第3節 理性の国の虚飾
魔獣は、ある日突然「獣であること」から外れる。
最初の現場でセレンはそれを理解した。
羊だったものが、羊であることをやめる。
角が伸び、眼が濁り、筋肉のつき方が変わる。
皮膚の下で、見えない何かに内側から押し広げられていく。
やがて柵を壊し、人間を見れば迷いなく襲うようになる。
そこまでの変化が、ほんの短い時間のうちに起きていた。
(狂犬病……に近いが、違う)
帝都時代に読んだ古い医療書の記述を思い出しながら、彼は無力化された獣に慎重に針を刺した。
魔素計測器は、通常の家畜に比べて、あり得ない数値を示していた。
周囲では、処理班が手順に従ってまた別の獣の無力化に動いていた。
飛び道具の使用許可、鎮静、止め刺し。分厚い手袋と防護衣。
誰も叫ばない。誰も問答はしない。
ここ中央国家では、魔獣の出現が“日常業務”の一部になっているのがわかる。
「セレン顧問、計測値は?」
こちらの人間には「セーレン」という音は舌に乗せづらいらしく、誰もが自然に「セレン」と呼んだ。
最初のうちは、そのわずかな差がありがたかった。
谷で少女を殺したのはセーレンであって、この国に呼ばれたのはセレンだ——
そう思えば、自分はまだやり直せるような気がした。
「基準値の四倍以上。変化後、数時間以内です」
「周囲は?」
「いま測った範囲では、家畜も人も基準値の幅におさまっています」
現場責任者の男は、事務的に頷いた。
「よろしい。“魔獣”として処理する」
命令が飛ぶ。
鎮静された元・羊は、二度と動かないただの肉塊に戻っていった。
周囲の草地も、冬の終わりの色を残している。
緑ではなく、銀がかった灰褐色。
セレンの黒いコートの袖が、
風に揺れて視界の端を掠める。
帝都を発つときに新調したものだが、
すでに何度か現場の泥と血を吸っている。
曇天の下、変わり果てた羊だったものは、
灰色がかった白い毛並みを、血で汚していた。
帝都近辺では、聖女がいた頃から、ごく稀に「狂い」を起こす獣の報告はあった。
ここ中央国家では、もとより帝国より頻度が高く、そのうえ近年は目に見えて増えているという。
年に一度が、数か月に一度に。
数か月に一度が、月に一度に。
そして最近では、週に一度、どこかの村か町で「何か」が獣の皮を破って現れる。
しかも、それはただ暴れるだけではなかった。
群れで動き、統率されたように人間の逃げ道を塞ぐ。
家畜小屋の錠前を壊し、橋や狭い路地を選んで追い詰める。
人々はこれを魔素に侵された獣、“魔獣”と呼んだ。
本来、魔素は人の身体にも獣の身体にも、当たり前に含まれている。
帝国での基礎研究も、中央国家の統計も、そう結論づけていた。
同じ種なら、多少の個体差はあれど、計測値は許容範囲の中でゆるやかに揺れるだけ。
血液や水分と同じように、「そこにあるのが普通」という扱いだ。
だが、魔獣だけは違った。
皮膚のすぐ下から骨の奥まで、どこを測っても異常な値を示す。
グラフにすると、周囲の値が一本の細い線を描く中で、そこだけが何本もの針を突き立てたように飛び出している。
(薄く均一なはずのものが、一箇所に寄り集まっている……)
セレンは、計測器の針を見下ろしながら、ふと自分自身の身体のことを意識してしまった。
(同じものが、この身体の中にも流れている)
今まで当たり前すぎて、考えたこともなかった事実だった。
血管の中、骨の隙間、臓器のどこにでも浸み込んでいるはずの魔素。
それが条件次第で、この羊のように形を書き換えるのだ。
初めて、自分の身の内を巡る魔素が、少しだけ気味の悪いものに思えた。
ヨアヒムが液体として魔素を凝縮できたことも、改めて異常だと分かる。
本来は全身に薄く行き渡るはずのものを、一つの器に集め、注ぎ込める形にしたということだ。
魔獣と液体魔素は、同じ「異常な凝縮」の別の現れなのかもしれない。
(ウイルスのようなもの、と仮定するなら)
かつて師が口にした比喩が、脳裏をかすめる。
——世界に蔓延する魔素という“ウイルス”。
あのときは、現実からかけ離れた思いつきのように聞こえた。
