第2節 黄金の議事場
数カ月前、帝都レーヴェンシュタット——
元老院別館の「黄金の議事場」は、今日も光が多すぎた。
高い天井には、金箔を押した梁と、ぶどうと麦を抱く聖女たちのフレスコ画が連なっている。
中央には、二重の円に斜めの線を引いた印——アルケイアを象徴する印章が、大きく描かれていた。
沈黙する神と、その恩寵に満ちた世界。その上を、一本の線が斜めに横切っている。
円環の下には、初代聖帝と、最初の聖女とされる女の像が並んでいる。
聖帝は王冠を戴き、聖女は器を胸の前に抱いていた。
九百年前、崩壊した世界の瓦礫の上から、再建後最古の国アウレリア聖制帝国が立ち上がった——
そういう物語を、その天井画は今も誇らしげに語っている。
壁際には、金の縁取りを施したモザイクがいくつも掛けられていた。
一枚には、黒く崩れかけた塔のような都市の上へ、まっすぐに一本の線が降りている。
線の先には、逆さまの三角形が描かれ、その中に小さな街並みが押し込められていた。
旧い世界を貫き、新しい秩序の軸とした——という、再建の寓話をなぞった図だ。
別の壁には、十本の枝を持つ燭台の絵がある。
金色の枝のうち、九つの火は黒く塗りつぶされ、ただ一本だけが白く輝いていた。
十に一つだけ生き残った者たちが、アルケイアの恩恵にすがり、新しい祈りを編み上げたのだと、
説教好きの司祭たちはよく語る。
国の規模が大きくなり、聖帝と教皇が役割を分かち合ってから五百五十年が過ぎても、
この部屋だけは、「聖」と「政」が同じ机を囲んでいた頃の名残を失っていない。
椅子の背もたれにも机の脚にも、二重の円に斜め線の印が細工されている。
帝国は今もなお、アルケイア信仰の正統な継承者である——そう言い張るかのように。
だが、その豪奢な光景のただ中で、長机の上に並んでいるのは、金ではなく数字だった。
古い地図と統計資料がぎっしりと詰め込まれた棚。
机の上には最新の収穫高を記した表が広げられている。
聖女の加護を描いた天井画とは対照的に、紙の上の数字だけが、年々静かに痩せ細っていた。
「北部の小麦は、今年も昨年比八%減だ」
老議員のひとりが、痩せた指で数字をなぞる。
「十年前と比べれば三割は落ちている。
このままでは、二十年も経たぬうちに、兵の腹も満たせんぞ」
「中央国家は、聖女を失っても肥え太る一方だ」
軍務卿が鼻を鳴らした。
「奴らは“土と労働の勝利だ”などと笑っておるが、
余剰穀物を武器にする国が、いつこちらの喉元を締めてくるか分かったものではない」
「いずれ、どこかで線を引き直さねばならん」
軍務卿の言葉に、誰も反論しなかった。
「中央国家は、聖女の加護なしでも肥え太った。
我々は、聖女の沈黙とともに痩せ細っている」
地図の上で、指が国境線をなぞる。
「魔素適合値の上昇が、兵に実用できれば――
我々にも、まだ打つ手がある」
祈りの言葉ではなく、宣戦の準備だった。
その指先が、やがて別の紙束へと移った。
白衣会・聖女再現計画に関する旧報告書。
液体魔素の試作記録。
そして、その先に広がる、都合の良すぎる空白。
「……白衣会の連中は、結局、神の領域を侵そうとしたのだ」
老議員のひとりが吐き捨てるように言った。
「聖女は神の恩寵だ。それを人間が“作ろう”とした。
あんなもの、本来なら全員まとめて処刑でも足りん」
何人かが静かに頷く。
白衣会は、この部屋にいる者にとって、「神に楯突いた狂人たち」の集団だった。
ただし——と、軍務卿が紙の端を指で叩いた。
「だが、あいつらが示した“事実”まで否定するわけにはいかん」
「事実?」
「人為的に、魔素適合値を上げられる、という事実だ」
軍務卿の声には、抑えきれない興味が滲んでいた。
「聖女再現計画そのものは、吐き気のする冒涜だがな。
適合値を兵の身体に合わせて動かせるなら、それは純粋に戦力だ。
魔素に耐え得る兵隊を作れるなら、痩せた土地でも、まだ戦いようはある」
「ヨアヒム・エルンストの液体魔素か」
別の議員が名を出した。
「液体魔素、そのものは素晴らしい。
やつが聖女再現計画には関わっていなかったのも、まだ救いではある」
「だが、あの男の“魔素観”は別の意味で気味が悪い」
科学監督官が、渋い顔で言った。
「魔素を“ウイルス”のようなものと捉え、
