第2節 祈る父
風の鳴る音が、夜を削っていた。
雪は絶え間なく降り続き、窓辺の氷を厚く覆っている。
炉の火だけが、かろうじて生の証を示していた。
母は浅い呼吸を繰り返していた。
唇はかすかに動くが、言葉にはならない。
その胸の上下が止まらないことだけが、まだこの家に神の影が残っている証のように思えた。
セーレンは寝台の傍に座り、母の額の汗を布で拭った。
それしか、できることがなかった。
薬はもう効かない。
小瓶の底には、乾いた結晶だけが残っている。
棚の上に積まれた紙束には、父の震える文字で数値が記されていた。
「魔素流測定――下肢・末端に停滞。呼吸流路に不全あり。」
医師としての冷徹な記録。
それが、祈りよりも痛々しく見えた。
父カスパルは机の前に座り込み、顔を伏せている。
背中が硬く、呼吸が浅い。
診療台の上には、薬瓶と古びた祈祷書が並んでいた。
どちらを選んでも、結果は変わらなかった。
彼は医師でありながら、いまは祈るしかなかった。
セーレンは父の背を見つめながら、唇を噛んだ。
「……どうして。」
声が震えた。
父は答えない。祈祷書の上に手を置いたまま、目を閉じている。
その姿が、なぜか腹立たしかった。
「祈っても、治らないのに……。」
言葉が出た瞬間、胸が痛くなった。
父は振り向かず、ただ小さく息を吐いた。
「祈りは、私の力では届かん。けれど、沈黙の中に手を伸ばすことをやめたら、それこそ終わりだ。」
セーレンは膝を抱え、炉の火を睨んだ。
燃える音が、母の息よりもはっきりと聞こえる。
胸の奥が熱くて、喉が詰まった。
涙をこらえ、拳を握る。
――どうして神さまは何もしないんだ。
――どうして父さんは祈ってばかりなんだ。
――ぼくは、何をすればいい?
叫びたいのに、声にならなかった。
火のはぜる音が、何かを笑っているように聞こえた。
「……もうやだ。」
小さな声が漏れた。
けれど父には届かなかった。
届いたとしても、きっと返事はなかっただろう。
外の風が壁を叩く。
雪が窓を塞ぎ、世界は白い音に沈んでいた。
その沈黙が、まるで神そのもののように思えた。
――何も言わない、何もしてくれない神。
そのとき、扉が叩かれた。
コン、コン、と低く。
風の音の中で、それだけが鮮やかに響いた。
父が顔を上げる。
「誰だ。」
外から低い声が返った。
「ヨアヒムだ。開けてくれ。」
扉を開けると、冷気が一気に流れ込んだ。
雪にまみれた灰色の外套の男が立っていた。
その目は鋭く、けれど奥に微かな慈しみがあった。
「道が閉ざされる前に、来られてよかった。」
ヨアヒム――セーレンの叔父。
帝都から遠路を経てやってきた医術者だった。
旅の埃を払う間もなく、彼はまっすぐ母のもとへ向かった。
「症状は?」
「発熱。咳。胸の痛みが強い。呼吸が浅い。」
カスパルの声は低く、擦れていた。
ヨアヒムは短く頷き、母の手を取った。
掌を静かに当て、目を閉じる。
部屋の空気が、わずかに緊張した。
セーレンは見入った。
それは父と同じ――魔素の流れを読む動作だった。
けれど、どこか違って見えた。
父の手が「祈るように」動くのに対し、
叔父の手は「観察するように」静かだった。
迷いがなく、まるで術ではなく思考の一部のようだ。
セーレンは息を呑んだ。
――同じことをしているのに、世界の見方が違う。
その手つきの違いが、少年には不思議でならなかった。
父は「助けてくれ」と世界に語りかけ、
叔父は「なぜそうなる」と世界に問いかけていた。
どちらも魔素を扱っている。
