第4節 虚無の研究室
だが、中央国家の報告書は、徹底して均質だった。
どれも同じ書式。
同じ語順。
同じ祈りの定型句。
個人の癖は、ほとんど削ぎ落とされている。
中央国家の報告書は、端から端までよく磨かれていた。
「誰が書いても同じになること」が、美徳とされているようだった。
赴任から一年を待たぬうちに、セレンはうすうすそれを悟っていた。
定型句として許された祈りの文言は、冒頭か末尾に決められた位置でしか顔を出さない。
魔素式は国が定めた書式で統一され、筆順も記号の向きも、例外なく揃っている。
一行一行を追っていると、誰かが書いた文章というより、「どこかで鋳造された文」を一枚ずつ読み上げているような気分になってくる。
「……徹底しているな」
思わず、独り言が漏れた。
これは白衣会の痕跡を隠すため、というより、中央国家そのものの性質なのだろう。
責任の所在を明確にしながら、同時に個人を前に出さない。
(それでも、どこかに“揺れ”はある)
魔素がそうであるように、人間の記録も、完全な均質にはなり得ない。
誰かが、どこかで、指先を滑らせている。
セレンは、自分用のノートに、報告書番号と気になる文言を抜き出して並べた。
祈りの一句。
数字の丸め方。
「事故」と「現象」という言葉の選択。
一つ一つは取るに足らない違いだが、組み合わせれば「書き手」の輪郭がぼんやりと浮かんでくる。
だが、それは紙の上だけの話だ。
実際に人間の動きを追おうとすると、「揺れ」は途端に消え失せた。
教会の出入り記録。
移民・亡命者の登録。
大学や研究施設の職員名簿。
技術局の権限で参照できる限りの台帳に、セレンは照会をかけた。
名簿と特徴からすると、「この教団なら、この研究室なら紛れ込んでいそうだ」と思える場所はいくつもあった。
だが、該当者をたどろうとすると、決まってどこかで線が切れる。
——数年前に地方へ異動済み。
——国家プロジェクトに転出。
——当該年度の記録は、新書式導入に伴い統合・破棄。
あるいは、もっと露骨な場合には、
——最初からそんな名前の職員は存在しない。
書類の上で、「存在しなかった人間」が、あまりにも滑らかに連続して現れる。
窓の外は、またも曇天だった。
中央国家の冬は、帝都ほど雪は降らないが、
空は鉛色に重く垂れ込めている。
セレンは、積み上げられた書類の山を見下ろした。
白い紙の束。
黒いインクの文字。
そして、その間に隠された「何か」の灰色の影はいまだ掴めない。
ある晩、技術局の無人の研究室で、セレンは机の上に資料を並べていた。
壁際には、中央国家らしい白い棚が整然と並び、個人の飾りはひとつもない。
窓ガラスには、外務局庁舎の時計塔の光がぼんやり映っている。
帝国からの名簿と、中央国家統計局から取り寄せた写しが、机の上で向かい合っていた。
カール・レーデルに対応しそうな経歴。
アデルと同じ大学で学んでいた、祈祷理論の研究者の名。
ヨナス・フェルマンと同じ学派に属していたはずの神学者の履歴。
点だけなら、いくつも見つかる。
けれど、線にならない。
ある時期を境に、特定の記録だけが、ごっそりと「まとめて」書き換えられている。
職員名簿の欄が「○○教会外部協力者」とだけ記されるようになった年。
出入り記録の個人名が番号に置き換えられた年。
亡命者登録簿から宗教区分と旧所属欄が消えた年。
それらが、奇妙なほど近い年代に揃っていた。
(偶然……だろうか)
ノートの余白に、セレンは小さく「なぜだ?」と書き込んだ。
一度書いて、丸で囲み、少ししてから、もう一度書く。
同じ言葉が、余白のあちこちでじわじわと増えていく。
(単に、官僚的な整理の結果かもしれない)
そう自分に言い聞かせる。
国が大きくなれば、記録の取り方を統一する必要が出てくる。
古い書式が残っていれば、現場は混乱する。
白衣会のような異端者を恐れて、「教会関係者」の扱いを慎重にしただけかもしれない。
理屈としては、説明できる。
だが、机の上の紙束は、あまりにも綺麗に揃いすぎていた。
名前を消すときは、もっと歪みが出るものだ。
消し損ねた一画や、書き換え前の肩書きの痕跡。
誰かの筆跡だけが、別の頁にひっかかって残っている。
ここには、それがほとんど見当たらない。
(本当に、この国に“いる”のか?)