今、変わり果てた羊の残骸を前にすると、その常識外れの発想の方が、むしろ理にかなっているようにも思えた。
とはいえ、魔獣化そのものは、今もって「いつどこで起きるか分からない」の一言に尽きる。
変化は唐突で、直前の値を取る余裕などない。
魔獣となったあとの異常値だけが、事後報告として積み重なっていく。
セレンはそこから逆算するほかないのだと、自分に言い聞かせた。
世界のどこにでもある“環境”でありながら、
ある条件を満たしたときだけ、宿主を変えてしまう。
(もし、あの人がここにいたら、どう解析しただろう)
そう考えかけて、セレンは思考を切った。
ここは中央国家であり、自分はその顧問だ。
元師の影を追うには、時期が違う。
魔獣の処理と並んで、彼の仕事にはもう一つの柱があった。
——旧時代の機械の処理。
崩壊前の世界から掘り出された機械類は、帝国では「傲慢の時代の遺物」として毛嫌いされてきた。
生活魔法と祈りで何とかなる間は、危険な技術に手を触れない方がいい、というのが大方の判断だった。
白衣会を始めとする、一部の技術者集団のみが遺物研究を許可されてきた。
それでもガス灯を再利用した魔素灯や圧力鍋、水圧ポンプなど、
遺物研究の産物は帝国でも広く受け入れられている。
帝国で制限があるのは、歴史的な背景だ。
ガスや電気の再現による事故が多発したことも理由の一つ。
もっとも大きな理由は、中央国家と帝国の間で戦争が起きる寸前になったことだった。
今から四百年ほど前、暦でいえば五七二年。
当時の聖制帝国出身の聖女が、中央国家への視察中に死亡した。
事故であった。敬虔な信徒には聞き入れられず、帝国内で中央国家への敵意が高まった。
二カ国間で緊張が続く中、民間人の紛争が発生。
この紛争で、双方が遺物を利用した武器を持ち出した結果、
遺物同士が干渉し合い、大惨事となった。
そして、教皇が「遺物の転用は悪魔の技術であり、神は許さない」と声明をだす。
両国とも遺物研究が停止する。この時に破棄された資料は多い。
その後、中央国家は三十年ほどで研究を再開し、
一方の帝国は百八十年近く研究が止まってしまったのだ。
百五十年の月日は二カ国の技術力に大きな差を広げることとなった。
中央国家では遺物研究に国の許可はいらない。
民間、個人、商会と研究機関は乱立している。
国一番の研究機関は、セレンが所属する中央国家内の機関だ。
ここでは、見つかった機械はすべて、一度技術事故処理室に回される。
爆発や毒性物質の漏洩につながる危険性がないかを確認し、
構造を分解して、どこまでなら安全に扱えるかを見極める。
セレンは、その「ふるい分け」の手順作りに何度も関わった。
分解した金属の骨格を並べ、目で追える範囲の配線や管の流れを図に起こしていく。
作動原理の分からない機構に無暗に触れないよう、「ここから先は専門班以外触るな」と赤い印をつける。
それは、どこか医療に似ていると感じた。
肉体ではなく機械の構造を読み、どこを切れば安全なのか、どこを残せば生き延びるのかを見極める作業。
「帝国にしては、なかなか頼もしいな、セレン顧問」
同僚の技師が冗談めかして言ったことがある。
「“帝国にしては”は余計です」
セレンはそう返しながらも、内心では悪くない気分だった。
ここでは、彼の判断は「合理的である」と評価される。
感情ではなく手順で、印象ではなく記録で。
帝国で浴びせられた「白衣会の弟子」という色眼鏡は、中央国家ではほとんど効力を持たない。
代わりに、「役に立つかどうか」だけが、きっちりと測られていた。
(理性は、まだ使える)
そう思えることが、彼にとって何よりの救いだった。
やがて、現場で集めた魔獣のデータと、中央国家が蓄積してきた事故記録、人口統計を突き合わせていくうちに、一つの疑問が形を取り始めた。
魔獣化した個体の魔素値。
その場に居合わせた人や家畜の値。
発生した日時、周辺の人口推移、近くで運転されていた機械や魔素機器の種類。
地図の上で重ねていくと、魔獣が繰り返し現れているのは、たいてい人口が増えつつある地域だった。
新しい住宅地、工房の集まる通り、市場の拡張区域。