だが、光の向かう先がまるで違ってみえた。
ヨアヒムは眉を寄せ、母の胸に軽く手を移した。
「魔素の流れが乱れている。肺の奥に滞りがある。」
その声は、診断というより観察の記録だった。
「治るのか?」
父の声は、かすかに縋るようだった。
ヨアヒムは炉の火を見つめた。
「……奇跡という言葉を、私はもう少し別の形で信じたい。
神の理は沈黙しているけれど、理そのものは沈黙していない。」
セーレンには、その言葉の意味が分からなかった。
けれど、父の表情がわずかに揺れたのを見た。
祈る人の顔に、医師の影が一瞬戻った。
「兄さん。」
ヨアヒムは静かに続けた。
「神が沈黙しているなら、その沈黙の構造を探ることもまた、人の務めだ。
理解することは、背くことではない。」
カスパルの手が膝の上で握られた。
「……おまえは理を信じすぎる。」
「兄さんは祈りを信じすぎる。」
互いの言葉がぶつかり、そして静かに沈んだ。
灰の風が窓を鳴らす音だけが、二人の間を流れた。
ヨアヒムは旅の荷から小瓶を取り出した。
淡い青を帯びた液体が揺れている。
「セフェトリウム液。」
彼は静かに名を告げた。
「東邦国家で再現された“青銀樹”の樹脂を基礎にした薬だ。私がその化学的反応を解析し、再構成した。
炎症性の発熱を下げ、肺炎に特効を示す。投与後、一時的に患者の熱が下がる。」
「抗菌薬……。幻の薬か。」
カスパルの声が震えた。
「そうだ。だが、これは構造を理解すれば再現できる、ただの化学だ。」
ヨアヒムはそう言いながら、注射器を手に取った。
注射器の筒を温め、気泡を抜いた。
金属針が母の腕の静脈を探る。
針を通して流れ込む薬液の感触を、魔素で追った。
炎症の熱がゆるみ、呼吸がわずかに深くなる。
ヨアヒムは薬の流れを確かめながら、わずかに息を吐いた。
「兄さん、流れを保ってくれ。」
カスパルは頷き、手を母の胸に当てた。
彼の魔素操作は繊細だった。
呼吸の流れを乱さぬよう、体内の循環を微細に導く。
ヨアヒムの薬が肺に届く瞬間、二人の魔素がわずかに重なった。
長い静寂が訪れた。
炉の火が揺れ、外の風の音が遠ざかる。
母の胸が、ゆっくりと上下した。
セーレンは目を見開いた。
呼吸が深くなっている。
ひとつ、ふたつ――。
父が息を吐き、ヨアヒムが目を閉じた。
「効いた。」
「兄さんの流れがあったからだ。」
ヨアヒムが笑みを浮かべる。
「魔素の扱いは、やはり兄さんの方が上だ。」
カスパルは肩を落とした。
「……薬がなければ、どうにもならなかった。」
「薬はただの手段だ。理は神の沈黙の中にも流れている。
だからこそ、人はそれを見つける努力をやめてはいけない。」
カスパルは静かに目を伏せた。
「その努力が、いつか誰かを傷つける日が来ないことを祈るよ。」
セーレンはその会話を、ただ黙って聞いていた。
二人の言葉は、まるで別の言語のようだった。
祈りも、理も、どちらも遠い。
けれど、母の呼吸の音だけが確かな現実としてそこにあった。
夜が更け、雪の音が遠くなっていく。
ヨアヒムは薬草を煎じ、父は炉の火を整えた。
セーレンは隅の椅子に座り、二人の背中を見ていた。
祈る父と、理を探る叔父。
その間で、自分はどちらにもなれずにいる。
――祈っても、治らなかった。
――でも、理を知る人は、神の沈黙を破った。
その夜、セーレンの中で、何かが静かに“変質”した。
外の風はまだ灰色だったが、
その中に、かすかな青の気配が混じっているように見えた。
それは夜明けの前に灯る、微かな理の光だった。




