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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第4章 逃亡と空洞

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第1節 理性の亡命

 中央国家コリディアの首都は、思っていたよりも明るかった。


 帝都の石造りの街並みと違い、黄色がかった煉瓦と白い漆喰が多い。

 通りには果物を積んだ荷車と、小麦粉の匂いをまとった職人たちが行き交っている。

 遠くの丘には、どこまでも続く畑の帯が見えた。


 ——豊かな土地だ。


 馬車の窓から眺めながら、セレンはそう結論した。


 帝都の灰色の空とは違い、

 ここでは陽光が、街路の石畳に明るく反射している。


 自分の灰色の髪も、

 この光の下では、銀に近く見えるかもしれない。


(まだ、やり直せる)


 そう思える明るさが、この街にはあった。


 土壌の色、陽光の角度、人々の体つき。

 どれもが、帝国北部の痩せた大地では滅多に見られないものだった。


(ここでは、祈りよりも、まず土が働いている)


 そんな言葉がふと浮かんで、自分でおかしくなりかける。


 馬車が石畳を曲がり、少し広い通りに出た。

 そのとき、遠くで鐘の音がしたような気がして、セーレンは反射的に顔を上げた。


 だが、空は静かだった。


 帝都であれば、この時刻には聖堂の鐘が街じゅうに響き渡る。

 朝と昼と夕と、祈りの合図として打ち鳴らされる音。

 けれど、ここで鳴っているのは、別の音だった。


 金属を叩く乾いたリズム。

 工房の煙突から立ちのぼる蒸気。

 市場の開店を告げるラッパ。


 人々はそれに合わせて動く。

 誰も空を仰いではいない。


(鐘が、違う)


 胸の奥で、時間の針が少しだけずれる感覚があった。


 帝都では、鐘の音とともに一日が区切られる。

 祈りの言葉を口にしなくとも、人々は音を聞きながら、神を思い浮かべる。

 ここでは、同じ役割を、別の音が担っている。


 ——祈りの代わりに、労働が時を刻んでいる。


 その観測結果を心の中にメモしながら、セーレンは視線を膝の上に落とした。


 そこには、一通の文書が載っている。


 帝国語と中央語が併記された出向辞令。

 封蝋はすでに割られ、「技術事故処理顧問」という肩書きが、少し硬い字で印刷されている。


 出向辞令の下には、もう一冊、薄い冊子が挟まっている。

 帝都を発つ前、科学班の上司から手渡されたものだ。

「中央国家に逃げた白衣会信仰派の名簿だ。

 頭の片隅に入れておけ。現地で、何かの役に立つかもしれん」


 カール・レーデル、マリア・クライン、ヨナス・フェルマン——

 白衣会の廊下ですれ違った顔が、紙の上の文字に変わって並んでいる。

 どの欄にも、最後に同じ言葉が記されていた。

「所在・中央国家方面」「現状・不明」。


 世界が変わるとき、まず紙の上から変わる——

 そんな考えが、半ば癖のように頭をよぎった。


 白衣会が解散したときも、

 ヨアヒムが去った時の報せも、すべて最初にやってきたのは「紙」だった。

 自分はそこに書かれた文字を読み、理解し、納得したあとでようやく動く。


 今回も同じだ、とセーレンは思う。


 レイナの死後、異端者の谷で見つけた資料も、誰かの帰りを待ちながら書かれていた。

 不在の仲間へ向けた手紙。届くはずのなかった祈り。

 そこには、自分の報告書の一節が引用されていた。

 ——魂なき聖女、死亡、魔素適合値の上昇。


 それらの文字列を読み終えたあとで、彼は出向を願い出た。


 今、自分の手にあるこの名簿も、似たようなものかもしれない。


 ——いない誰かを、紙の上の文字だけで追いかける。


(少なくとも……)


(紙の上では、誰も死なない)


 セーレンは、そう思った。


(報告書の中では、"被験者"は記号になる。

 名前も、顔も、涙も――すべて数値に変わる)


 それが、自分にとっての「安全な場所」だった。


(紙の上でなら、レイナは"データ"でしかない。

 罪悪感も、後悔も、すべて――理性の言葉に変換できる)


 それは逃避だと、頭ではわかっている。

 けれど、それ以外に自分を守る方法が、もう見つからなかった。


(誤りを特定しなければならない。それは、理性に課された義務だ)