もちろん、それだけで原因が分かるわけではない。
(人口が増えれば、単純に魔素機器の使用も増える。人が集まり、建物が増えれば、風の通り方も変わる)
セレンは自分にそう言い聞かせる。
人口そのものより、「環境の変化」が問題になっているだけかもしれない。
そのとき、彼は別の“記録”を思い出した。
——魔素灯のゆらぎだ。
ヨアヒムに師事していた頃から、彼は魔素灯の揺らぎが気になっていた。
夜の街路で、魔素灯の淡い光を見上げる。
灯は、青みがかった銀色で街路を照らしている。
その光の下では、
セレン自身の灰色の髪も、
冷たい銀に染まって見えた。
ヒンメルランドの冬の空の色。
まだ春になりきれない、凍てついた景色。
中央国家に来てからも、彼は習慣のように夜道で魔素灯を見上げる癖を捨てられなかった。
街路や病院に据え付けられた魔素灯は、周囲の魔素の流れを受けて淡く光る。
光量は一定に保たれるよう制御されているはずなのに、場所や時間帯によって、ごくわずかに“息をする”ように明滅することがあった。
他の誰も気にしないような微かな揺らぎ。
帝国では、ただの誤差として片づけられていた。
魔獣騒ぎのあった地区の記録を洗い、同じ期日の魔素灯点検記録を取り寄せる。
そこには、「光量制御の微調整」「出力の不安定化」といった短い備考が、さりげなく書き込まれていた。
本来、空気中の魔素は「一定」とされている。
人や獣の体内に取り込まれた分を除けば、どこを切り取っても同じ濃度、と教科書は言う。
(本当に、そうか?)
セレンは、魔素灯の記録を前にして眉をひそめた。
もし空気中の魔素が完全に均一なら、魔素灯は常に同じ光を返すはずだ。
それが、人口が増えた街路や、新しい工房の並ぶ通りばかりで「わずかな揺れ」の報告が増えている。
魔獣化の発生する頻度と、魔素灯のゆらぎの頻度を地図上で重ねてみる。
ぴたりと一致するわけではない。
魔獣は予告なしに現れ、灯の揺らぎもまた、人間の都合など知らぬ顔で発生している。
それでも——人口が増え、空間の使い方が変わった場所では、「魔素灯が揺れやすくなっている」ことだけは確かだった。
(空気中の魔素は、総量としては変わらなくても、“集まりやすい場所”と“抜けやすい場所”があるのかもしれない)
彼は、自分用のノートに、事故現場ごとの人口推移と魔素灯の調整履歴を記し始めた。
同じ通りでも、建物の並び方や路地の向きで、灯の揺れ方が微妙に違う。
その差は、統計としては誤差に埋もれる程度だが、並べて見ると、たしかに模様を描いているように思えた。
セレンは、そこから一歩だけ踏み込んだ仮説を立てる。
——魔素は、「存在量」としてはほぼ一定だが、「どこを通り、どこにとどまりやすいか」は、環境によってわずかに揺らぐ。
人が増え、建物が増えれば、風の流れが変わる。
魔素灯や魔素機器が増えれば、「魔素を出し入れする窓口」も増える。
その結果として、空気中の魔素は、目に見えない小さな偏りを生じる。
彼は、それを「魔素ゆらぎ仮説」と名付けた。
報告書の表題には、控えめに(暫定)と添えておく。
この仮説で魔獣化のタイミングを予測できるわけではない。
魔獣は依然として唐突に現れ、魔素灯の揺らぎもまた、人の生活とは別の理屈で揺れているように見える。
それでも、セレンは別の可能性に気づいた。
(もし、この“ゆらぎ”を人為的に作れるなら——)
魔素灯や魔素機器を、ある規則に従って配置したとき。
建物の高さや間隔を、ある比率で並べたとき。
魔素灯の調整記録を元に、そんな仮想の街路図をいくつも描いてみる。
彼のノートの中で、単なる想定図が一本の線にまとまり始めた。
——空気中の魔素は直接測れないが、「揺らぎ」を増幅させ、特定の一点へ集めることは、理屈の上では可能かもしれない。
風の通り道。
魔素灯の吸い込みと吐き出し。
人の流れ。
それらを一つの式に押し込めば、「この部屋の角では、他よりわずかに魔素が濃くなる」といった予測が立つ。
実際にどれだけの差が生じるかは分からない。
人の身体一つを変えてしまうほどの変化にはならないだろう。
