第1節 遺品
ヨアヒム・エルンスト(医師)、帝国人。
中央国家西部ルボン村にて死亡確認。
右、親族に通知されたし。
淡々とした文字が並んだ紙片を、セレンは二度読み、三度目でようやく意味として受け取った。
中央国家医療局・記録課の狭い部屋は、相変わらず薄暗かった。窓ガラスには曇った空が貼りつき、街の輪郭はにじんでいる。壁にかかった時計の音だけが、規則的に時を刻んでいた。
机の向こうで、事務官が咳払いをする。
「こちらが、故人の遺品です。顧問の親族でお間違いありませんか」
床に置かれた木箱に目を落とす。特別な印はない。どこにでもある、よくある箱だ。
セレンは、頷く代わりに椅子を引いて立ち上がった。
蓋を開けると、乾いた木の匂いがした。
上に詰められていた布をどけると、まず目に入ったのは、見慣れた形の器具だった。
金属製の注射器。聴診器。薬瓶を収める革の小箱。
訪問診療用の一そろいの道具だ。
どれも使い込まれているが、手入れは行き届いている。縁の擦り切れ具合まで、彼の記憶にあるものと同じだった。
(間違いない。叔父さんの……)
器具の下から、布で包まれた厚みのあるものが出てきた。古びた手帳だった。
角が丸くなり、表紙には指でなぞられたような艶が出ている。開く前から、何度も開閉されたことがわかる。
最後に一冊、細長い箱が残った。軽く振ると、箱の中で何かがかすかに触れ合う音がした。
セレンは指先で留め金を外し、慎重に蓋を持ち上げた。
遺品として、ヨアヒムの手帳と、
訪問診療用の器具、
そして――
懐中時計が入っていた。
セレンは、その時計を手に取った。
見慣れた金属の輝き。
蓋の裏に刻まれた、細い文字が目に入る。
──R.V.
ルドルフ・ヴェルナー。
叔父の親友。
セレン自身が、ヨアヒム失踪後に世話になった男。
背が高く、髭面で、笑うと腹が揺れる男だった。
声が大きく、どんな場でもよく笑った。
ヨアヒムが理屈を並べれば、ルドルフは大声で笑い飛ばした。
神との距離を測りかねているときでさえ、
「そんなもん、気にすんな」と、あっさり言ってのけた。
二人が並んで話す姿を、セレンは何度も見ている。
軽口と議論が入り混じる、その騒がしさ。
(理解してくれる人、だったんだ)
子どもの頃のセレンは、そう思っていた。
理に挑み、理に裏切られた師にも、
まだ隣に立つ誰かがいた。
その証が、この時計だった。
ヨアヒムは、この時計をいつも懐に入れていた。
研究室でも、診療所でも、どこへ行くときも。
白衣の内ポケットに、かすかな重みを忍ばせて。
(……最後まで、持っていたのか)
指先で蓋を押し開ける。
文字盤は、何度も開け閉めされた痕で、縁が黒ずんでいた。針は、短いほうも長いほうも、同じ場所で止まっている。手巻き式だ。巻けば動くのかもしれないが、セレンは巻こうとは思わなかった。
止まっているほうが、自然だと思えた。
事務官が、控えめに口を開いた。
「診療記録らしき手帳も、同封されていました。内容の確認は……」
「こちらでします」
セレンは短く答え、箱ごと抱えて部屋を出た。
廊下には、同じような扉が等間隔に並び、無機質な灯りが続いている。窓の外には、雪か霧か区別のつかない白いものが漂っていた。人影は薄く、靴音だけが遠くで響く。
自分の部屋に戻ると、机の上を片づけ、遺品を一つずつ並べた。
診療器具。手帳。懐中時計。
どれも、色を持たないものばかりだと、ふと思う。金属の鈍い光と、紙のくすんだ白。それだけで世界ができているような気がした。
手帳を開く。
書き込まれているのは、村の名前と日付、簡単な病状と処方の記録だった。急な熱。古くからある咳。怪我。出産。
短い文章と数字が続く。そこにはただ、日々の身体の不具合と、その手当てだけが淡々と記されている。
(叔父さんが、こんな記録を……)
セレンが知るヨアヒムは、祈りよりも理を選んだ男だった。
神に対して、挑戦的ですらあった。
それでも、祈りを馬鹿にすることはなかった。
弟子であるセレン自身には、信仰の重要性を説いてもいた。
ただ、自分自身がどう信じればいいのか、
どう祈ればいいのか、
分からなくなってしまったのだと、今なら少し分かる。
神の恩恵である魔素を、「ウイルス」と呼んだ人。
理で全てを解こうとして、祈り方を忘れてしまった人。
それでも——
良き叔父であろうとし、良き師であろうとした人でもあった。
セレンに「情を忘れるな」と言い残したのは、
自分が忘れかけていたからなのかもしれない。
その師が、最期に何を思ったのか――
最終頁だけ、字の調子が違っていた。
線が乱れ、ところどころ深く紙を抉っている。
〈ヒンメルランドの教会で祈りたい〉
それだけが、大きく書かれていた。
文として整っているとは言いがたい。
ただ、そこに向かおうとした意思だけが、紙に刻みつけられている。
(どうして、今さら)
ヨアヒムは教会と距離を置いていたはずだ。祈りよりも理を選び、白衣会の一員として、神の沈黙の内側を覗き込もうとした人間だ。
そんな男が、最後に「教会で祈りたい」と書き残している。
セレンは、手帳を閉じた。
机の上に視線を落とす。器具と手帳と時計。叔父が最後まで手放さなかったものたち。
部屋の空気は冷えているのに、息が白くなることはなかった。窓の外には、乾いた空が広がっている。
何もかもが、薄い灰の膜をかぶっているように見えた。
父の顔が浮かぶ。
ヒンメルランドの診療所。冬の風。荒い手。堅い声。
そこに、この箱を持って行かなければならない。
誰かが知らせなければならない。ヨアヒムがどこで、どのように終わったかを。
その役目を任される人間は、他に思いつかなかった。
セレンは、懐中時計の蓋をもう一度閉じた。
止まった針。
縁の黒ずみ。
何度も開け閉めされた痕が、そこにある。
(叔父さんは、いつこれを開けていたのだろう)
診療の合間に。
夜、ひとりになったとき。
ルドルフを思い出していたのだろうか。
それとも――
あの頃の、理に挑んでいた自分を思い出していたのだろうか。
答えは、もう聞けない。
時計を懐にしまう。
冷たい金属が、胸の内側に触れた。
「……一度、帰るか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
中央国家での仕事は山積みだ。報告書も、未整理の資料も、机の上に積み上がっている。
それでも、今ここに座り続けることはできないと感じた。
故郷ヒンメルランドへ。
叔父の遺品と、この短い知らせを抱えて。
セレンは立ち上がり、窓の外を見やった。
街並みは遠く、輪郭が曖昧だった。
建物も、人も、空も、同じ色調の中に溶けている。
その灰色の向こうに、さらに冷たい風の吹く土地がある。
自分が生まれた場所。
帰ることを考えなかった故郷。
そこへ向かうことを、自分は今決めたのだ。
決意というには、あまりにも力のない結論だった。
ただ、それ以外に選べる道が見えなかった。




