第10節 理性の盾
異端者の谷から戻った翌日、
第七局の空気はいつも通りだった。
いつも通り——のはずだった。
だが、セーレンだけが違っていた。
いつもならコートを脱ぎながらトーマに「おはよう」と言う。
朝は苦手なくせに、それでも律儀に顔を向けていた。
今日は、違う。
扉が開く音だけして、
セーレンは無言で持ち場へ向かった。
歩き方は変わらない。
姿勢も癖も変わらない。
話し方も、丁寧さも、表情の作り方も、同じ。
なのに——なにかが欠けていた。
トーマは、それが何かをすぐに言語化できなかった。
……いや、違う。
本当は気づいていた。
温度だ。
セーレンの周囲から、
人の温度が消えていた。
「おい、昨日のデータまとめたか?」
呼びかけると、セーレンは振り返った。
「うん。後で置いておくよ」
声音も態度も、いつも通り。
なのに——その“目”だけが違った。
焦点がどこにも合っていなかった。
まるで、誰かと会話しているのに、
どこか別の場所の景色を見ている孤独な旅人のような。
(……あいつ、何があった?)
昨日の谷で、あいつは何かを拾った。
それだけはわかっていた。
セーレンの手が、小さく震えていた。
帰り道も、宿でも、帰ってからもずっと。
ただの古い資料に触れたにしては、反応が異常だった。
「セーレン、本当に大丈夫か?」
その言葉に、セーレンは初めて表情を動かした。
「大丈夫だよ」
にこ、と笑った。
その笑顔は、“作りもの”に見えた。
あまり知らない人や、嫌味な上司に向けるあのセーレンの笑顔だ。
その瞬間、トーマの胸の奥に冷たい感触が走った。
(大丈夫じゃねぇ……)
昼休み。
アデルとマルクがパンを広げている中、
セーレンだけは黙々と資料を読んでいた。
ページをめくる速度が、異様に速い。
アデルが心配そうに声をかける。
「セーレン、顔色が……」
「平気。気にしないで」
鋭く遮る。
アデルは口をつぐんだ。
セーレンは本当に怒っているわけではない。
ただ——“誰も触れるな”という結界を張っていた。
トーマは椅子をずらし、横に座った。
「……なあ」
「……なに?」
顔はこっちを向いているのに、
視線だけが遠く向こうを漂っている。
「なんかあっただろ」
一瞬だけ、セーレンの瞳が揺れた。
だがすぐに、理性の膜の奥に埋もれた。
「何もないよ。任務は終わった。問題もなかった。報告もした」
「そうじゃねぇって」
「……僕は、大丈夫だ」
どんな問いにも、この返事しかしない。
声も、表情も、仕草も、どこか “決壊寸前の何か” を抱えたまま硬直している。
(……これ、やばいな)
理屈じゃねぇ。
“人間の気配”がまるごと抜け落ちてる。
あの誠実で、柔らかくて、小さく笑って、よく観察して、
不器用な優しさを持っていたセーレンが——いない。
“抜け殻”のようだった。
(……壊れかけてる。絶対に)
だが、手を伸ばそうとすると、
セーレンは痛むように目を伏せる。
そしてその瞬間、
トーマは理解した。
——今、踏み込んだら逃げられる。
“助けよう”とする気配そのものが、
セーレンには重荷になる。
そういう性質を、彼は5年も一緒にいてよく知っている。
だから
“踏み込めなかった”。
知っているからこそ、動けない。
その事実が、胸に刺さった。
夜、寮への帰り道。
魔素灯が淡い青を石畳に散らしていた。
セーレンはいつもの道を歩いているのに、
“ひとり”に見えた。
(……あいつに、もっと早く踏み込めばよかったのに)
気づいていた。
初めて出会ったときから、
セーレンの背中には“扉”があった。
扉は氷でできていて、
細くひびが入るたびに、
セーレンはすぐに閉ざしてしまう。
あのとき——
“値踏み”したと悟られ、拒絶されたあの時に。
笑ってごまかさず、
「すまん」と即座に言えばよかった。
自分の癖を説明すればよかった。
人間を理解するのが怖いから、先に測ってしまうのだと。
人が怖いから壁を作るセーレンと、
人が怖いから先に測る俺。
り方は違うのに、根っこは同じだって、俺は知ってた。
セーレンが、初めて弱音を吐いた時にだって、言えたんだ。
お前と同じで俺も人間が怖いんだって。
幼いころの夜が恐ろしかったと。
あのとき踏み込めば、
今日の“空洞のセーレン”は生まれなかったのではないか。
(……俺は、何で言えなかったんだ)
胸の奥が、ずっと軋んでいた。
もっと早く踏み込めばよかった。
もっと深く話すべきだった。
後悔が、心臓を締めつけた。
(……失いたくないんだよ。あの誠実なセーレンを)
呼び戻したいのに——
声が届かない。
トーマは初めて、
友を“見失う”絶望を知った。




