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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第4章 逃亡と空洞

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第2節 黄金の議事場

 数カ月前、帝都レーヴェンシュタット——

 元老院別館の「黄金の議事場」は、今日も光が多すぎた。


 高い天井には、金箔を押した梁と、ぶどうと麦を抱く聖女たちのフレスコ画が連なっている。

 中央には、二重の円に斜めの線を引いた印——アルケイアを象徴する印章が、大きく描かれていた。

 沈黙する神と、その恩寵に満ちた世界。その上を、一本の線が斜めに横切っている。


 円環の下には、初代聖帝と、最初の聖女とされる女の像が並んでいる。

 聖帝は王冠を戴き、聖女は器を胸の前に抱いていた。

 九百年前、崩壊した世界の瓦礫の上から、再建後最古の国アウレリア聖制帝国が立ち上がった——

 そういう物語を、その天井画は今も誇らしげに語っている。


 壁際には、金の縁取りを施したモザイクがいくつも掛けられていた。

 一枚には、黒く崩れかけた塔のような都市の上へ、まっすぐに一本の線が降りている。

 線の先には、逆さまの三角形が描かれ、その中に小さな街並みが押し込められていた。

 旧い世界を貫き、新しい秩序の軸とした——という、再建の寓話をなぞった図だ。


 別の壁には、十本の枝を持つ燭台の絵がある。

 金色の枝のうち、九つの火は黒く塗りつぶされ、ただ一本だけが白く輝いていた。

 十に一つだけ生き残った者たちが、アルケイアの恩恵にすがり、新しい祈りを編み上げたのだと、

 説教好きの司祭たちはよく語る。


 国の規模が大きくなり、聖帝と教皇が役割を分かち合ってから五百五十年が過ぎても、

 この部屋だけは、「聖」と「政」が同じ机を囲んでいた頃の名残を失っていない。

 椅子の背もたれにも机の脚にも、二重の円に斜め線の印が細工されている。

 帝国は今もなお、アルケイア信仰の正統な継承者である——そう言い張るかのように。


 だが、その豪奢な光景のただ中で、長机の上に並んでいるのは、金ではなく数字だった。


 古い地図と統計資料がぎっしりと詰め込まれた棚。

 机の上には最新の収穫高を記した表が広げられている。

 聖女の加護を描いた天井画とは対照的に、紙の上の数字だけが、年々静かに痩せ細っていた。


「北部の小麦は、今年も昨年比八%減だ」


 老議員のひとりが、痩せた指で数字をなぞる。


「十年前と比べれば三割は落ちている。

 このままでは、二十年も経たぬうちに、兵の腹も満たせんぞ」


「中央国家は、聖女を失っても肥え太る一方だ」


 軍務卿が鼻を鳴らした。


「奴らは“土と労働の勝利だ”などと笑っておるが、

 余剰穀物を武器にする国が、いつこちらの喉元を締めてくるか分かったものではない」


「いずれ、どこかで線を引き直さねばならん」


 軍務卿の言葉に、誰も反論しなかった。


「中央国家は、聖女の加護なしでも肥え太った。

 我々は、聖女の沈黙とともに痩せ細っている」


 地図の上で、指が国境線をなぞる。


「魔素適合値の上昇が、兵に実用できれば――

 我々にも、まだ打つ手がある」


 祈りの言葉ではなく、宣戦の準備だった。


 その指先が、やがて別の紙束へと移った。


 白衣会・聖女再現計画に関する旧報告書。

 液体魔素の試作記録。

 そして、その先に広がる、都合の良すぎる空白。


「……白衣会の連中は、結局、神の領域を侵そうとしたのだ」


 老議員のひとりが吐き捨てるように言った。


「聖女は神の恩寵だ。それを人間が“作ろう”とした。

 あんなもの、本来なら全員まとめて処刑でも足りん」


 何人かが静かに頷く。

 白衣会は、この部屋にいる者にとって、「神に楯突いた狂人たち」の集団だった。


 ただし——と、軍務卿が紙の端を指で叩いた。


「だが、あいつらが示した“事実”まで否定するわけにはいかん」


「事実?」


「人為的に、魔素適合値を上げられる、という事実だ」


 軍務卿の声には、抑えきれない興味が滲んでいた。


「聖女再現計画そのものは、吐き気のする冒涜だがな。

 適合値を兵の身体に合わせて動かせるなら、それは純粋に戦力だ。

 魔素に耐え得る兵隊を作れるなら、痩せた土地でも、まだ戦いようはある」


「ヨアヒム・エルンストの液体魔素か」


 別の議員が名を出した。


「液体魔素、そのものは素晴らしい。

 やつが聖女再現計画には関わっていなかったのも、まだ救いではある」


