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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第4章 逃亡と空洞

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第8節 私的ノート

 出向から、四年が過ぎていた。


 昨年までは、まだ「帝国出向者」として扱われることもあった。

 だが今では、技術局の報告書にすら、彼の名は現れない。


 魔素ゆらぎ仮説と、その収束手順。

 魔素安定化理論。


 それらは、もはや「中央国家の標準式」として定着していた。


 都市計画局の図面には、

 魔素ゆらぎを前提とした人口配置のモデルが描かれ、


 技術局の新しい魔素機器には、

 安定化理論を組み込んだ制御式が、何の違和感もなく組み込まれている。


 セレンが、ある日ふと技術局の資料閲覧室で

 自分の理論に基づいた最新の報告書を開いたとき、


 そこにあったのは、見知らぬ研究者の名と、

 中央国家技術局の紋章だけだった。


 末尾の小さな欄に、

「参照式:K-173/E」とだけ記されている。


 Kは局の分類記号。

 173は採番された研究案件番号。

 Eは——エルンストの頭文字だ。


(内部コードとしては、残っているということか)


 淡々と受け止める自分と、

 ほんのわずか、胸の奥で何かがざらつく自分とがいた。


「真理は、所有するものではない」


 そう言い聞かせてきたのは、自分だ。


 誰の名で公表されようと、

 誰の功績として語られようと、


 人が死ぬ場所が少しでも減るなら、

 それで良いはずだった。


 その理屈は、今も変わっていない。


 ——それでも。


 自分がいなくても回る歯車を見ていると、

「では、なぜ自分はここにいるのか」という問いが

 どうしても頭をもたげてくる。


(代わりはいくらでもいる)


 そう結論づけるのは簡単だ。


 魔素ゆらぎの式も、

 安定化理論の手順も、


 ここまで普及してしまえば、

 自分がいなくとも、中央国家の誰かが回せる。


 成果は残る。

 だが、その成果が「誰のものか」は、

 もはやこの国にとって大した意味を持たない。


 それは、セレン自身にとっても、

 同じことのはずだった。


 頭では、そう分かっている。


 にもかかわらず、

 資料の片隅にある「E」の文字を見つけるたび、

 胸の奥がわずかにきしむ。


 自分の居場所が、

 記号一つに押し込められていくような感覚。




 白衣会の探索は、完全に行き詰まっていた。


 帝国から渡された薄い名簿。

 中央国家技術局の事故アーカイブ。

 教会の出入り記録。

 移民・亡命者の登録簿。


 考えつく限りの資料は、既にひっくり返した。


 報告書に潜む文体の揺れ。

「事故」と「現象」の言い換え。

 祈りの挿入位置。


 そこから浮かび上がった「書き手の影」は、

 どれも途中で途切れている。


 ある年月を境に、

 前後で記録の質が変わる。


 突然、祈りの定型句が中央国家式に揃えられ、

 帝国式の言い回しが消える。


 統計局のデータを見ても同じだった。


 特定の地方からの亡命者が、

 ある年を最後にぱたりと途絶える。


 大学職員名簿の採用履歴も、

 教会付属研究員の異動記録も、


「ここから先を辿れば何かが出てくる」と思った矢先、

 きれいに均質な数字の列に変わる。


(この消し方は、偶然ではない)


 ノートの端には、

 消された名前と、その前後の経歴が、

 びっしりと書き並べられている。


 出身地。

 専門分野。

 所属していた教会や研究機関。


 それぞれを線で結ぶと、

 見えない輪郭がぼんやりと浮かび上がった。


 一見、バラバラな点に見えるのに、

 消され方だけが不自然に揃っている。


(中央国家そのものが、白衣会を匿っているのか?)


 一度、その仮説を頭に置いてみる。


 だが、四年ここで暮らした感覚が、

 すぐにそれを否定した。


 この美しく豊かな国では、

 祈りはさして重要ではない。


 魔獣の恐怖も、ある程度までは

 技術と行政の管理の問題として扱われている。


 白衣会信仰派のような、

「理」と「祈り」を混ぜ合わせた集団を、

 わざわざ受け入れる理由がない。


 むしろ、中央国家が好むのは、

 祈りと理をきれいに分け、

 それぞれを別々の箱に収めておくやり方だ。


(では、誰が消している?)