世界に広がる“病”として扱おうとしていた節がある。
神の恩寵を病原体扱いとは、聖女再現以上に唾棄すべき発想だと、
教会も元老院も見ている」
「だが、理論そのものは捨てがたいというわけか」
「それが厄介なのだ」
科学監督官は、一枚の紙を持ち上げた。
「ヨアヒムが残した液体魔素理論は、不完全だ。
本人も、再現に完全には成功していなかったらしい。
そして最悪なことに、残された理論は一部が失われている。
鍵となる部分が、どこかへ消えた」
「科学派の牢屋の中にはないのか」
「ない。あいつらは“計算の半分”しか知らん。
ヨアヒムは科学派とは距離を置いていたようでな。
もし、欠けた部分が現存するとすれば——」
「信仰派の連中が握っている、ということか」
老議員の言葉に、室内の空気がわずかに冷えた。
「教会筋の情報では、信仰派の主要な顔ぶれは中央国家方面へ逃れたらしい。
亡命か、保護かは知らんが、行き先は“教会内部のどこか”だそうだ」
科学監督官が、別の束から名簿を取り出す。
カール・レーデル、マリア・クライン、ヨナス・フェルマン。
白衣会礼拝室でよく見かけた名が並んでいる。
「中央国家に、ヨアヒムの液体魔素の完全な理論が渡るのは困るな」
軍務卿が低く言う。
「聖女再現など、あの国にとってはどうでもいい話だろうが、
“人為的適合値上昇”の方は、どんな軍でも喉から手が出る代物だ」
「だが、逃げたのが信仰派であったのは、まだ良かった」
老議員が、名簿を軽く振って見せる。
「あいつらは魔素適合値の上昇よりも、“聖女そのもの”の再現に固執する。
神の沈黙を破る、などという妄執だ。
中央国家から見れば、そんな連中はただの狂信的な祈祷師にしか映るまい」
何人かが小さく笑った。
「だからこそ、我々からも“そういう連中だ”という顔で伝えておけばいい」
軍務卿が続ける。
「白衣会は、神の領域に踏み込もうとした狂信的な科学者集団。
帝国は、その発生源として責任を持って監視し、必要ならば引き取る——
そういう建前で中央国家に話を持ち込めばいい」
「理論の魅力に気づかれても面倒だからな」
「そういうことだ」
老議員は、机上の紙を指で揃えた。
「中央国家は豊かな土地に安住している。
聖女再現など、本気で取り合うまいと我々は見ている。
厄介なのは、ヨアヒムの液体魔素の方だ。
あれが完全な形で“向こう側”に渡る前に、所在くらいは掴んでおきたい」
「そこで——エルンストか」
科学監督官が、机の端に置かれた一枚の人事記録を押し出した。
セーレン・エルンスト。帝国科学班所属。
白衣会で研修を受けた経歴あり。現場経験豊富。
「ヨアヒムの弟子でありながら、聖女再現計画には深くは関わっていない。
白衣会科学派とも、信仰派とも一定の距離を取っていた。
あの谷の件も、全体像までは知らぬはずだ」
「つまり、利用しやすい位置にいる、ということだな」
軍務卿が口角を歪める。
「中央国家に送るにはちょうどよい。
元白衣会の若い学者として、あの狂信者どもの“後始末”をさせる。
向こうにも、帝国としての誠意だと説明できよう」
「兵への液体魔素投与の件は、もちろん口に出さんぞ」
老議員が釘を刺す。
「我々自身、液体魔素が再現できるなら、兵に試すことを躊躇うつもりはない。
人道がどうこうと騒ぐのは、外に向けた顔だけで十分だ」
短い沈黙が落ちた。
「念のためだが——」
誰かが低く言う。
「セーレン・エルンストが向こうで何かしでかした場合は?」
「そのときは、“元白衣会の若い学者がまた間違えた”ということにしておけばいい」
軍務卿の答えに、誰も異を唱えなかった。
「白衣会の残党を追う“責任ある帝国”の姿勢を見せる一方で、
必要なら“前に立たせておける駒”、というわけだ」
「矢面に立つ者は、いつだって若い方がいい」
老議員は、決裁印の刻まれた印章を手に取った。
「セーレン・エルンストを、中央国家コリディアへ技術事故処理顧問として出向させる。
名目は、再発防止と、元帝国研究者に対する監視責任の履行。
信仰派の名簿も持たせる」
赤い印が、静かに紙面を染める。
黄金の議事場の痩せゆく帝国の卓上で、一つの駒の行き先が決められた。
その計算の中に、自らの名がどう組み込まれているのかを、
当の若い学者だけがまだ知らずにいる。
* * *
「……人道にもとる実験にも、手を付けようとしていた」
