第5節 孤立
出向から二年が過ぎた頃、セレンは二つ目の研究成果をまとめ終えていた。
一つ目の研究——魔素ゆらぎ仮説と、その収束手順。
二つ目の研究——魔素安定化理論。
魔素ゆらぎ仮説によって浮かび上がったのは、
「空気中の魔素は総量こそ一定だが、環境によってわずかに偏る」という事実だった。
中央国家はその結果を受けて、人口の配置を見直した。
——ここは居住区を絞る。
——こちらは工房を増やす。
——市場の拡張は、この通りではなく、一つ隣の通りで。
魔獣が多発してきた地区の地図に、人口推移を書き込む。
魔素灯の点検記録と、発生頻度を重ねる。
その結果、「人が増えれば増えるほど、魔素の揺らぎが大きくなる街路」が、静かにマーキングされていった。
(人口を動かすことで、出現箇所だけは“ある程度”絞り込める……)
魔獣そのものを止めることはできない。
だが、人の流れ・住居の密度・工房の配置を調整することで、
「無防備な場所でいきなり喉笛を噛まれる」確率だけは下げられる。
セレンの式は、いつの間にか都市計画局の机の上にも載るようになっていた。
彼の名は、内部資料の片隅に記号として記載されているだけだが、
それでも一時期、魔獣による死傷者数のグラフは、ゆるやかに頭を下げた。
(理屈が、人をほんの少しだけ死から遠ざける)
その数字を見るたびに、セレンは、胸の奥でわずかな安堵を覚えた。
——魔素安定化理論は、その延長線上にあった。
魔素が環境によってわずかに揺らぐのなら、
道具の側からその揺らぎを均してやることもできるはずだ。
魔素灯、魔素計測器、簡易の医療器具。
それらに組み込むための「基準」の作り方。
揺らぐ前提で、揺らぎを打ち消し合うように魔素の流れを設計する方法論。
セレンはそれを「魔素安定化理論」と名付け、
器具内の魔素が一定の状態を保ちやすくなるような式と手順にまとめた。
後の時代、この理論は液体魔素の安定化に転用されることになるが、
このときのセレンは、そこまで思い至ってはいない。
(揺れを理解したのなら、次は“揺れを扱いやすくする”番だ)
その程度の、ごく素朴な発想だった。
「立派な成果だ、セレン顧問」
ある日、技術局の小会議室で報告を終えると、
局長が珍しく笑みを見せた。
「事故処理の現場だけでなく、魔素機器の設計にも応用できる。
都市計画とも連動させやすい。
中央国家として、大いに評価している」
机の上には、中央国家式の整ったフォーマットに載せ替えられた論文の束があった。
そこに大きく印刷されているのは、別の研究者の名である。
「……著者欄が、違いますね」
セレンは、事実だけを確認するように問いかけた。
「外交上の配慮だ」
局長は、悪びれもせずに言った。
「帝国出向者の名を全面に出せば、
“帝国が中央国家の魔素政策を握っている”などと騒ぐ者が出かねん。
君の式は、こちらでは“共同研究”として処理した方が穏当だ」
机の端には、内部用の技術資料が積まれている。
そこには、小さな字で「提案者:セレン・エルンスト」と記されていた。
「真理は、所有するものではない」
セレンは、そう口にした。
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと。
(誰のものでもない、はずだ)
「誰の名で公表されようと、
手順が正しく伝わり、使われるのなら、それで十分です」
「そう言ってもらえると助かる」
局長は満足げに頷き、会議はそれで終わった。
部屋を出るとき、セレンは自分の指先が、
ごくわずかに震えていることに気づいた。
(怒っているのか? それとも、怒るべきだと思っているだけか?)
