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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第3章 白衣の楽園

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第11節 夜を見た少年

 焚き火の火が、商隊の輪の中でぱちぱちと鳴っていた。

 荷馬車の影が揺れ、夜風が草をなでている。


 トーマは父に言われて荷車の縄を締めていた。


「夜は獣が出る。灯りを増やすな。無駄口を叩くな。」


 言われた通りに手を動かしながら、息を吐く。

 焚き火の向こうでは男たちが酒を飲み、笑っていた。


 母の作った干し肉の匂い。


 ——世界は、広くて温かい。


 少年の中では、それが当たり前だった。


 その夜、風の音が変わった。


 低い唸り。

 馬がいななき、荷車が軋む。


 父の声が飛んだ。


「火を消せ——!」


 焚き火が倒れ、夜が一気に押し寄せた。


 闇の中を、黒い影が走る。

 毛並みが光り、目が青白く濁っている。


 魔獣だった。


 金属音、悲鳴、蹄。

 全てがぐしゃりと混ざった。


 トーマは固まった。

 逃げなきゃ、叫ばなきゃと思うのに体が動かない。


 目の前で、一人が獣に跳ね飛ばされた。


 父の声。


「トーマ、下がれ!」


 それが最後の記憶だった。


 夜明け、空は灰色。

 仲間が数人いなくなっていた。


 誰も泣かなかった。


 泣けば、夜が戻ってくる気がした。


 司祭が言った。


「神は試練を与えたもうた。あなた方は勝利したのです」


 父は短く笑った。


「試練だぁ? そんなもんで死んだ奴は喜ばんよ」


 だが次の日には言った。


「……けど、生き残ったやつの腹は膨れる」


 父は襲撃跡を“商売”にし、家は裕福になった。


 少年のトーマは理解できなかった。


 戦いを「勝利」と呼ぶことも、

 死者の上に富が積まれていくことも。


 けれど、スープの温かさの前では、

 その違和感を口にできなかった。


(……あのとき、俺は何もできなかった)


 その想いが、トーマの“優しさ”の起源になった。

 笑って場を整え、

 人の悲しみを黙って受け止め、

 無理に触れず、

 けれど寄り添う。


 そんなやり方を覚えた。


 ……もちろん、それが“きれいな話”じゃないことは、トーマ自身が一番よく知っていた。


 泣いているやつの隣に座るのは、そのほうがあとで空気が楽になるからだ。

 怒っているやつの話を最後まで聞くのは、聞いておいたほうが商隊全体の動きが読みやすくなるからだ。

 笑って場を和ませるのは、そのほうが自分の居場所も守りやすいからだ。


 優しくするのは、いつだって自分のため——そんな自覚があった。


 (俺は、生きやすくするために優しくしてるだけだ)


 それを“善人ぶるための嘘”にしたくなくて、

 トーマはずっと、自分の優しさに「打算」というラベルを貼ったままにしていた。


 本当のことを話すのは、いつだって怖い。


 打算も計算も抜きで人に向き合うと、自分の腹の中まで全部見られてしまう気がする。

 何が好きで、何が嫌いで、何を怖がっているのか。

 それを知られるのは、裸で街を歩くみたいで、ぞわっとする。


 だからトーマは、たいていの相手には“打算込みの優しさ”で接する。

 表面だけを撫でて、深いところまでは入らない。

 そのほうが安全で、身の丈にも合っていた。


 ——セーレンだけは、違った。


 あいつの前でだけは、打算を挟まなくてもいい気がした。

 不器用なくらいまっすぐで、誠実で、変に駆け引きがなくて。


 丸裸にされたみたいに落ち着かないのに、

 不思議と“傷つけられる”怖さはなかった。


 (こいつになら、変なところまで見られても、きっと笑われない)


 そう思えた相手は、セーレンが初めてだった。



 今、隣を歩くセーレンは、

 まるであの魔獣の夜のように、

 触れたら壊れそうで、

 何かに喰われそうだった。


 “本人ごと、どこかに連れて行かれそうな目”をしている。


「セーレン。……本当に、大丈夫か」


 問いかける声は、震えていた。


 セーレンは、ゆっくりとこちらを見た。


 笑った。


 だがその笑みは、暖かさのかけらもなかった。


「……平気だよ、トーマ」


 その笑顔はまるで

 焚き火の火を失った夜の“影”のようだった。


 トーマは胸の奥が裂けるように痛んだ。


(嫌だ……あいつを、また“夜”に奪われたくない)



