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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第4章 逃亡と空洞

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第7節 残された側の手紙

 セーレンが中央国家へ発ってから、三度目の冬が近づいていた。


 帝都の外れにある練兵場では、

 最近ほとんど毎日、兵士たちが列を組んで走っていた。


 朝も、昼も、日が落ちてからも。


 以前から訓練はあったが、

 ここまで目につくようになったのは、

 セーレンが中央国家へ発ってから後のことだ。


 窓の外から聞こえる号令の声を背に、

 トーマは科学班の研究室で、

 書類の束を整理していた。


 科学班に回ってくる依頼の内容も、

 あからさまに変わった。


「この薬剤を飲ませた兵士と、飲ませていない兵士とで、

 持久力にどれくらい差が出るか知りたい」


「魔素適合値の高い者にだけ効く強壮剤が作れないか」


 そうした"応用研究"が、

 軍部の印を押されて次々に回ってくる。


 廊下では、

 他班の研究員たちが小声で噂していた。


「あの妙に体力のある兵士の話、聞いたか?」


「ああ。山道の行軍で、最後まで顔色一つ変えなかったって話だろう。

 逆に、別の部隊では、訓練中に何人かまとめて倒れたとも聞いた」


「魔素の適合実験だってさ。

 誰がどの部隊に回されてるのか、もう分からねえ」


 トーマはその噂を聞き流しつつ、

 どこかで「やっぱりな」と思っていた。


(戦の準備だろ、どう見ても)


 兵士が増え、訓練が厳しくなり、

 強壮剤の試験と、魔素適合値の統計。


 帝国の空気は、

 ゆっくりと、しかし確実にきな臭くなっている。


(あいつなら、どう言うかな)


 トーマは、セーレンの顔を思い出す。


 数字を見て、地図を見て、

「これは偶然ではない」ときっぱり言うだろうか。


 それとも、

「まだデータが足りない」と眉間に皺を寄せるだろうか。


 どちらにせよ、

 セーレンなら、もっと早く、

 この不穏な組み合わせを形にしていただろう。



 アデルの結婚をどう伝えるか、

 トーマが悩んだのは、その年の春のことだった。


 祝宴の夜、

 科学班の仲間たちは珍しく正装をして集まった。


 マルクは、緊張で固まった顔をして、

 それでも最後にはちゃんと誓いの言葉を言い切った。


 アデルは、

 白衣ではなく淡い色のドレスを着て、

「ちゃんと似合っているかしら」と笑った。


 トーマは、

 その笑顔を見ながら、

 ふとセーレンのことを思い出す。


(こいつがいたら、"統計的には夫婦仲は……"とか言い出して、

 式の最中にアデルに怒鳴られてただろうな)


 そうやって茶化す自分の姿を想像し、

 つられて笑いそうになった。


 その夜、

 酔いが少し残る頭で書き始めた手紙には、

 何通りもの書き出しが生まれては消えた。


『アデルが結婚した。相手はマルクだ』

 とだけ書いた紙。


『こっちはめでたい話があった。

 お前がいたら、変な理屈つけて茶化しただろうな』

 と遠回しに書いた紙。


 どの文面も、途中でペンが止まる。


(嬉しいニュースが、あいつを余計遠ざけるんじゃねえか?)


 マルクもアデルも、ちゃんと隣に誰かを置く生き方を選んだ。

 研究も、仕事も、日常も抱え込みながら。


 セーレンだけが違う線の上にいることは、

 トーマ自身が痛いほど知っている。


 結局、送った手紙は一通だけだった。


『セーレンへ。

 アデル、結婚したぞ。相手はマルクだ。

 お前がいたら、どうせ変な理屈をつけて茶化したに違いない。

 式の最中に、"統計的には離婚率がどうこう"とか言い出して、

 アデルに怒鳴られていただろうな。

 でもまあ、あいつらなら大丈夫だろ。

 ——お前はどうだ。

 ちゃんと飯は食ってるか。

 "元気にやっている"と言い切れるか?

