第6節 空洞の街
それから、さらにいくつか季節が巡った。
帝国から送られてきた出向辞令の日付を指でなぞれば、
中央国家に来てから、もう三年近くが経っている。
窓の外は、また冬の空だった。
到着した年の春は、まだ明るかった。
陽光が、黄色い煉瓦を照らしていた。
しかし、三度目の冬の空は、
鉛を溶かしたような灰色に塗りつぶされている。
セレンは、黒いコートの襟を立てた。
袖口は、何度も洗っても落ちない泥と血の染みで、
黒ずんでいる。
自分の灰色の髪も、
この暗い部屋の中では、
燃え尽きた炭のように見えた。
社交の場は、いつの間にか日常の一部になっていた。
最初の頃こそ「帝国からの珍しい客人」として遠巻きに眺められていたが、
通い慣れた館の数が増えるにつれ、
貴族社会の中でのセレンの“扱い方”は、きれいに共有されていった。
——背の高い、灰色の紳士。
——穏やかで、礼儀正しく、滅多に感情を乱さない。
——危険な駆け引きに持ち込もうとしても、
ふわりとかわされてしまう相手。
「ねえ、今夜はどなたが“灰色の顧問殿”の笑顔を勝ち取るのかしら」
鏡の前で髪を整えながら、
若い伯爵令嬢が、友人に囁く。
「一度、心から笑わせてみたいわ。
あの、少し疲れたような目が、ちゃんとほどけたらきっと綺麗よ」
「本気になっても無駄ですわよ。
あの方、誰に対しても同じ距離を保っていらっしゃるもの」
扇の影で、年上の婦人がくすりと笑う。
「安全なお相手なの。
妃殿下が気を揉まれる心配もない。
“帝国からの理性の象徴”とお喋りした、という話の種にもなる。
だからこそ、遊びにちょうどいいのよ」
笑い声が、絹の裾と一緒にさらさらと揺れる。
セレンは、その笑い声の輪の少し外側に立っていた。
白い館の大広間。
いくつものシャンデリアが、夜を金に溶かして吊り下げている。
グラスを手にしたまま、彼は会話の往復を見極める。
右から侯爵夫人、左から若い令嬢、少し離れて大使館関係者。
誰に話を振られてもいいように、
社交用の返答は頭の中で整えてある。
「中央国家の街路は、本当に魔素灯が多いのですね」
「まあ、お気づきになりましたの?」
「仕事柄、どうしても目についてしまいます」
そう言って微笑めば、
相手は「仕事柄」という安全な枠組みの中で話を続けてくれる。
魔獣の話。
最近減った被害の話。
帝国の寒さの話。
どの話題にも、セレンは必要な分だけ相槌を打ち、
笑うべきところではきちんと口元を緩める。
(情を差し出さなければいい)
そう決めてしまえば、
会話は一種の計算に近づいていく。
問いの意図を読み、
相手の立場を推し測り、
もっとも摩擦の少ない言葉を選び出す。
五節の頃よりも、
彼は明らかに「社交がうまくなっていた」。
それは誇るべきことのはずなのに、
どこか、自分の中身が一枚ずつ剥がれていくような感覚があった。
(この場にいるのは、セレンという役者だ)
笑うタイミングも、首を傾げる角度も、
用意された台詞の一部のように感じられる瞬間がある。
セーレンと呼ばれていた頃の自分が、
遠い舞台裏に押し込まれていく。
社交の合間にも、
白衣会の痕跡探しは続けていた。
教会の出入り記録。
移民・亡命者の登録。
大学や研究施設の職員名簿。
帝国から渡された名簿と照らし合わせ、
「この教団なら、この祈祷理論家なら、紛れ込んでいてもおかしくない」という候補を
いくつも仮定する。
ある日、街の外れの教会をたずねた。
入口の上には、アルケイアの印——
二重の円と、そこに走る斜線が刻まれている。
セレンは神父に名を告げ、
亡命してきた神学者のことで訊ねた。
「中央国家に来たばかりの祈祷理論家が、
ここに籍を置いていたと伺ったのですが」
「さあ」
神父は、困ったように微笑む。
「ここ数年、新しい神学者は任じられておりませんよ。
出入りの祈祷師ならば何人かおりますが、
皆、この国で生まれた者です」
別の日には、大学の研究棟を訪ねた。
名簿上では、
白衣会の一員と同じ出身地・同じ専門を持つ祈祷理論家が、
数年前まで在籍していたはずだ。
「申し訳ないが、その名の者は、最初からこちらに所属していないことになっている」
窓口の職員は、事務的な口調で言った。
「人事記録にも、講義の記録にもありません。
どこか別の大学とお間違えでは?」
別の研究施設では、
似た経歴の人物が「地方へ転任した」と告げられる。
「どちらの地方ですか?」
「……さあ、詳しくは。
国家プロジェクトに参加しているとだけ伺っています」
「連絡先は?」
「申し訳ありません。それはお答えできません」
いずれの場合も、
追撃の質問を重ねようとすると、
柔らかな笑みが、するりと彼の言葉を包み込んでしまう。
「我々の権限では、お役に立てませんので」
「この国では、人事と信仰の問題は、とても繊細なのです」
角ばった拒絶ではない。
暴力でもない。
礼儀と体裁の形をした「これ以上は来るな」が、
きれいな包装紙に包まれて差し出される。
(誰かが、系統立てて“ひとつ先”を消している)
セレンは、ノートにその感想を書き留めた。
日付。
訪ねた場所。
会えなかった人間の名前。
そこで告げられた「不在」の理由。
ばらばらに見える言葉が、