初めて、その疑問が、心の中ではっきりと言葉になった。
帝国からの名簿。
中央国家の統計。
教会の出入り記録。
それらを組み合わせていけば、「どこか」に辿り着くはずだった。
そう信じていた理の線が、途中で何度もぷつり、ぷつりと切れている。
自分の組み立て方が間違っているのか。
そもそも前提からして誤っているのか。
あるいは——誰かが、意図して「切れるように」整えているのか。
どの可能性も、決め手を欠いていた。
ただ一つ確かなのは、「線がどこにも繋がらない」という感覚そのものが、
セレンの胸の内側をじわじわと塞いでいくことだった。
窓の外では、午後の雨が静かに降っていた。
ガラスの向こうで流れる雨粒の動きだけが、
彼にとって唯一「時間」を感じさせるものだった。
セレンは書類をめくる。
数字は整然と並び、理路は正しい。
誤りのない構造。
だからこそ、息苦しかった。
(また、何も進まなかった一日だ)
淡灰の髪を後ろで束ねながら、彼は机の上の報告書に判を押す。
この国の研究は美しい。無駄がない。
だが、あまりに美しすぎて、生の匂いがしない。
研究は評価される。
魔素ゆらぎ仮説は「有用な指標」として組み込まれた。
それは、自尊心を撫でるには十分だった。
けれど、それは喜びではなかった。
誰かの表情が変わるわけではない。
あの谷で、自分の理屈に巻き込まれて死んだ少女の顔も、ここにはない。
(理性で誤りを見つければ、死は救済される——そう考えたはずなのに)
異端者の谷で噛みしめた痛みが、
ここへ来て、ゆっくりと顔を出し始めていた。
理性だけを頼りにする、と決めた。
情に縋って、自分の罪を薄めることはしない、と。
その決意だけが、今も胸の奥で硬く残っている。
だからこそ、誰かの温度に手を伸ばすことが、余計に怖かった。
机の引き出しを整理しようと思ったのは、その夜のことだった。
溜まりすぎた紙を一度片付けたかったのと、
何か一つでも「片がついた」感覚が欲しかったのかもしれない。
書きかけのメモ、古い報告書の写し、破り取った計算用紙。
その奥から、小さな封筒が出てきた。
帝国の印。
見慣れた筆跡。
着任して間もない頃に届いた、最初の手紙だった。
封はすでに切られている。
きれいに畳まれた紙を、彼は慎重に広げた。
「セーレンへ。
生きてるか? 飯食ってるか?
おまえ、食わないと機械になるぞ。
こっちは相変わらずだ。
マルクが相変わらずぶつぶつ言いながらも実験を回してる。
アデルは真面目すぎて、たまに上の連中に本気で意見しては、あとで頭抱えてる。
見てて飽きない。
俺もまあ、今ちょっといい感じの人がいる。
でも、たぶん向こうが賢い。俺が飽きられるパターンだな。
おまえもさ、
理屈ばっか考えてると、お茶が冷める前に飲めなくなるぞ。
じゃ、またな。帝国の空は曇り。
そっちは晴れてるか?