 返事は短くてもいい。

 生きてるって一行だけでもいいからな。

 ——トーマ』


 そこまで書いて封をしたとき、

 トーマは、自分の胸の奥が

 すこしだけ軽くなっているのを感じた。


(やっぱり俺は、あいつから"生存報告"が欲しいだけなんだろうな)


 自己嫌悪に似た感情もある。

 それでも、送るのをやめることはできなかった。



 その後、セーレンからの返事が届くたびに、

 トーマは違和感を覚えるようになっていった。


 最初のうちは、

 仕事の状況や現場の様子を、それなりの文量で説明していた。


 やがて、

「仕事は順調だ」「体調に問題はない」という事務的な一文が中心になり、

 最近では、

 ——受け取りました。ありがとう。

 という短い行で終わることもあった。


 本当に大丈夫なとき、あいつはもっとどうでもいいことを書く。


 雪の結晶の形だの、

 統計的には何年に一度の気象だの、

「理屈で遊ぶ」余裕があるときのセーレンは、

 手紙の半分くらいを、誰も頼んでいない考察で埋める癖があった。


 それがない。


 理屈で遊ばず、

 必要最小限の報告だけを並べて

「問題ない」と言い切るセーレンほど、

 信用ならない状態はない——


 トーマは、そんな「不安な確信」を、

 ここ一年で嫌というほど学びつつあった。



 贈り物を選んだのは、

 夏の終わりのことだ。


 市場の値札が、

 気づけばじりじりと上がっていた。


 パン屋のアニタは、

 毎朝店の前を掃きながらぼやく。


「小麦粉の値段がね、また上がったのよ。

 お上は"今年の収穫がよくなかったから"なんて言うけど、

 あんた、軍隊のパンの注文が増えてるの、見えてないと思ってんのかね」


 肉屋は、

「兵站用の干し肉の注文が増えてね」と苦笑いする。


 街の誰もが、

 はっきりとは口にしないまま、

 同じ方向に視線を向けていた。


 そんな中、トーマは思い立った。


 セーレンの返事が、目に見えて薄くなっていく。


 理屈の脱線も、

 どうでもいい観測記録も、

 ほとんど書かれなくなった。


「受け取りました。ありがとう」


 その一行のあとに、

 ただ仕事の進捗だけが並ぶ。


(文字が届かないなら、手で触れるものを送るしかねえか)


 そう考えて、

 トーマは北から取り寄せた防寒具を扱う店に足を運んだ。

 分厚い毛糸のマフラーが並ぶ棚の前で、

 店主に尋ねる。


「これ、中央国家の冬でも通用するか?」


「帝国の北でも耐えられる作りだ。

 あっちの首都なら、十分すぎるくらいじゃないかね」


 手触りのいいものを選びながら、

 トーマは思う。


(あいつ、防寒具選びになるとやたら実用性ばっかり見て、

 色とか長さとか、ちっとも気にしないんだよな)


 灰色に近い落ち着いた色を選びつつ、

 少しだけ暖かみのある糸が混じったものを選ぶ。


 ついでに立ち寄った雑貨店で、

 見覚えのある形のマグカップを見つけた。


 帝都の下宿で、

 四人で使っていたものと同じ型。


「これ、まだあったのか」


 思わず笑ってしまう。


 店主が不思議そうな顔をするので、

「昔の友人に贈る」とだけ説明した。


 包装紙に包まれたマフラーとマグカップに、

 小さな紙切れを挟む。


 ——これ巻いとけ。少なくとも風邪はひかねぇ。


 マグカップの底には、

 鉛筆で小さく書き込む。


 ——割るなよ。


(ありがとう、って言わなくても、

 これで意味は通じるだろ)


 そう、自分に言い訳する。


 本当は、

「ありがとう」と書かせることが怖かっただけかもしれない。


 線を繋ぎとめるための儀礼でありながら、

 その儀礼がいちばん、自分自身を支えている——

 そんな矛盾も、トーマはうすうす分かっていた。



 そして、秋も深まった頃。


 トーマは、机の上の便箋を指でとんとんと叩きながら、

 セーレンから届いた最新の手紙を、もう一度だけ読み返した。


 ——手紙、受け取りました。

 ——こちらも生きています。食事もとっています。

 ——仕事は忙しいですが、問題はありません。


 文章は、そこから一行だけ続く。


 ——帝国の空も、雪が少ない年だと良いですね。


 そう書いて、きれいに締めくくられていた。


「……それだけかよ」


 思わず声が漏れる。


 ——「大丈夫」って言葉ほど、信用ならねえものはない。


 トーマは、そう心の中で呟いた。


(会いに行こうと思えば、行けるんだよな)


