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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第4章 逃亡と空洞

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第9節 噂

 晩餐会の夜、弦の音がホールを満たしていた。


 高い天井から吊るされたシャンデリアが、

 磨き抜かれた床とグラスの縁を、金色に照らし出す。


 男たちは政治の話に声をひそめ、

 女たちは宝石とドレスの噂に笑いを散らす。


 その中で、ひとりの令嬢の視線は、

 同じ一点から離れなかった。


 異国から来た科学者。


 灰色の髪と瞳。

 整った背筋。

 黒い礼服に、控えめな銀の襟飾り。


 セレン・エルンスト。


 会話の輪には深く混ざらず、

 勧められたワインを一口ずつ味わう。


 無口ではあるが、冷たくはない。


 話しかければ、少し困ったように微笑み、

 簡潔な言葉を返してくる。


 それが、かえって心をくすぐった。


「ねえ、あなた」


 隣の友人が、扇子の影からささやく。


「あの方、今夜もどなたにも心を開かないご様子ね」


「ええ。でも、だからこそ」


 彼女は、そっと微笑む。


 見たことのない表情を、

 一度でいいから見てみたい。


 そんな我儘が芽生えたとき、

 最近街を賑わせている話題が、ふと頭をよぎった。


「セレン顧問」


 彼女は、ワインを傾ける彼に歩み寄り、

 なにげない口調で言った。


「お耳に入っているかしら。

 この国が、聖女を迎え入れる準備をしているそうですわ。

 上層部は、随分慌ただしいみたい」


 その瞬間——


 セレンの指が、グラスの縁で止まった。


 いつもは柔らかく宙に向いている視線が、

 初めて、まっすぐこちらに向けられる。


 胸が跳ねる。


 だが、その眼差しは、

 彼女自身ではなく——


 彼女を透かして、

 遠くの何かを見ているようだった。


(ああ、この人の興味を引ける話題を、

 私はたぶん一つも持っていないのだわ)


 そう悟ったとき、

 彼女は初めて、自分が本当に惹かれていたことに気づいた。


 その気づきは、

 彼の返した一言によって、静かに断ち切られることになる。


「……初耳です」


 セレンは、わずかに間を置いてから言った。


 喉の奥に、いつものざらつきがある。


 だが咳を堪え、声を整える。


「聖女が五十年ぶりに"再び"誕生するというのは、

 両国にとって歓迎すべき事柄でしょうね」


 声は穏やかで、

 いつもの「灰色の顧問」の調子だ。


 令嬢は安堵し、続けた。


「噂好きの方々がおっしゃるには、

 "神の怒りを鎮めるため"なのだそうですわ。

 最近また魔獣が増えてきているでしょう?

 首都の地下でも、何か大掛かりな工事をしているとか。

 わたくしたちには詳しいことは分かりませんけれど」


 周囲の貴婦人たちが、

 半分は面白がり、半分は本気で怖がりながら言葉を重ねる。


「でも、聖女さまが戻ってきてくださるなら心強いですわね」


「本当に"戻って"きてくださるのかしら。

 どこかの少女が選ばれるのか、

 それとも、昔の聖女さまの魂が再び…とか」


「まあ、そんな恐ろしいこと」


「でも、その方は"迎え入れる"っておっしゃったのよ。

 聖女さまを"選ばれる"とも言わずに」


 笑い混じりの囁きが、

 ワルツの旋律の合間を縫って耳に触れる。


 セレンは、グラスを持つ指に、

 かすかな力が入るのを感じた。


(迎え入れる……)


 選ばれる、ではなく。


 あたかも——


「あるもの」を、

 自分たちの陣営へと招き入れるかのような言い方。


(——どこから?)


 問いは喉まで来て、

 言葉になる前に飲み込まれる。


 そのとき、喉の奥から短い咳が這い上がりかけた。


 セレンは片手で口元を覆い、

 何事もなかったかのように言葉を続ける。


「中央国家は、

 いつも人々の安全のために最善を尽くしておられます」


 当たり障りのない一文で締めくくる。


「聖女が戻るにせよ戻らないにせよ、

 その準備を怠らないという意味なのかもしれません」


「まあ、さすが帝国の顧問。

 お話を伺うと安心しますわ」


 貴婦人たちは満足げに笑い、

 話題は再び新しい宝石のデザインへと移っていく。


 噂は、ここでは

 ワインと同じ種類の「嗜好品」に過ぎない。


 半分は娯楽、

 半分は、夜更けの恐怖をほどよく煽る香辛料。


 その輪の中で、

 セレンだけが、別の世界の音を聞いていた。



 夜更け。


 社交の喧騒が遠ざかり、

 研究棟の廊下に足音が一つだけ響く。


 すでに落とされた灯り。

 外の光がうっすらと廊下を照らしている。


 セレンは、自分の手を見下ろした。


 灰色だったはずの袖口が、

 暗闇の中では黒く見える。


 指も、インクと影で黒ずんでいる。


 窓ガラスに映る自分の姿は、

 黒い影法師のようだった。


(もう、灰色ですらない)