——トーマ」
読み返すのは、これが初めてではない。
届いた日にも読んだ。
そのあとも何度か、机に突っ伏した頭を上げるたびに、目に入っては広げた。
なのに、返事は一度も出していなかった。
同じ引き出しの奥から、別の紙束が出てきた。
封もされていない、書きかけの手紙。
——親愛なるトーマへ
——手紙をありがとう。届いた日の夜、雨が降りました。
そこから先の行は、不器用な文字で埋められていた。
『帝国の空を思い出しました。あちらも同じように曇っているのかもしれません。
君たちが無事でいることを知って、少し安心しました。
研究の話も、笑い話も、どれも懐かしく感じます。
……何か返そうと思って書き始めたのに、筆が進みません。
君の言葉に対して、何を言えばいいのかわからない。
理屈ではなく、ただ心が動いているのだと思います。
それをどう書いていいかが、僕にはわかりません。
だから、今日はこれで終わります。
また手紙を読み返してみます。
セーレン』
読みながら、セレンは眉をひそめた。
異端者の谷での決意が、そのままにじみ出ている。
——情に縋るな。
——誰かの温度を、自分の罪消しに使うな。
あの谷で、彼はそう自分に言い聞かせた。
この未投函の手紙は、その直後の自分が書いたものだ。
トーマの言葉に、ただ心が動いている、と正直に書いてしまっている。
「また手紙を読み返してみます」という一文は、
まるで、自分の感情を研究対象として棚に上げようとしているようでもあった。
書き終えた当時、それがひどくみっともなく思えて、封をしなかった。
そして、他の紙と一緒に引き出しの奥へ押し込んだ。
同じような未投函の手紙が、何通か重なっている。
(……ずっと、“返信しなければ”とは思っていたのに)
その「思っていた」が、何か月分も重なっている。
白衣会の行き先も見えない。
研究は「役に立つ」と言われるが、その先に誰の顔も浮かばない。
自分がまだ、どこかに繋がっているのだと確かめたくなってから、ようやく、セレンはペンを取った。
引き出しの中の未投函の手紙を一度畳み、別の紙を用意する。
深呼吸をひとつ。
インクを筆に含ませる。
——誠実に書こうとすればするほど、冷たくなる。
そんな予感を抱きながらも、彼は文字を綴り始めた。
『トーマへ。
手紙、受け取りました。
こちらも生きています。食事もとっています。
仕事は忙しいですが、問題はありません。
君の言う「お茶が冷める前に飲む」というのは、
こちらではまだ、うまくできていないようです。
報告書も手紙も、気づくといつも冷めてから読んでいる。
いつか、もう少し温かいうちに返事が書けるようになればと思います。
セーレン』
書き終えて、しばらく紙を見下ろした。
乾いた理性で温度を測るような文面だ、と自分でも思う。
「元気だ」「大丈夫だ」と言いながら、何も説明していない。
もっと賑やかに返すこともできたはずだ。
マルクの不器用さを笑い、アデルの真面目さをからかい、
帝国の曇り空と中央国家の空とを比べてみせることも。
書こうと思えば、書ける。
だが、それをした途端に、自分が何かに縋りついてしまう気がした。
トーマは、数少ない「生きた繋がり」だった。
だからこそ、そこへ手を伸ばすことが、異端者の谷での決意を裏切るように思えた。
罪から目を逸らすために、人に甘えるな。
あのときの自分の声が、背後から静かに見張っている。
(嫌われるのも、怖いくせに)
自嘲めいた思いが、胸の奥で小さく笑った。
誠実であろうとすればするほど、文面は痩せていく。
温度を足そうとすると、その温度ごと、谷の底へ引きずり込まれそうになる。
結局、このくらいの距離が、今の自分の限界だった。
セレンは封筒に紙を入れ、きちんと封をした。
宛先を書く手は、不思議と震えなかった。
帝国宛ての郵便箱に投函するため、廊下に出る。
窓の外では、雨があがっていた。
青白い夕方の光が、研究棟の壁を薄く照らしている。
均質な報告書の山と、どこにも繋がらない名簿と、
そして、一通だけ、ぎこちない温度を帯びた返事。
虚無の研究室の中で、
理性と沈黙に挟まれた細い線が、ようやく外へ向かって伸び始めたばかりだった。