数日後、科学班長室。
窓の外には冬の曇り空が広がっている。
局長席の向かいに座るセーレンは、その言葉を繰り返しながら、無意識に背筋を伸ばした。
「白衣会のことですか」
「ああ」
科学監督官——セーレンの直属の上司でもある男は、椅子にもたれ、指を組む。
「君が知っているのは、おそらく“理論の一端”だけだろう。
実際には、人間を使った適合実験の計画も進んでいた。
事故で終わったものもあれば、記録すら残されていないものもある」
セーレンは視線を落とした。
脳裏に浮かぶのは、谷に横たわる少女の姿だ。
(人道にもとる……)
あの場にあったのは、祈りと計測器と、冷たい静脈注射。
帝国が今その全体像をどう認識しているのか、セーレンには分からない。
だが、上司の言葉は続いた。
「場所が帝国から中央国家に変わったからといって、
ああいう連中の危険性が消えるわけではない。
奴らは今もどこかで同じような真似をしているかもしれん」
監督官は机の引き出しから一冊の薄い冊子を取り出し、セーレンの前に滑らせた。
「教会から提供された名簿だ。
白衣会の信仰派と呼ばれていた者たち。
カール・レーデル、マリア・クライン、ヨナス・フェルマン……
君も見覚えがあるだろう」
紙の上の文字が、廊下で見かけた顔に変わっていく。
礼拝室で長く祈っていた女。
いつも実験室で聖句を口ずさんでいた男。
どの欄にも、最後に同じ文字が記されていた。
——所在:中央国家方面。現状:不明。
「帝国は白衣会を解散させた。
科学派はすでに捕らえたが、信仰派は中央国家へと逃げ出した。
やつらが、また人道にもとる実験でもしてみろ、
世界は『帝国が狂った学者を生み出した』とみるだろう」
監督官の声は淡々としている。
「奴らが亡命先で何をしているか、全く知らないままでは、
何か起きるたびに『また帝国か』と指をさされる。
それは、我々にとっても、君にとっても望ましくない」
「……ええ」
セーレンは小さく頷いた。
(望ましくない。
それ以上に、同じ理論が、どこかでまた誰かを殺すのは、許せない)
監督官は、言葉を選ぶように一呼吸置いてから続けた。
「君に全部を背負わせるつもりはない。
向こうでの仕事の“ついで”で構わん。
情報収集が本務ではないからな」
「……“ついで”に、ですか」
「ああ。中央国家では魔素事故や魔獣騒ぎが増えているらしい。
君にはその現場での顧問をしてもらう。
報告書や現場の痕跡の中に、白衣会の連中の“癖”が紛れていないか、
気をつけて見ておいてくれればいい」
セーレンは冊子に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
異端者の谷で見つけた資料も、
誰かの帰りを待ちながら書かれた手紙のようなものだった。
そこに記されていた自分の報告書の一節は、
知らぬ間に誰かの祈りと結びついていた。
今、目の前にあるこの名簿もまた、
帝国が“不在の誰か”に向けて書いた、後始末のための文書だ。
——いない誰かを、紙の上の文字だけで追いかける。
それは、自分に向いた仕事だと、セーレンは思った。
「わかりました」
彼は顔を上げる。
「白衣会の理論が、どこでどう使われているのか。
少なくとも、同じ悲劇が繰り返されていないかどうかくらいは、
確かめてきます」
監督官は満足そうに頷いた。
「それで十分だ。
帝国としては、君自身には罪はないと考えている。まだ正式な研究員でもない、一人の子どもだったわけだ。
それに、ここでの働きにも満足している。腐らずに帝国に尽くしてきた。
これは、君の今までの労をねぎらう“褒美”だと考えてほしい。君自身が感じてきた疑問の“答え”が、どこへ行き着くのかを見届けるための仕事だと思ってくれ」
答えという言葉に、セーレンの心臓が一瞬だけ強く鳴った。
だが、それを顔には出さない。
「帝国科学班セーレン・エルンスト、出向命令、拝命します」
声は静かだった。
監督官が頷き、机の端に置かれた出向辞令に一つ印を押す。
こうして、一人の若い学者は、
痩せゆく帝国の卓上で決められた線に沿って、
中央国家へと送り出されることになった。
その決定の裏に、
彼自身の理性とは別の計算がいくつも積み上がっていることを、
まだ何も知らないままに。