 教会か。

 中央国家か。

 それとも、両方か。


 ノートの余白に、

「仮説:中央国家教会による情報調整」と書きかけて、

 ペン先が止まる。


 そこから先を言葉にしようとすると、

 紙の上が、途端に白く遠のいていく。


 自分が書く言葉が、

 また誰かに利用される光景が頭に浮かんでしまうのだ。




 ある晩、セレンはふと、

 別のところに穴が空いていることに気づいた。


 ――魔素感知能力。


 誰が、なぜ、どの程度「魔素を感じる」のか。


 帝国でも、中央国家でも、

 それは「個人差」として片づけられてきた。


 祈りの素質。

 聖女の資質。

「適合値が高い」といった、

 曖昧な言葉で包まれたまま。


(そもそも、あれは何なのだろう)


 異端者の谷。

 レイナの祈り。

 自分自身の、あのときの感覚。


 そして、中央国家の首都地下で、

 説明のつかない「魔素反応の揺れ」が

 時折、計測器の端に顔を出す。


 人口や街路の形だけでは説明できない揺らぎ。

 魔素灯の明滅とも、魔獣発生とも結びつかない異常値。


 それらを並べてみると、

 どこかで同じ根を持っているように思えた。


(魔素が"どう流れるか"だけでなく、

 "どう感じ取られているか"も、

 何かの条件で揺らいでいるのかもしれない)


 その思いつきは、

 これまでの研究とは別の方向を示していた。


 中央国家に提出する報告書に書くには、

 あまりにも根拠が乏しすぎる。


 何より、これは――

 自分自身の内部の話でもある。


 レイナは、液体魔素を投与される前から、

 すでに何かを「感じて」いた。


 その感度が、投与によってどう変化したのか。

 変化させたのは魔素の量だけなのか、

 それとも、彼女自身の「状態」だったのか。


(もし、あのとき――)


 問いが、喉まで来て止まる。


 もし、液体魔素ではなく、

 別の方法で彼女の「負荷」を分散できていたら。


 魔素を一度に体内へ流し込むのではなく、

 環境の揺らぎに合わせて、

 少しずつ「慣らす」ような手順があったなら。


(――レイナは、死ななかったのだろうか)


 答えは出ない。


 過ぎたことは、

 どれだけ理屈を組み立てても戻らない。


 それでも、

 セレンは机の引き出しから新しいノートを取り出した。


 灰色の表紙。


 帝都から持ってきた、使い古された薄いノート。


 表紙は、何度も手で触れたせいで、

 元の灰色が黒ずんでいる。


 指の跡が、煤のように染みついていた。


 セレンは、その表紙をしばらく見つめた。


(これも、汚れていくのだな)


 自分の手が、このノートを汚していく。


 表紙の裏に、日付を書く。


「――研究覚え書き」


 その下に、小さく付け加えた。


「※提出予定なし」


 それは、彼にとって初めての「私的ノート」だった。


 レイナの魔素適合値の推移。

 異端者の谷での液体魔素投与前後の記録。

 谷全体の、魔素計測器の数値の揺れ。


 中央国家での魔獣事故現場データ。

 首都地下の設備点検記録。

 そこでだけ繰り返し観測される、

 説明のつかない高めのベース値。


 それらを、

 公的な報告書とは別の文法で、

 ノートに書き写していく。


 帝国式の記法と、

 中央国家式の統計記号が混じり、

 ところどころに祈りの文言が紛れ込む。


 白衣会の礼拝室で培った癖が、

 勝手に指を動かした。


 ページの中ほどに、仮説を記す。


 ――魔素感知能力は、"素質"だけではない。

 ――環境、体調、精神状態……

 ――何かの組み合わせで、感度そのものが上下しているのではないか。


 そこまで書いて、手が止まる。


(神そのものを測ることはできないし、してはならない)


 そう、心の中で区切りをつける。


 アルケイア信仰の制度は、人間が組み上げたものだ。


 だが、その制度が寄りかかっている「力」は、

 人間の手前で止まっている。


 それを神と呼ぶかどうかはともかく、

 少なくとも僕には、別の名を与えることはできない。


(けれど、神が与えた秩序が「どの条件で人を守り、どの条件で人を殺すのか」くらいは、

 知っておくべきだろう)