それでも、もしどこかに「魔素を溜めておく器」を置くとしたら。
その場所を選ぶための指針にはなり得る。
セレンは、その仮説の中から、実務に使える計算手順だけを抜き出し、
『気体中魔素の収束法』という一節としてまとめた。
——後にヨアヒムの液体魔素理論の「抜けていた一行」を補うことになる部分だが、
この時点で、そのことを知る者は誰もいない。
「興味深いな、セレン顧問」
外務局のハインツだけでなく、技術局上層部の何人かも報告書を読んだらしい。
ある日、呼び出された会議室で、彼は珍しく褒め言葉を受けた。
「我々はこれまで、“起きてしまった事故”の後始末ばかりに追われていた。
君の仮説は、せめて目を配るべき場所の優先順位をつける手掛かりにはなる」
「魔獣そのものを止めることはできんだろうがな。
それでも、魔素灯のゆらぎと人口の偏りを見ておけば、無防備な通りは減らせる」
机の上には、中央国家式のフォーマットに翻訳された彼の図と式が並んでいた。
そこには、「魔素ゆらぎ仮説(暫定)」という表題と、その下に整理された条件式がある。
総量一定、流路は揺動。
環境によるわずかな偏り。
その偏りを、街の形と道具の配置で増幅し、特定の一点へ「寄せていく」ための手順。
「……役に立つのなら、良かったです」
セレンは、そうだけ答えた。
魔獣を止められるわけではない。
人の数を左右できるわけでもない。
それでも、自分の理屈が、誰かの「手順」と「報告書」の中に組み込まれ、わずかでも危険を減らす助けになるなら——。
胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
(失敗の原因を、理で解きほぐすことができるなら)
レイナの死。
異端者の谷。
不完全な液体魔素理論。
それらと直接結びついているわけではない。
だが、魔素がどう揺らぎ、どんな環境で「危うい側」に傾きやすくなるのかを理解することは、
確かにあの失敗の続きにある仕事だと信じたかった。
(ここから始めればいい)
理性は、人を殺すためにも使われた。
ならば、その理性で、少しでも死から遠ざけることもできるはずだ。
そう自分に言い聞かせるように、セレンは新しいノートの一頁目に、
——研究① 魔素ゆらぎ仮説(暫定)
と書き込んだ。
その文字列が、後に誰かの手によって「気体中魔素の収束理論」として切り出され、
液体魔素の再構成に利用されることになるなどとは、夢にも思わないままに。
白衣会の探索に、本格的に手を付けたのは、その少し後のことだ。
帝国から渡された薄い名簿を机の片隅に置き、セレンは中央国家技術局の事故報告アーカイブに通い詰めた。
過去数年分の魔素事故報告書。
魔獣出没記録。
旧機械暴走の詳細。
それらを、中央国家式の索引とは別に、自分用の整理番号を振っていく。
カール・レーデル、マリア・クライン、ヨナス・フェルマン——
帝都の礼拝室で、聖句を長く唱えていた者たち。
祈りの合間に、計測器を覗き込むことをやめなかった者たち。
白衣会信仰派と呼ばれていたその顔ぶれの名前と、報告書の署名欄を照らし合わせる。
当然ながら、同じ名前がそのまま載っていることはない。
しかし、祈りの文句や計算式のクセは、容易には変わらない。
セレンは、一枚一枚の報告書に目を通し、祈りの挿入位置や言葉の選び方、魔素式の書き順を拾い上げていった。
(ここで、帝国式の記述を紛れ込ませるとしたら)
たとえば、魔素値の記録の取り方。
たとえば、「魂」という語の使い方。
たとえば、「沈黙」という言葉をどの位置に置くか。
白衣会信仰派が好んだのは、「理」と「祈り」の境界を曖昧にする文体だった。
——神の沈黙を、数式で測る。
そんなことを、本気で考えていた人々だ。
どこかに、その痕跡が残っているはずだと、セレンは信じていた。
膨大な紙束を前にしても、彼は疲労よりもむしろ、久しぶりの「探索」の感覚に近いものを覚えていた。
失われた道を探す作業。
いない誰かの痕跡を、文字の端から拾い集める作業。
それは、彼にとっては祈りよりもよほど馴染み深い行為だった。




