記録だった。急な熱。古くからある咳。怪我。出産。

 短い文章と数字が続く。そこにはただ、日々の身体の不具合と、その手当てだけが淡々と記されている。


 (叔父さんが、こんな記録を……)


 セレンが知るヨアヒムは、祈りよりも理を選んだ男だった。


 神に対して、挑戦的ですらあった。


 それでも、祈りを馬鹿にすることはなかった。

 弟子であるセレン自身には、信仰の重要性を説いてもいた。


 ただ、自分自身がどう信じればいいのか、

 どう祈ればいいのか、

 分からなくなってしまったのだと、今なら少し分かる。


 神の恩恵である魔素を、「ウイルス」と呼んだ人。

 理で全てを解こうとして、祈り方を忘れてしまった人。


 それでも——

 良き叔父であろうとし、良き師であろうとした人でもあった。


 セレンに「情を忘れるな」と言い残したのは、

 自分が忘れかけていたからなのかもしれない。


 その師が、最期に何を思ったのか――


 最終頁だけ、字の調子が違っていた。

 線が乱れ、ところどころ深く紙を抉っている。


 〈ヒンメルランドの教会で祈りたい〉


 それだけが、大きく書かれていた。


 文として整っているとは言いがたい。

 ただ、そこに向かおうとした意思だけが、紙に刻みつけられている。


 (どうして、今さら)


 ヨアヒムは教会と距離を置いていたはずだ。祈りよりも理を選び、白衣会の一員として、神の沈黙の内側を覗き込もうとした人間だ。


 そんな男が、最後に「教会で祈りたい」と書き残している。


 セレンは、手帳を閉じた。


 机の上に視線を落とす。器具と手帳と時計。叔父が最後まで手放さなかったものたち。


 部屋の空気は冷えているのに、息が白くなることはなかった。窓の外には、乾いた空が広がっている。

 何もかもが、薄い灰の膜をかぶっているように見えた。


 父の顔が浮かぶ。


 ヒンメルランドの診療所。冬の風。荒い手。堅い声。

 そこに、この箱を持って行かなければならない。


 誰かが知らせなければならない。ヨアヒムがどこで、どのように終わったかを。

 その役目を任される人間は、他に思いつかなかった。


 セレンは、懐中時計の蓋をもう一度閉じた。


 止まった針。

 縁の黒ずみ。


 何度も開け閉めされた痕が、そこにある。


 (叔父さんは、いつこれを開けていたのだろう)


 診療の合間に。

 夜、ひとりになったとき。


 ルドルフを思い出していたのだろうか。


 それとも――

 あの頃の、理に挑んでいた自分を思い出していたのだろうか。


 答えは、もう聞けない。


 時計を懐にしまう。

 冷たい金属が、胸の内側に触れた。


「……一度、帰るか」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 中央国家での仕事は山積みだ。報告書も、未整理の資料も、机の上に積み上がっている。

 それでも、今ここに座り続けることはできないと感じた。


 故郷ヒンメルランドへ。

 叔父の遺品と、この短い知らせを抱えて。


 セレンは立ち上がり、窓の外を見やった。


 街並みは遠く、輪郭が曖昧だった。

 建物も、人も、空も、同じ色調の中に溶けている。


 その灰色の向こうに、さらに冷たい風の吹く土地がある。

 自分が生まれた場所。

 帰ることを考えなかった故郷。


 そこへ向かうことを、自分は今決めたのだ。


 決意というには、あまりにも力のない結論だった。

 ただ、それ以外に選べる道が見えなかった。


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