 知らなかった、では、

 レイナの死は二度目の過ちになる。


 ペン先を持ち直し、続ける。


 ――仮説:人体内魔素負荷モデル

 ――環境の魔素ゆらぎが、人体の「感知能力」にどう作用するか。

 ――負荷の集中ではなく、「分散」によって適応を促せないか。


 式を書き連ねる。


 魔素ゆらぎ仮説の延長。

 だが、対象は「環境」ではなく「人体」。


 公にするつもりはない。


 それが誰かの手に渡ったとき、

 また液体魔素のように

 取り返しのつかない形で使われる可能性を、

 彼は本能的に恐れていた。


 だからこそ、

 これは「自分だけのノート」でなければならなかった。


(これは神を暴くための理屈ではない)


 ペンを置きながら、

 セレンは静かに呟く。


(神の沈黙の"縁"をなぞるための、遅れた筆記にすぎない)


 それが自己欺瞞であることも、

 その筆記にすがっていることも、


 どちらも否定できなかった。


 私的ノートに向かっているとき、

 不思議と、背中の痛みは和らいでいた。


 窓の外は、また曇天だった。

 鉛色の雲が、街を覆っている。


 部屋の中は、ランプの灯りだけが頼りだ。


 その光の下で、

 セレンは自分の手を見下ろした。


 ペンを持つ指が、インクで黒ずんでいる。

 何度洗っても、爪の間に黒い筋が残る。


 誰にも見せない式。

 誰の評価も受けない仮説。


(これは、僕だけのものだ)


 そう思える瞬間だけ、

 息が、少しだけ楽になる。


 ——だが、ペンを置いて立ち上がれば、

 喉の奥から、また乾いた咳が這い上がってくる。


 中央国家の冬は、まだ続いていた。




 机の端には、

 帝国からの手紙の束が積み上がっている。


 ほとんどが、トーマからのものだ。


 封を切り、読むことはする。


 マルクの愚痴。

 アデルの結婚生活の話題。

 帝都の魔素灯が何本増えたとか、

 新しいパン屋ができただとか、


 本来なら、

 彼の理屈好きな頭には良い燃料になりそうな小ネタが、

 相変わらず所狭しと並んでいる。


 だが、返事を書こうとすると、

 ペン先が、すぐに止まってしまう。


(何を伝えればいい?)


 自分の毎日を、

 ひとつひとつ言葉にしようとすると、


「誰のための何なのか」が

 途端に空洞になっていくのだ。


 魔獣のグラフが下がったこと。

 新しい魔素灯の配置案が採用されたこと。

 魔素安定化理論が、医療器具にも応用され始めたこと。


 どれも、

 報告書としてなら書ける。


 しかし、それを

「友人への手紙の話題」として書こうとすると、

 不思議なことに、

 インクが紙に馴染まなくなる。


 “嬉しい”

 “楽しい”

 “誇らしい”


 そういった語を、

 自分の近況に結びつけることができない。


(これは、誰のための成果だ?)


 中央国家のため、というのは簡単だ。


 だが、その中央国家そのものが、

 白衣会の痕跡を覆い隠す壁になっているかもしれない——


 そう考え始めてしまった今、

「役に立っている」と胸を張ることもできなかった。


 便箋に向かい、ペンを走らせる。


『トーマへ。

 魔獣被害が減少し、中央国家は——』


 書きかけて、手が止まる。

 これでは報告書だ。


『トーマへ。

 こちらは順調だ。新しい研究も——』


 また止まる。

「順調」とは何を指すのか。

 自分でも分からない。


 書き上げることはできなかった。


 結局、便箋には、

 短い近況だけが残る。


 ——仕事に支障はない。

 ——体調は概ね問題ない。


「概ね」と書いた瞬間、

 喉の奥から咳が込み上げた。


 セレンは片手で口を押さえ、

 咳が収まるのを待つ。


 便箋の端に、小さなインクの染みができていた。


(……嘘ではない)