答えは出ない。
セレンは、窓の外へ視線を向けた。
曇り空の下、街路の石畳は濡れて黒ずんでいる。
昨夜の雨が、まだ乾ききっていない。
自分の灰色の髪が、ガラスに薄く映り込む。
以前は銀色に見えたその色が、
今日は煤けた灰色にしか見えなかった。
疲れているだけだ、と判断した。
実際、疲れているのは事実だった。
社交界への招待状が届くようになったのは、その少し後のことだ。
外務局を通じて、帝国出向者としての「顔見せ」を求められる。
貴族街の一角に立つ白い館。
高い天井、煌めくシャンデリア、色とりどりのドレス。
セレンが足を踏み入れると、
視線が幾つも、さざ波のように寄せては返した。
「ねえ、あの人がそうでしょう?
帝国から来た“灰色の科学者”」
「本当に髪も目も灰色なのね。
粉を振っているわけじゃないのよね?」
「失礼ですわよ。……でも、少しわかるわ」
ドレスの袖口から覗く指先が、扇子の影でひそひそと動く。
「どの方が、お気に召していて?」
「さあ。どなたにも同じ調子で、あまり表情を変えないご様子でしたわ。
誰が先に、あの方から“本物の笑顔”を引き出せるか、
わたくしたちのあいだで、小さな遊びになっているの」
「まあ。危険の少ない遊びですこと」
笑い声。控えめな囁き。
セレンは、その視線を正面から受け止めることには慣れつつあった。
侯爵夫人が、役割として話しかけてくる。
「エルンスト顧問。
いつも我が国のためにご尽力くださっているそうで」
「いえ。与えられた職務を果たしているだけです」
彼は礼儀通りに頭を下げる。
「魔獣の件、最近は以前ほど大きな被害を聞きませんわ。
理論のおかげ、と伺っていますの」
「皆様が手順に従ってくださっているからこその結果でしょう」
無難な返答。
相手の功績に帰す言い回し。
社交用の言葉は、事前にいくつも用意してある。
そうしておけば、感情を動かさずに会話を乗り切れる。
「それにしても、そのお色……」
隣にいた若い貴婦人が、興味深げにセレンの髪を見つめた。
「帝国では、ごく普通の色なのですって?
こちらでは、とても珍しい。
光の具合で金にも銀にも見えるのね。神秘的だわ」
セレンは、わずかに瞬きをした。
ヒンメルランドの雪曇りの空。
泥と霜と鉛色の雲の色。
子どもの頃から、自分の髪と目の色はその風景を思い出させた。
冬の終わりの、まだ春になりきれない空の色。
(好きではなかった)
そう思うより先に、貴婦人は続ける。
「アルケイアの“沈黙の光”みたいでもありますわね。
あの宗教画の、消えかけた九つの光。
残っている一本の光は、もしかしたらああいう色かもしれないと思いませんこと?」
セレンは視線を壁の絵へと向けた。
円の中に十本描かれた光のうち、九本は金を塗りつぶされ、
一本だけが淡い灰色で輪郭を残している。
(沈黙の光、か)
かつて、少女に突き立てられたであろう注射針の金属光。
そのあとに残った沈黙。
貴婦人の言う「神秘的な灰」と、
彼が知る「冷たい灰」の間には、埋めようのない溝がある。
「……光栄です」
用意しておいた返答を口にする。
「こちらでは、そう表現されるのですね」
ヒンメルランドの泥と霜の色が、
この国では「神秘」と言われる。
その差異に戸惑いながらも、
セレンは表情を変えない。
(同じものを、別の言葉で呼ばれているだけだ)
そう理解しても、違和感は消えなかった。
会話は、それでもこなす。
「中央国家の街路は、帝国より魔素灯が多いのですね」
「まあ、お詳しいのね」
「仕事柄、どうしても目につきます」
笑顔を向け、相手の話を促し、
当たり障りのない質問を返す。
表面的なやりとりだけなら、
セレンはいつの間にか器用にこなすようになっていた。
(ここでは、情を差し出さない方が安全だ)
そう決めてしまえば、必要なのは言葉の選択だけだ。
帝都でアデルに「あなたらしいわね」と言われて戸惑った頃よりも、
ずっと滑らかに、他人行儀な自分を演じられる。
——こちらの人間はセーレンではなく、誰もが自然に「セレン」と呼んだ。
最初のうちは、そのわずかな差がありがたかった。
谷で少女を殺したのはセーレンであって、
この国にいるのはセレンだ、と考えれば、
まだやり直せるような気がした。
だが最近では、時折こうも思う。
(ここにいるのは、セレンという役者だ)
社交の場で無難な言葉を並べ、
研究室では合理的な判断だけを差し出す役。
“僕らしい”と呼べる何かは、
そのどこにも残っていないのではないか——と。
社交の場も、白衣会の探索に使えないかと、
セレンは一度試みたことがある。
「最近、教会や大学で、優秀な亡命学者が増えていると耳にしました」
ワインを少しだけ口にしながら、
さりげない調子で問いかける。
「ええ、まあ。どこからかは存じませんけれど」
令嬢のひとりが笑って肩をすくめた。
「でも、“亡命学者”なんて、いかにも物語めいていて素敵でしょう?