「だが、あの男の“魔素観”は別の意味で気味が悪い」


 科学監督官が、渋い顔で言った。


「魔素を“ウイルス”のようなものと捉え、

 世界に広がる“病”として扱おうとしていた節がある。

 神の恩寵を病原体扱いとは、聖女再現以上に唾棄すべき発想だと、

 教会も元老院も見ている」


「だが、理論そのものは捨てがたいというわけか」


「それが厄介なのだ」


 科学監督官は、一枚の紙を持ち上げた。


「ヨアヒムが残した液体魔素理論は、不完全だ。

 本人も、再現に完全には成功していなかったらしい。

 そして最悪なことに、残された理論は一部が失われている。

 鍵となる部分が、どこかへ消えた」


「科学派の牢屋の中にはないのか」


「ない。あいつらは“計算の半分”しか知らん。

 ヨアヒムは科学派とは距離を置いていたようでな。

 もし、欠けた部分が現存するとすれば——」


「信仰派の連中が握っている、ということか」


 老議員の言葉に、室内の空気がわずかに冷えた。


「教会筋の情報では、信仰派の主要な顔ぶれは中央国家方面へ逃れたらしい。

 亡命か、保護かは知らんが、行き先は“教会内部のどこか”だそうだ」


 科学監督官が、別の束から名簿を取り出す。

 カール・レーデル、マリア・クライン、ヨナス・フェルマン。

 白衣会礼拝室でよく見かけた名が並んでいる。


「中央国家に、ヨアヒムの液体魔素の完全な理論が渡るのは困るな」


 軍務卿が低く言う。


「聖女再現など、あの国にとってはどうでもいい話だろうが、

 “人為的適合値上昇”の方は、どんな軍でも喉から手が出る代物だ」


「だが、逃げたのが信仰派であったのは、まだ良かった」


 老議員が、名簿を軽く振って見せる。


「あいつらは魔素適合値の上昇よりも、“聖女そのもの”の再現に固執する。

 神の沈黙を破る、などという妄執だ。

 中央国家から見れば、そんな連中はただの狂信的な祈祷師にしか映るまい」


 何人かが小さく笑った。


「だからこそ、我々からも“そういう連中だ”という顔で伝えておけばいい」


 軍務卿が続ける。


「白衣会は、神の領域に踏み込もうとした狂信的な科学者集団。

 帝国は、その発生源として責任を持って監視し、必要ならば引き取る——

 そういう建前で中央国家に話を持ち込めばいい」


「理論の魅力に気づかれても面倒だからな」


「そういうことだ」


 老議員は、机上の紙を指で揃えた。


「中央国家は豊かな土地に安住している。

 聖女再現など、本気で取り合うまいと我々は見ている。

 厄介なのは、ヨアヒムの液体魔素の方だ。

 あれが完全な形で“向こう側”に渡る前に、所在くらいは掴んでおきたい」


「そこで——エルンストか」


 科学監督官が、机の端に置かれた一枚の人事記録を押し出した。

 セーレン・エルンスト。帝国科学班所属。

 白衣会で研修を受けた経歴あり。現場経験豊富。


「ヨアヒムの弟子でありながら、聖女再現計画には深くは関わっていない。

 白衣会科学派とも、信仰派とも一定の距離を取っていた。

 あの谷の件も、全体像までは知らぬはずだ」


「つまり、利用しやすい位置にいる、ということだな」


 軍務卿が口角を歪める。


「中央国家に送るにはちょうどよい。

 元白衣会の若い学者として、あの狂信者どもの“後始末”をさせる。

 向こうにも、帝国としての誠意だと説明できよう」


「兵への液体魔素投与の件は、もちろん口に出さんぞ」


 老議員が釘を刺す。


「我々自身、液体魔素が再現できるなら、兵に試すことを躊躇うつもりはない。

 人道がどうこうと騒ぐのは、外に向けた顔だけで十分だ」


 短い沈黙が落ちた。


「念のためだが——」


 誰かが低く言う。


「セーレン・エルンストが向こうで何かしでかした場合は?」


「そのときは、“元白衣会の若い学者がまた間違えた”ということにしておけばいい」


 軍務卿の答えに、誰も異を唱えなかった。


「白衣会の残党を追う“責任ある帝国”の姿勢を見せる一方で、

 必要なら“前に立たせておける駒”、というわけだ」


「矢面に立つ者は、いつだって若い方がいい」


 老議員は、決裁印の刻まれた印章を手に取った。


「セーレン・エルンストを、中央国家コリディアへ技術事故処理顧問として出向させる。

 名目は、再発防止と、元帝国研究者に対する監視責任の履行。

 信仰派の名簿も持たせる」


 赤い印が、静かに紙面を染める。


 黄金の議事場の痩せゆく帝国の卓上で、一つの駒の行き先が決められた。

 その計算の中に、自らの名がどう組み込まれているのかを、

 当の若い学者だけがまだ知らずにいる。