 そう思った瞬間、

 セレンは息を詰めた。



 部屋に戻ると、

 セレンはいつものように黒い上着を椅子の背にかけ、

 机の上の私的ノートを開いた。


 灰色の表紙。


 帝都から持ってきた、使い古された薄いノート。


 ページの上部には、

 首都地下設備の魔素計測値が並んでいる。


 数ヶ月前から、

 基準値よりわずかに高めの値が、

 一定の周期で繰り返し記録されていた。


 地上の人口推移や街路の形では説明できない揺れ。


(地下に何かがある)


 そう仮定しない限り、

 辻褄の合わない線。


 そして今夜、

 社交の場で聞いた言葉。


 ——中央国家が、聖女を迎え入れる準備をしている。


 ノートの余白に、日付を書く。


 その下に、いつものように短い観測記録を記す。


 ――本日、晩餐会にて噂を聴取。

 ――「聖女を迎え入れる」という国家上層の表現。

 ――「神の怒り」「首都地下の工事」との結びつき。


 ペン先をしばし宙に止め、

 それから、もう一行を書き足した。


 ――観測:首都地下の魔素値異常と、上記噂との時期的一致。

 ――可能性:何らかの実験的施設が、地下に存在する?


 そこまで書いて、手が止まる。


 紙の上の文字列は、冷静で、整っていた。


 少なくとも、自分の頭の中では、

 既に何度も組み立ててきた推論だ。


 魔獣出没地域の偏り。

 消された名簿。

 地下設備の異常な魔素値。

 そして、「迎え入れる」という言葉。


 それらを一本の線で結べば――


(――白衣会信仰派が、まだどこかにいる)


 その結論は、ほとんど自明に近い。


(そして、中央国家が、彼らを匿っている可能性)


 さらに一歩進めれば、

 聖女再現計画が、首都地下で進行中だという仮説にも辿り着く。


 だが、セレンはその一行を、

 ノートに書き込むことをしなかった。


(――根拠が、足りない)


 噂と、異常値と、言葉の選び方。


 それだけでは、

「確信」には届かない。


 報告書として帝国に送るには、あまりにも穴だらけだ。


(まだ、様子を見るべきだ)


 そう自分に言い聞かせながら、

 ペン先を紙から離す。


 ノートの欄外に、

 小さな文字で付け加えた。


 ――備考:現段階では推測の域を出ない。

 ――本仮説は当面、私的記録に留める。


 灰色のインクで書かれた文字が、

 夜の灯りの下で、かすかに揺れて見えた。


(……本当は)


 胸の奥が、静かに軋む。


(本当は、確信が怖いだけなのではないか)


 白衣会信仰派が本当に地下にいて、

 聖女再現計画が本当に動いているのなら――


 それを止めるために、

 自分は何かをしなければならない。


 だが、あのとき、

 自分は誤った理屈を提供し、


 その理屈に沿って

 誰かが実験を進め、


 その結果として、

 少女は死んだ。


(行動しても、また誰かを間違った方向に導くだけかもしれない)


 理性が、そう囁くのではない。


 理性の顔をした恐怖が、

 その文を口にさせる。


「今度は、軽率に動いてはいけない」


 セレンは、声に出して言った。


 言葉の途中で、喉の奥から咳が込み上げた。


 短く、乾いた音。


 咳が収まるのを待ち、

 彼は続ける。


「まだ噂にすぎない。

 情報が足りない。

 まずは、もう少し様子を見るべきだ」


 言葉のひとつひとつは、正しい。


 どれも、

 慎重さと観測の必要性を説く文として、

 何一つ間違ってはいない。


(……本当は)


 胸の奥が、静かに軋む。


(本当は、怖いだけなのではないか)


 何かを変えようとして、

 また誰かを殺すのが。


 だから、

 観測者でいようとしている。


 世界の動きを記録するだけの、

 無害な学者として。


(無用だな)