皆さん、その話をしたがるのですもの」
「実際には?」
「さあ。噂は噂ですわ。
わたくしたちは楽しくお茶を飲めれば、それで充分ですもの」
別の婦人は、扇子で口元を隠しながら、
どこか冷えた目をして言った。
「教会や大学の人事は、わたくしたちの手の届かないところで決まりますの。
詳しいことは、あまり詮索しない方が賢明ですわよ」
柔らかい微笑みとともに返ってくる、
丁寧な拒絶。
(ここにも、壁がある)
セレンはそう悟った。
暴力ではなく、礼儀としての拒絶。
それは、中央国家という国そのものの性質に思えた。
夜。
社交のざわめきも、研究棟の足音も消えた頃、
セレンはひとり、机に向かっていた。
帝国からの手紙が、引き出しの片隅に積もっている。
差出人は、ほとんどがトーマだ。
トーマからの手紙は、その頃も定期的に届いていた。
一通目のぎこちない返信を出してから、
トーマは何事もなかったかのように、一定の間隔で便りを寄こし続けている。
『セーレンへ。
こっちは相変わらずだ。
マルクのやつ、相変わらず理屈っぽいくせに、たまに肝心なところで情にもろい。
おまえに似てると言ったら、全力で否定された』
『最近、帝都の魔素灯がちょっと増えた。
おまえなら、“あの灯は配置が悪い”とか言って文句をつけただろう。
そういう面倒くさいところ、少し恋しいぞ』
そんな調子で、
帝国科学班の日常と、どうでもいい冗談と、少しだけ本音が混ざった手紙たち。
セレンの返信は、回数を重ねるごとに痩せていった。
最初は、
仕事の状況や現場の様子を、それなりの文量で説明していた。
やがて、
「仕事は順調だ」「体調に問題はない」という事務的な一文が中心になり、
最近では、
——受け取りました。ありがとう。
という短い行で終わることもあった。
トーマの「大丈夫か?」という問いに、
彼は本気で「問題ない」としか答えようがなかった。
自分の中のどこを見ても、「完全に壊れている」と確信できる場所は、まだ見つけられなかったからだ。
息苦しさも、手の震えも、
眠れない夜も、
(環境が変わったせいだ)
(少し疲れているだけだ)
そう説明すれば、一応の理屈は立つ。
壊れている、と認めてしまうよりは、
その方がまだ「合理的」だった。
それは、二つ目の研究の草稿を書き終えた日の、
深夜に近い時間だった。
新たに届いたトーマからの手紙を開いた。
『そういや報告が遅れた。
アデル、結婚したぞ。相手はマルクだ。
お前がいたら、どうせ変な理屈をつけて茶化したに違いない。
式の最中に、「統計的には離婚率がどうこう」とか言い出して、
アデルに怒鳴られていただろうな。
でもまあ、あいつらなら大丈夫だろ。
——お前はどうだ。
ちゃんと飯は食ってるか。
“元気にやっている”と言い切れるか?