 * * *


「……人道にもとる実験にも、手を付けようとしていた」


 数日後、科学班長室。

 窓の外には冬の曇り空が広がっている。


 局長席の向かいに座るセーレンは、その言葉を繰り返しながら、無意識に背筋を伸ばした。


「白衣会のことですか」


「ああ」


 科学監督官——セーレンの直属の上司でもある男は、椅子にもたれ、指を組む。


「君が知っているのは、おそらく“理論の一端”だけだろう。

 実際には、人間を使った適合実験の計画も進んでいた。

 事故で終わったものもあれば、記録すら残されていないものもある」


 セーレンは視線を落とした。

 脳裏に浮かぶのは、谷に横たわる少女の姿だ。


(人道にもとる……)


 あの場にあったのは、祈りと計測器と、冷たい静脈注射。

 帝国が今その全体像をどう認識しているのか、セーレンには分からない。


 だが、上司の言葉は続いた。


「場所が帝国から中央国家に変わったからといって、

 ああいう連中の危険性が消えるわけではない。

 奴らは今もどこかで同じような真似をしているかもしれん」


 監督官は机の引き出しから一冊の薄い冊子を取り出し、セーレンの前に滑らせた。


「教会から提供された名簿だ。

 白衣会の信仰派と呼ばれていた者たち。

 カール・レーデル、マリア・クライン、ヨナス・フェルマン……

 君も見覚えがあるだろう」


 紙の上の文字が、廊下で見かけた顔に変わっていく。

 礼拝室で長く祈っていた女。

 いつも実験室で聖句を口ずさんでいた男。


 どの欄にも、最後に同じ文字が記されていた。


 ——所在:中央国家方面。現状:不明。


「帝国は白衣会を解散させた。

 科学派はすでに捕らえたが、信仰派は中央国家へと逃げ出した。

 やつらが、また人道にもとる実験でもしてみろ、

 世界は『帝国が狂った学者を生み出した』とみるだろう」


 監督官の声は淡々としている。


「奴らが亡命先で何をしているか、全く知らないままでは、

 何か起きるたびに『また帝国か』と指をさされる。

 それは、我々にとっても、君にとっても望ましくない」


「……ええ」


 セーレンは小さく頷いた。


(望ましくない。

 それ以上に、同じ理論が、どこかでまた誰かを殺すのは、許せない)


 監督官は、言葉を選ぶように一呼吸置いてから続けた。


「君に全部を背負わせるつもりはない。

 向こうでの仕事の“ついで”で構わん。

 情報収集が本務ではないからな」


「……“ついで”に、ですか」


「ああ。中央国家では魔素事故や魔獣騒ぎが増えているらしい。

 君にはその現場での顧問をしてもらう。

 報告書や現場の痕跡の中に、白衣会の連中の“癖”が紛れていないか、

 気をつけて見ておいてくれればいい」


 セーレンは冊子に目を落としたまま、しばらく黙っていた。


 異端者の谷で見つけた資料も、

 誰かの帰りを待ちながら書かれた手紙のようなものだった。

 そこに記されていた自分の報告書の一節は、

 知らぬ間に誰かの祈りと結びついていた。


 今、目の前にあるこの名簿もまた、

 帝国が“不在の誰か”に向けて書いた、後始末のための文書だ。


 ——いない誰かを、紙の上の文字だけで追いかける。


 それは、自分に向いた仕事だと、セーレンは思った。


「わかりました」


 彼は顔を上げる。


「白衣会の理論が、どこでどう使われているのか。

 少なくとも、同じ悲劇が繰り返されていないかどうかくらいは、

 確かめてきます」


 監督官は満足そうに頷いた。


「それで十分だ。

 帝国としては、君自身には罪はないと考えている。まだ正式な研究員でもない、一人の子どもだったわけだ。

 それに、ここでの働きにも満足している。腐らずに帝国に尽くしてきた。

 これは、君の今までの労をねぎらう“褒美”だと考えてほしい。君自身が感じてきた疑問の“答え”が、どこへ行き着くのかを見届けるための仕事だと思ってくれ」


 答えという言葉に、セーレンの心臓が一瞬だけ強く鳴った。

 だが、それを顔には出さない。


「帝国科学班セーレン・エルンスト、出向命令、拝命します」


 声は静かだった。

 監督官が頷き、机の端に置かれた出向辞令に一つ印を押す。


 こうして、一人の若い学者は、

 痩せゆく帝国の卓上で決められた線に沿って、

 中央国家へと送り出されることになった。


 その決定の裏に、

 彼自身の理性とは別の計算がいくつも積み上がっていることを、

 まだ何も知らないままに。


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