 自嘲にも似た思いが、

 ほんの一瞬、脳裏をかすめる。


 すぐに、その言葉を打ち消す。


(いや……まだだ)


 二つの研究は、すでに中央国家のものとして扱われている。

 白衣会の行方も、聖女再現計画も、

 きっとどこかで別の誰かの理によって進んでいるのだろう。


 それでも——


 自分のノートに記された式や仮説が、

 どこかで誰かの「手順」を、ほんの少しでも正しい方向へ押し戻すことはできる。


 そう信じていたい。


(舞台から完全に降ろされたわけじゃない)


 自分は、まだ舞台の上に立っている。

 ただ、その劇の筋書きも、終幕も知らされないまま、

 誰かの書いた台本の一部だけを渡されて、

 与えられた場面だけを、理にかなうように演じているだけだ。


 今、自分が口にする台詞が、

 この劇を悲劇から遠ざけているのか、

 むしろ悲劇の方向へ押し出しているのか、

 わからない。


 それでも、

 台詞を放棄してしまえば、その瞬間に「役」を失う。

 そうなれば、この舞台に立っている理由そのものが消える。


 セレンという、よくできた役者は、

 筋書きを知らないまま、

 誰かの理で踊らされている。


 自分で書き足したノートの余白は、

 せめてもの「自分の台詞」のつもりだった。


 どこかで、

 この私的なメモが本当の筋書きとつながってくれるかもしれない——


 そんな細い望みを、まだ捨てきれずにいる。


 理性を手放せば、

 自分には何も残らない。


 足元には、

 何もない空間が広がっているだけだ。


 その恐怖だけが、

 セレンをまだこの場所に繋ぎ止めていた。


 握りしめた理性という名のロープは、

 指に食い込み、

 手のひらがじんわりと痺れ始めている。


 それでも、

 手を開くわけにはいかなかった。


 このロープの先に、

 何があるのかは、まだ分からない。


 それでも、

 ロープが「どこか正しい場所」へ繋がっていると信じなければ、

 握りしめている手を開いてしまいそうになる。


(そうだ。このロープは、正しい方向へ繋がっているはずだ)


 セレンは、自分にそう言い聞かせた。


 まだ、信じられる。

 まだ、償える。



 ノートを閉じたとき、

 窓の外では、首都の街灯が規則正しく瞬いていた。


 祈りの鐘は鳴らない。

 代わりに、工場の合図音が遠くで短く響く。


 窓ガラスの向こうの空は、

 曇天に覆われて星一つ見えない。


 黒い雲が、

 街の光を鈍く反射している。


 魔素灯の青みがかった光も、

 霧に滲んで、灰色に見えた。


 セレンは、ガラスに映る自分の顔を見た。


 灰色の髪。

 灰色の瞳。

 黒いコート。


 すべてが、影のように曖昧で、

 輪郭だけが薄く残っている。


(沈黙の光、か)


 かつて貴婦人が言った言葉を思い出す。


 あのとき、彼女は「神秘的」と言った。


 だが、今この窓ガラスに映る自分は、

 神秘ではなく、

 ただの影だった。


 消えかけた蝋燭の煤のような。

 遅れて届くただの影だ。


 舞台装置のように整えられた夜景だ、とセレンは思う。

 どこからどこまでが背景で、

 どこから先に「劇の本筋」が隠されているのか、見分けがつかない。


 灯りを落とそうとして——

 机の端に置かれた封書に気づいた。


 黒い縁取りのある封筒。

 帝国の印。


 差出人の名を見た瞬間、

 胸の中で、何かがかすかに沈む。


 ——帝国科学班代表。


 封を切る。


 簡潔な文面。

 丁寧な弔意の定型句。


 その真ん中に、

 ただ一文だけ、違う温度の文字があった。


 ——ヨアヒム・エルンスト、病没。


 視線が、その一行の上で止まる。


 舞台袖の暗がりで、

 知らされないままだった「前の場面の終わり」を、

 唐突に告げられたような感覚。


 自分の出番とは関係のないところで、

 ひとつの幕が静かに下りたのだと理解する。


 なのに、

 次にどんな台詞を言えばいいのか、

 台本のどこをめくっても書かれていない。


 窓の外は鉛色だ。

 雲はいつもより重く、低く垂れ込めているように見えた。


 セレンは封書をそっと畳み、

 消したばかりのランプの芯に、

 もう一度火を戻した。


 薄い灯りの下で、

 灰色の顧問という役を、もうしばらく続けるしかない——


 そう思いながら。

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