 セーレンは、中央国家行きを志願した。


 理由は言わなかった。

 誰にも相談しなかった。

 主任にも、マルクにも、アデルにも。


 そして——トーマにも。


 申請書を出して戻ってきたとき、

 セーレンはようやく“表情”を浮かべた。


 それは久しぶりに見る、感情のある目だった。


 けれど、その光は

「頼むから、優しくするな」

 と叫んでいた。


(……ああ、これだ)


 トーマは胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


 “届かないとき”のセーレンの目だった。


 何かを背負い、

 何かを抱え、

 そして誰にも触れられたくないときの。


「セーレン」


 呼ぶと、セーレンは振り返る。

 その動きは丁寧で、落ち着いていて——

 どこか“別れの礼儀”みたいだった。


「……行くのか」


 問いはそれだけ。

 止める言葉はどこにも置かなかった。


 セーレンは静かにうなずいた。


「うん。僕じゃないと、わからないことがある。」


(違う。おまえじゃなくていい。それでも……)


 喉まで出た言葉を、トーマは飲み込んだ。


 セーレンは続ける。


「僕、ずっと……“正しい”ってことだけは、手放したくなかったんだと思う。

 でも、今は……正しいかどうかじゃなくて、確かめたいんだ。」


 その声は震えていなかった。


 震えていないということが、

 逆におかしかった。


(おまえ、自分が何を抱えてるのか……もう、わかってるんだろ)


 言いかけて、やめた。


 セーレンの目は、

 “触れたら壊れる氷”みたいに澄んでいて、

 ただただ痛かった。


 トーマは、無理に笑った。


「……そうか。なら、行けよ。」


 軽く言うつもりだったのに、

 声が少しだけ低くなった。


 セーレンはその変化に気づいたようだったが、

 何も言わなかった。


 ただ、

 ほんの一瞬だけ——ほんの瞬きほどの間だけ——

 視線をそらした。


 拒絶でも敵意でもない。

 ただ、“これ以上は来ないでほしい”という弱い拒み方だった。


 その仕草が、トーマの胸を刺した。


(……わかってるよ。踏み込めない)


 あいつは、優しさを重いと感じるときがある。

 触れられると脆いところが崩れると知っているからだ。


 だからトーマは、踏み込まなかった。


 それが友情の形だと、思っていた。


「トーマ」


 セーレンが言った。


「……僕は、戻ってくるよ。」


(戻らなくても怒れないほど、おまえは遠くいくんだよ……)


 言葉にできなかった。


 ただ、「ああ」と返すだけで精一杯だった。


 セーレンは部屋を出る。


 扉が静かに閉まる。


 それだけで、

 部屋の中の空気が少し冷えた。


 トーマは椅子に腰を下ろし、

 机に肘をついた。


(……なあ、セーレン)


 声に出す必要のない言葉が、胸の奥に溜まっていく。


(おまえは気づいてないだろうけど……

 俺はずっと、おまえの歩き方を見てたんだ)


 肩を並べたかったわけじゃない。

 追いかけたかったわけでもない。


 ただ、

 いつもおまえが

 “間違えまい”として歩いてるのがわかった。


 世界の理に合わせようとして、

 社会に合わせようとして、

 自分を削って、

 それでも前に進もうとする背中。


 危なっかしくて、

 見ていられなくて、

 でも止められなくて。


(……おまえの“正しさ”は、いつだっておまえ自身を傷つける)


 だからトーマは、

 言い方を選んだ。

 言葉を濁した。

 軽口を叩いた。


「好きに生きろよ」なんて言えなかった。


 セーレンが

 “好き”を自分を削る方向に使うことを知っていたから。


(俺の脚で踏み込んだら、おまえの道を壊すだけなんだよ)


 だから踏み込めない。

 だから制止できない。

 だから告げられない。


 けれど、それでも——


(……歩き疲れたら、戻って来いよ)


 たった一言でいい。

「ただいま」でも「疲れた」でも。

 なんでもいい。


 言葉じゃなくてもいい。

 沈黙でもいい。


(おまえが“セーレンのまま”でいられる場所……俺は、それだけは守っておくから)


 声に出さない約束を、

 胸の奥でそっと結んだ。


 トーマは天井を見上げ、苦笑した。


「……はぁ。俺、何やってんだろ」


 誰にも届かない呟き。

 けれど、心は少しだけ軽くなった。


 部屋の外には、

 もうセーレンの気配はなかった。


 だが、

 セーレンが選んだ道の先に、

 戻る場所がひとつだけでも残っていればいい。


 トーマはそう思って、

 明かりを消した。


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