返事は短くてもいい。
生きてるって一行だけでもいいからな。
——トーマ』
読み終えた瞬間、
セレンはペン先を紙の上に置いた。
まず、頭に浮かんだのは「理屈としての納得」だった。
(マルクとアデルなら、うまくやっていくだろう)
仕事への姿勢も、生活のテンポも近い。
互いに、相手の欠点を合理的に補い合えるだろう。
その次に来たのは、
自分の中を覗き込もうとした、あの女性の横顔だった。
——あなたらしいわね。
帝都の研究室で、
自分の理屈を聞き終えて笑ったアデルの声が、
耳の奥で蘇る。
あのときは、内側を覗かれる怖さと、
判定される不快さと、
それでも肯定されたという安堵とが、
ぐちゃぐちゃに絡まり合っていた。
(僕らしい、とは何だろう)
今、この地でその言葉を思い出すと、
胸の中に空洞のようなものが広がった。
マルクとアデルは、
きちんと“地上の人生”を選び取って、
別の線の上を走り出した。
自分だけが駅に立ち尽くして、
遠ざかっていく馬車の背中を見送っている。
そんな光景が、ふと頭に浮かぶ。
(あの人は、もう“こちら側”じゃない)
その自覚は、嫉妬とは違った。
ただ、「線の違い」を突きつけられた感覚に近い。
ペン先が、便箋の上で小さく揺れた。
『おめでとう』
と書こうとして、止まる。
祝うべきことだ、と頭では分かっている。
マルクとアデルなら、きっとうまくやっていくだろう、とも。
だからこそ、曖昧な一言では済ませたくなかった。
自分の中の感情がどこにも定まっていないまま、
「よかったな」と書くのは、
嘘になる気がした。
結婚の報せを聞いた瞬間、
もう自分を覗き込まれることも、肯定も否定もされることもない——
そう思うと、変な言い方だが「安全」だとも感じた。
その「安全」が、「完全に過去の人になった」こととセットでやってくる。
(今の僕は、本心から祝えているのか?)
トーマへの手紙に嘘は書きたくなかった。
数少ない、生きた繋がりだからこそ。
結局、ペン先が動いたのは、
別の行だった。
——研究は順調だ。体調に問題はない。
——こちらの生活に、特に不都合はない。
そこまで書いて、手が止まる。
トーマの「大丈夫か?」という問いに、
セレンは本気で「問題ない」としか答えようがなかった。
自分の中のどこを見ても、
「壊れている」と確信できる場所は、まだ見つからない。
息を吐き、手紙を畳む。
便箋を封筒に収めながら、
再びアデルの言葉が甦る。
——あなたらしいわね。
(“僕らしい”とは、何だったのだろう)
谷で少女を殺したのはセーレン。
この国で役に立っているのはセレン。
セーレンとセレン、
二つの名のあいだにあったはずの境界は、
いつの間にかぼやけていた。
社交の場で仮面をかぶり、
研究室で「合理的な判断」を差し出す役者。
そこにいるのは本当に自分なのか、
それとも、よくできた人形なのか。
分からない。
便箋に残ったインクの痕を見下ろしながら、
セレンは、静かに呟いた。
「神の沈黙ではない」
声は、誰にも聞かれない。
「沈黙しているのは、僕自身だ」
その夜、
灯りを落とした研究室で、
彼は初めて、自分の手の震えを
“冷え”ではなく、別の何かとして意識しかけていた。
それでも、翌朝の報告書には、
いつも通り整った文字が並ぶ。
中央国家にとって役に立つ、
灰色の顧問——セレンとしての一日は、
何事もなかったかのように続いていくのだった。