並べてみると一つの模様を描き始める。
——地方へ転任。
——国家プロジェクト。
——最初からいないことになっている。
中央国家という街そのものが、
必要な部分だけを巧みに空洞にしているように思えた。
帝国からの便りは、それでも途切れなかった。
研究室の引き出しの一番奥に、
トーマの筆跡の封筒が、少しずつ積もっていく。
『セーレンへ。
こっちは相変わらずだ。
このあいだ、マルクがとんでもない計算ミスをやらかした。
お前がいたら、一日中ネチネチ説教してただろうな』
『今年のヒンメルランドは雪が少ない。
お前がいたら、“統計的には珍しい”とか言いながら、
嬉しそうに散歩に出ていたかもしれないな』
紙の向こうでは、
帝国の冬と、科学班の日常と、
変わらない軽口が続いている。
セレンの返事は、
アデルの結婚の報告を受けた頃よりさらに痩せた。
——手紙、受け取りました。
——こちらも生きています。
——仕事は忙しいですが、問題はありません。
そんな事務報告のような文面のあとに、
何度か「おめでとう」や「良かったな」と書こうとして、
ペン先は空中で止まる。
(嘘は書きたくない)
トーマにだけは。
そう思えば思うほど、
言葉は細く、冷たくなる。
あるとき、封書ではなく、
小さな包みが届いた。
開けると、厚手のマフラーと、
見覚えのある形のマグカップが出てきた。
ヒンメルランドで四人——
トーマ、マルク、アデル、セーレン——が使っていたものと同じ型だ。
マフラーに挟まれた紙切れには、
癖のある字で一行だけ書かれていた。
——これ巻いとけ。少なくとも風邪はひかねぇ。
マグカップの底には、
小さな鉛筆書きで、こうある。
——割るなよ。
指先に、ふと温度が戻る。
それは、マフラーに触れたからではなかった。
(……何を返せばいい)
便箋に「ありがとう」と書こうとして、
やはりペン先が止まる。
感謝の二文字は、
この街で“線を繋いでおくための礼儀”として使われることを、
彼は嫌というほど見てきた。
同じものを、トーマに向けては使いたくなかった。
代わりにセレンは、
中央国家の高級文具店へ足を運んだ。
滑らかな軸のペンと、
使いやすいインクのセット。
実用本位で、過剰ではないもの。
(仕事には役に立つだろう)
そう自分に言い訳しながら、
包装紙を選び、
送り状に宛名を書く。
「ありがとう」という言葉はどこにも書かない。
だが、選んでいるあいだだけ、
背中に張り付いていた痛みが、少しだけ和らいでいた。
(これは感謝じゃない。ただ、“線を切らないための儀礼”だ)
それが事実であることも、
その儀礼に自分が救われていることも、
どちらも否定できなかった。
咳が出始めたのは、その冬だった。
最初は、空気の乾燥のせいだと思っていた。
夜更けの研究室で、
書類に顔を近づけていると、
喉の奥に砂粒のような違和感が生まれる。
一度咳払いをすれば治まるはずが、
いつの間にか、短い咳が連なって出るようになっていた。
胸ではなく、気管の奥がひりひりとする。
(少し風邪気味なだけだ)
そう片づけて、
仕事の合間に温かい茶を飲む程度で済ませる。
咳が長引き、背中まで鈍く痛むようになっても、
薬を探そうとは思わなかった。
母リサの咳。
父カスパルが調合してくれた甘いシロップ。
帝都での記憶が、
薬という言葉に結びついて立ち上がってくる。
(あの薬は、この国にはない)
同じ配合を再現しようと思えば、
やりようはあるだろう。
だが、そこまで手を伸ばすことは、
何かを認めてしまうようで、できなかった。
(理性の負けを認めたら——)
自分の罪が、追いついてくる。
谷でのあの日から、
ずっと背後に貼りついていた影が、
一気に肩にのしかかってくる気がした。
だから彼は、
ただ咳を、咳としてやり過ごす。
少し疲れているだけだ、と。
ある晩、
社交の席からの帰り道。
馬車を断り、
セレンは一人で街を歩いていた。
夜の中央国家首都は、
魔素灯の光に縁取られている。
石畳の通り。
行き交う馬車の車輪の音。
開け放たれた酒場からこぼれる音楽と笑い声。
人の声と、器の触れ合う音と、
遠くの教会から流れてくる定型句の祈り。
街は、生きているように騒がしい。
だが、その喧騒は、
薄い皮膜のように彼の周囲を覆っているだけで、
内側まで染み込んでくることはない。
冷たい風を黒いコートが遮るように。
(よくできた空洞だ)
心のどこかで、
そんな言葉が浮かぶ。
魔素灯の光が、
街路の霧に淡く滲む。
輪郭だけ残された灰色。
(あれは、まだ「何か」を灯していた)
今の自分の胸の中には、
その輪郭すら見えない。
ふいに咳が込み上げて、
セレンは歩みを止めた。
喉が痙攣し、
しばらく息がうまく吸えない。
建物の影に片手をつき、
咳が収まるのを待つ。
背中の奥に、
鈍い痛みがじわりと広がる。
通りを行く人々は、
誰も足を止めない。
誰も、彼が咳をしていることに気づかない。
魔素灯の光の下で、
灰色の顧問は、
きちんと着こなした礼服の内側で、
静かにすり減っていく。
その夜の街は、
いつもと変わらず賑やかだった。
空洞を抱えたまま歩く一人の男を、
確かに包み込みながら——
何ひとつ、触れないままに。