 そう自分に言い聞かせる。


「問題ない」のではなく「概ね問題ない」と書いたのだから、

 これは正確な報告だ。


 その理屈を盾に、

 セレンは封筒に便箋を収めた。


 トーマへの返信を書いているうちに、

 それすらも嘘に近い気がしていった。


 だから、最近は、

 別のやり方を選ぶようになった。


 返事の代わりに、

 小さな包みだけを送る。


 中央国家で評判の甘い菓子。

 手触りの良い筆記具。

 工芸職人が作った紙ナイフ。


「役に立つ」ものばかりだ。


 包装紙を選び、

 紐を結び、

 送り状にトーマの住所を書く。


 その作業をしている間だけ、

 息がつけた。


(これは感謝じゃない。ただ、“線を切らないための儀礼”だ)


 自分でそう分かっていながら、

 儀礼にすがる。


「ありがとう」の二文字すら添えられない代わりに、

 役に立つ物だけを送りつける。


 機能だけ送って、

 感情は送れていない——


 その自覚が、また胸を刺す。




 夜。


 私的ノートを開いたまま、

 セレンはペン先を止めていた。


 ページの上部には、

 最新の観測記録が並んでいる。


 首都地下設備の魔素計測値。

 周辺の人口推移。

 表向きの使用電力と、実際の魔素消費の差。


 どれも、微妙に噛み合わない。


 理屈の上では説明しきれない「揺れ」が、

 首都の中心部の地下にだけ、

 薄く、しかし確かに残っている。


 ノートの片隅に、今日の日付を書き、

 その下に記す。


 ——仮説:中央国家首都地下における魔素源の偏在について


 そこまで書いたところで、

 ペンは動かなくなった。


 この先に続く言葉は、

 いくらでも思いつく。


 白衣会信仰派。

 聖女再現計画。

 中央国家教会。


 それらを、

 一本の線で結ぶことは可能だ。


 だが、その線を現実に引いた瞬間、

 自分の理屈はまた、

 誰かの手の中で別の形を取ってしまうかもしれない。


 白衣会の痕跡は消され、

 自分の研究は記号に還元され、

 中央国家は自分が預かり知らないところで筋書きが決まっていく。


 帝国では戦争の準備が進み、

 谷で起きたことの真相は闇の中にある。


 それら全てが、自分の目の届かないところで整えられているようだった。


(……世界のどこかで、僕の知らない物語が進んでいる)


 ノートを見下ろしながら、

 セレンはぼんやりとそう思った。


 自分の理屈が、その物語のどこに位置しているのかすら、

 今の彼には分からない。


 魔獣の出現頻度は、一時期よりは抑えられている。

 遺物事故も、大惨事には至っていない。


 中央国家は、外形だけ見れば「順調」だ。


 その中で、

 自分はどこにも属さないまま、


 ただ記録と式だけを積み重ねている。


(なんのために、僕はここに来たんだろうか)


 その問いを言葉にした瞬間、

 喉の奥がきゅっと狭くなる。


 答えようとすると、

 谷の光景が蘇るからだ。


 異端者の谷。

 レイナの背中。

 液体魔素の光。


 罪を償うため。

 失敗の原因を解きほぐすため。


 そう言い続けてきた。


 だが、理性で積み上げてきた成果は、

 今、中央国家のどこかで「当たり前の前提」として消費されている。


 そこに、自分自身の居場所はない。


 開きっぱなしのノートの横には、

 帝国からの手紙の束がある。


 その隣には、

 発送準備を終えたばかりの小さな包み。


 部屋の外では、

 首都の夜のざわめきが、

 遠い他人事のように響いている。


 セレンはペンを置き、

 まだ乾ききらないインクの文字をぼんやりと眺めた。


 ページの中央には、

 未完の一行だけが残されている。


 ——仮説:


 その先を、

 今の彼はどうしても書き足せなかった。


 冬が終わり、春の兆しが見え始めた頃、

 咳は一時的に治まったかに思えた。


 だが、季節の変わり目になると、

 また喉の奥がざらつき始める。


 乾いた空気。

 湿った空気。

 どちらでも、きっかけさえあれば咳は戻ってくる。


 セレンは、もうそれを「風邪」だとは思っていなかった。


(体が、何かを拒んでいる)


 その自覚が、うっすらと頭の片隅にある。


 だが、それが何なのかを

 言葉にすることは、まだできなかった。

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