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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第1章 沈黙の地

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第3節 青い糸

 夜が明けきるころ、風がやんだ。

 長い嵐のあとに訪れた静寂は、まるで世界がひと息つくようだった。


 灰の雲の隙間から、かすかな光が差し込む。

 それは太陽というより、雪の向こうで燃える灰の残り火のように淡い。


 母の呼吸は、昨夜よりも確かだった。

 咳がときどき込み上げるたびに胸が揺れるが、呼吸の間隔は整っている。

 頬にうっすらと赤みが戻り、唇にも血の色が差していた。

 セフェトリウム液が効いたのだろう。

 炎症の熱が引き、肺の奥で滞っていた息が少しずつ動き始めていた。


 昨夜まで死のほうへ傾いていた命が、

 いまは微かにこちら側へ戻ってきている。


 父は炉のそばで黙って火を見つめていた。

 長い夜を通して、ほとんど言葉を発していない。

 疲労ではなく、祈り尽くしたあとの空白が彼を包んでいた。


 ヨアヒムは仮眠をとりに診療室へ移り、部屋には静けさが戻っていた。

 セーレンは寝台の傍らに座り、母の手を握っていた。

 その手が、ふと彼の指を探すように動いた。


「……セーレン。」

 掠れた声だった。

 それでも確かに、母の声だった。


 少年は顔を上げた。

 母は弱い光の中で、目を細めていた。

「……あの箱を取ってくれる?」


 指さしたのは、棚の上の小さな木箱だった。

 木箱の表面には、年輪のような細かい傷が刻まれていた。

 母が何度も指で撫でた跡なのだろう。


 蓋を開けると、糸巻きが整然と並んでいた。

 赤、白、生成り。どれも長年の使用で少しくすんでいる。

 その中で、ひときわ目を引くものがあった。


 淡く透きとおるような青。

 まるで凍った空気をそのまま糸にしたような、かすかな光を宿している。


「それよ。」

 母は微笑んだ。声はかすれて途切れがちで、言葉の合間に小さく咳き込む。

 それでも、その目は柔らかかった。


「あなたが生まれた日の糸なの。」


 セーレンは瞬きをした。


 母は、窓の外の灰色の空を見つめながら続けた。

「家から、海が見えたの。あの日はね、灰じゃなくて――青に見えたのよ。

 世界が息をしているみたいに、澄んだ色だった。

 それが、あなたの色だと思ったの。」


 セーレンは言葉を失った。

 彼の知る海は、いつも灰色だった。

 風にさらされ、波立ち、寒さの中で濁った色。

 今だって、雪の向こうに見える海は、朝だというのに色褪せている。

 けれど母は、その同じ海を「青」と呼んだ。


 彼女の見る世界では、灰の奥にも光があった。


 母の指が糸に触れ、その繊維をなぞる。

 指先が少し震え、息を整えながら言葉をつなぐ。


「ねえ、セーレン。海を見たとき、冷たいと思う?」


 少年は少し考えてからうなずいた。

「うん。足が凍える。」


 母は小さく笑い、咳をひとつこぼした。

「私もそう思ってた。でもね、風の向こうにはきっと暖かい流れがあるの。

 氷の下に流れている水みたいに、見えなくても、息づいてるの。」


 セーレンは母の横顔を見つめた。

 それは病の影を帯びながらも、どこか透明な表情をしていた。

 まるで、自分の見えない場所を見ているように。


「この土地をね、私は好きよ。」

 母の視線は窓の外へ向かう。

 雪に埋もれた丘、凍てつく木々、灰の風。


「寒くて、静かで、何もないけれど……その分、息づく音がよく聞こえるの。

 風も、土も、全部、ここに生きてる。」


 セーレンはその言葉を胸の奥で転がした。

 “息づく音”という言葉が耳に残る。

 風が生きている? 土が?

 頭では理解できないのに、なぜかその言葉が温かかった。


 母の声は、体の奥に響くようだった。

 柔らかく、何かを包み込むような響きだった。


 母は青い糸を指に巻き、セーレンの手のひらにそっと置いた。

「これは祈りじゃないのよ。あの日の海の色。あなたの色。

 この土地の空気を吸って生まれた命の、証よ。」


 糸は、灯の光を受けてかすかに光った。

 灰の世界の中で、ただひとすじの青が燃えていた。


 セーレンはそれを見つめ、無意識に呟いた。

「……ここが、好き?」


 母は微笑みながら頷いた。

 声は弱々しかったが、確かな意志がこもっていた。

「ええ。だって、あなたが生まれた場所だもの。」


 その声は、冬の静けさに溶けていった。

 炉の火がぱちりと鳴る。

 その音が、まるで彼女の心臓の鼓動のように思えた。


 セーレンは糸を握りしめた。

 母の手のぬくもりが、糸を通して伝わる。

 冷たいはずの糸が、どこか温かかった。

 ただの糸にすぎないのに、心の奥に灯りをともすような感覚があった。


 自分が嫌っていた土地を、母は愛していた。

 灰しか見えなかった海に、母は青を見た。

 ――世界の見え方は、人によって違う。

 祈りも理も、きっとその延長にある。


 ふと、扉の向こうから足音がした。

 ヨアヒムが入ってきた。

 彼は母の容体を確かめ、ほっと息を吐いた。

「熱は下がっている。兄さんの流れがうまく保たれたようだ。」

 父が黙って頷く。

 互いに言葉少なだったが、その沈黙には夜とは違う安らぎがあった。


 セーレンはふと、ヨアヒムの目が糸に留まっているのに気づいた。

「きれいな色だね。」

 叔父の言葉に、母が微笑む。

「この子の色なの。」


 ヨアヒムは軽く頷き、セーレンの頭に手を置いた。

「青は、深く息をする色だ。

 覚えておきなさい、セーレン。

 どんな場所にも、見ようとすれば青はある。」


 その言葉の意味はよくわからなかった。

 けれど、耳の奥に残るその響きが、

 後になっても消えずに残ることだけは、なぜか確信していた。


 窓の外で、風がまたひとつ鳴った。

 けれどその音は、昨日までの灰の風とは違って聞こえた。

 どこか遠くに、青の響きを含んでいた。

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