 そして、自分に向いている仕事だと、どこかで思った。


 それが、彼なりの贖罪の形でもあった。


 馬車が止まり、御者の声が聞こえた。


「着きました、顧問殿。外務局庁舎でございます」


 セーレンは返事の代わりに小さく頷き、辞令を丁寧に畳むと、内ポケットにしまった。

 外に出ると、正面に灰色の大きな建物が構えている。

 尖塔はなく、代わりに高い煙突と時計塔がある。


 門の前で待っていたのは、黒い礼服を着た男だった。

 四十代ほど、痩せ型で、眼鏡の奥の瞳が忙しなく動いている。


「セーレン・エルンスト殿だな。中央国家外務局・技術事故処理室長のハインツだ」


 男は名乗り、きっちりとした握手を差し出した。

 握力は意外と強い。


「長旅、ご苦労だった。早速だが、時間が限られている。中で話そう」


 庁舎の中は、帝国の官庁とさほど変わらない。

 違うのは、廊下の壁に聖人画ではなく、農地や工場の風景画が並んでいることくらいだった。


 通された小さな会議室で、ハインツは書類の束を机の上に置いた。


「こちらが、当面君にお願いしたい業務だ」


 セーレンは椅子に腰を下ろし、書類を一枚ずつめくる。


 魔素暴走事故の報告書。

 魔獣出没の記録。

 それぞれの日付、場所、被害状況、処理に要した時間。


 どれも整然と記録されており、帝国の報告より若干形式的だ。

 個々の担当者の色は、ほとんど残っていない。


「……現場への出向が多いのですね」


 セーレンがそう言うと、ハインツはあっさり頷いた。


「そうだ。君には“机上の理論家”でいる時間はあまりない。

 我が国は魔素利用に関して、帝国とは違う道を歩んできた。

 だが最近、魔素事故と魔獣出現が増えている。現場での判断力が必要だ」


「研究室ではなく、ですか」


「研究室にも顔を出してもらう機会はあるだろうが、優先順位は現場だ」


 ハインツは指で机を軽く叩いた。


「それに、帝国出向者を中枢の研究に直接入れるわけにはいかん。

 君も理解していると思うが、こちらから見れば、君は“友好国”であり、同時に“潜在的な技術スパイ”だ」


 直球の言葉だったが、口調は事務的で、特別な敵意は感じない。


「合理的な判断だと思います」


 セーレンはそう答えた。


 自分だって逆の立場なら、同じようにするだろう。

 重要な計算式は国内に留め、外からの協力者には完成された結果だけを見せる。


「安心しろ。現場には十分なデータが転がっている」


「亡命学者については?」とセーレンが一度だけ訊ねたが、

 ハインツは肩をすくめるだけだった。

「教会絡みの話は、外務局の管轄外だ。

 君が持っている帝国の資料以上のものは、私にもない」

 ハインツは眼鏡を押し上げた。


「だが、公式記録上、彼らは“存在しない”ことだけは確かだ。

 君のように顔と経歴を知っている者でなければ、まず追跡は不可能だろう」


「帝国からの公式な要請は、彼らの所在を“把握しておくこと”だ。

 可能ならば協力を取り付けたい、という文言も添えられていたがね」

 ハインツは言葉を続けた。


 ——現場の合間に、見えない誰かを探せ、と。


 要求は簡潔だが、内容は曖昧だった。


「わかりました」


 セーレンは顔を上げた。


「現場で得られるデータから、彼らの痕跡があれば、必ず見つけます」


 ハインツは満足そうに頷いた。


「頼りにしている、エルンスト顧問。

 君の理性が、この国にとっても“役に立つ”ことを願うよ」


 ——役に立つ。


 その言葉は、セーレンの胸に、鈍い重さで沈んだ。


 机の上には、いくつもの紙束が広がっている。

 出向辞令、事故報告書、白衣会の名簿。

 どの紙も、彼のこれからの行動を規定していた。


 窓の外から、また金属を叩く音が聞こえてきた。

 祈りの合図ではなく、労働の始まりを知らせる音。


 鐘は鳴らない。

 けれど、世界は確かに動いている。


 セーレンは、静かにペンを取った。


 目の前の報告書の余白に、日付と短い観測記録を書き込む。


 ——本日、中央国家首都に着任。

 ——祈りの鐘なし。代わりに工場の合図音。


 紙の上で、彼の中央国家での一日が記録される。


 机に広げた紙束を、セーレンは少し考えてから、鍵のついた引出しへと仕舞った。

 出向辞令の端に押された赤い印影が目に入る。

 ——あの印が、帝都で紙面を染めた日のことを、セーレンは思い出した。



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