 ちょっと長めの休暇を取って、実家の商隊と共に中央国家まで行くことは、不可能ではない。

 帝都の研究員として、「共同研究の打ち合わせ」とでも理由をつけてもいい。


 だが、それはどこか、

 線を越える行為のように思えた。


(男友達が、そこまでして様子見に押しかけるのは……

 なんか違うだろ)


 恋人でもなければ、家族でもない。

「親友」と呼んでしまうには、

 どこか照れくさい距離感のまま、ここまで来ている。


 だからこそ、

 トーマにできるのは、

 いつも通り手紙を書くことだけだった。



 その夜も、

 机の前には白紙の便箋が一枚置かれていた。


 インク壺の蓋を開け、

 ペン先を軽く湿らせる。


『セーレンへ。

 こっちは相変わらず物騒だ』


 と書きかけて、手が止まる。


「物騒だ」と書けば、

 きっとあいつは「具体的に」と返してくる。


 訓練の増加。

 強壮剤の試験。

 兵士の噂。


 それらを全部書き連ねれば、

 セーレンは当然、そこから何かを組み立てだす。


 頭の中で、

「帝国」「中央国家」「魔獣」「魔素適合」の文字を並べて、

 まだ誰も口にしていない線を引き始めるだろう。


(その線の先に、何が見えるのか……俺には分からねえけど)


 トーマは、

「お前がいたら、どう分析する?」と続けかけた文を、

 丸ごと線で消した。


(これは俺の安心のための質問だ)


 あいつに状況を説明して、

「やっぱりそうだよな」と頷ける理屈が欲しいだけだ。


 それは、自分の不安を軽くするための手紙であって、

 セーレンの荷物を増やすだけかもしれない。


 ペン先を持ち直し、

 トーマは改めて書き始める。


『セーレンへ。

 元気にやってるか。飯はちゃんと食ってるか。

 あんまり食わないと、本当に機械になっちまうからな。』


 いつもの調子。

 日常の話と、どうでもいい冗談を混ぜる。


『こっちは相変わらずだ。

 兵隊の兄ちゃんたちがやけに走り回ってるけど、

 俺たちはまだ机の前で数字と格闘してる。

 お前がいたら、きっと"訓練の効率"とか言い出して、

 ランニングの距離を勝手に最適化しようとするんだろうな。』


 軽口の裏に、

「最近こちらはちょっと物騒だ」という一文を、

 さりげなく紛れ込ませる。


 それ以上は、踏み込まない。


『返事は短くてもいい。

 生きてるって一行だけでも書いてくれれば、

 こっちはだいぶ安心する。

 ——トーマ』


 書き終えたところで、

 トーマはペンを置いた。


(これも、結局は俺の安心のための手紙か)

 苦笑いする。


 それでも、書かずにはいられなかった。


 あいつからの「生きている」という一文が、

 帝国の、この落ち着かない日常の中で、

 自分が踏みとどまるための目印になるのだから。



 セーレンからの返事は、

 その後も細く、しかし途切れずに届いた。


 大丈夫だ。

 問題ない。

 仕事は順調。


 変わらない文面。


 封書を何通も並べて眺めながら、

 トーマは小さくぼやく。


「……大丈夫って言葉ほど、信用ならねえもんはないな」


 それでも、

 便箋を新しく取り出し、

 インク壺の蓋を開ける。


 帝国の日常は、

 少しずつ戦支度の色を濃くしていく。


 兵士は増え、

 食料の値段は上がり、

 研究室には軍印の押された依頼が積まれていく。


 練兵場からの号令は、

 以前より一層、長く、頻繁に響くようになった。


 セーレンのいる中央国家もまた、

 同じように何かが動いているはずだ。


 その真ん中で、

 彼がどんな顔をしているのか、

 トーマには分からない。


 分からないからこそ——


(返事が来なくなっても、送るのはやめない)


 ペン先を走らせながら、

 トーマは心の中で呟く。


("ここに戻る道がひとつは残っている"って、

 いつか気づけるように)


 たとえ、その道を選ぶかどうかを決めるのは、

 セーレン自身だとしても。


 帝都の夜は、

 遠くの練兵場からの号令を響かせながら、更けていく。


 その片隅で、

 一人の男が机に向かい、

 ただひたすらに、

 生きている誰かへ向けて手紙を書き続けていた。


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