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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第3章 白衣の楽園

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第9節 理性への逃亡

 夜明け前の山宿は、世界が息を潜めているように静かだった。

 窓の外では風だけが囁き、薄い霧が森の木々を包んでいる。


 セーレンは机の前に座り、ランプの灯を低くした。

 鞄の底にしまった袋を取り出す。掌に乗せると、金属片は冷たい。

 その冷たさは、胸の奥に沈んだ不吉な予感と同じ温度だった。


(……もう一度、読まなきゃいけない)


 紙を広げる。

 昨夜は衝撃でところどころを飛ばしてしまった。

 今は、逃げる理由がどこにもなかった。


 ページの上に、淡く魔素灯が反射している。


 〈液体魔素試薬:ヨアヒム・エルンストの精製分使用〉

 〈被検体001:魔素感受性・高〉

 〈適合値上昇後——死亡〉


 昨夜と同じ行が目に刺さる。

 今度は、逃げずに読み進めた。


 〈観測記録補遺:魔素発現の微細揺らぎについて〉

 〈参考文献:魔素感知能力における個人差の考察(S・E)〉


 視界がぐらついた。


(……僕の名前)


 自分の書いた報告書が、別の文脈で引用されていた。

 セーレンは指先を震わせながら、その部分を見つめる。


(いや……引用されただけだ。

 理論の応用先が間違っていただけで……

 僕の研究は、“観測”をしただけで……)


 必死に言い訳を探す自分が、余計に惨めだった。


 だが、次の行がすべての逃げ道を塞いだ。


 〈高感受性個体への液体魔素投与は、

 発現予兆を早期に観測できる〉

 〈——候補個体の最適性:高〉


(……僕のデータが、“適した子ども探し”に使われた)


 理解は、ゆっくりと胸に沈んだ。

 沈んで、沈んで、底に触れた瞬間、鋭い痛みになった。


(僕の書いた“観測記録”が……

 誰を実験台に乗せるかの判断材料になったんだ)


 吐き気に似た眩暈がする。

 紙を握る手が汗で湿る。


 液体魔素の再生製のための取り組みや、魔素が人体に及ぼす影響など、白衣会が総力をあげた研究記録が記載されていた。


 ページをめくる。


 頁の中ほど。

 黒ずんだインクの“固有名”が、セーレンの目を刺した。


 〈被検体名:レイナ〉

 〈識別番号:01〉

 〈液体魔素供給量:標準投与・単一試薬(在庫:1)〉

 〈投与後反応:魔素適合値 一時的上昇〉

 〈生命反応:急激低下〉

 〈最終記録:死亡〉


 レイナ。


 名前を見た瞬間、世界が止まった。


(……レイナ……)


 記憶の中の少女の笑顔が、一瞬で灰の色に変わる。

 指先の震えが止まらない。


 さらに読み進めると、文字の雰囲気がガラリと変わった。

 後半は明らかに筆跡が乱れている。紙の端は破れかけていた。


 〈第二段階儀式 中断〉

 〈魔素容器残欠なし 再試行不能〉

 〈会議結果:撤収〉

 〈教会“内側”への接触成功 情報共有予定〉

 〈写本送付――返答〉


 そこから先は、さらに混乱していた。

 インクの飛び方が異様で、手が震えたまま書いた跡がそのまま紙に刻まれている。


 〈レイナ死亡 儀式破綻〉

 〈“沈黙”は破れず〉

 〈我ら 追跡される〉

 〈資材持ち出し不能〉

 〈ヨアヒム案の補完 必要――〉

 〈戻るな 教会を頼れ〉

 〈科学派とは分裂する〉


 そこまで読んだ瞬間、胸の奥で何かが音を立てて割れた。


(……戻るな?

 これは、当時白衣会を留守にしていた人への……

 “避難指示”だ)


 つまり——

 レイナは“その日”たった一人で、彼らの狂気の中心に置かれた。


 液体魔素は一つしかなかった。

 だから、犠牲者は彼女ただ一人だった。


 成功例はもちろんゼロ。

 そして失敗した瞬間、白衣会は崩壊し、散り散りに逃げた。


 セーレンは紙の一点を凝視したまま、しばらく動けなかった。


(……レイナは、死んだ)


 言語化した瞬間、胸の奥で何かが潰れた。

 音もなく、静かに壊れた。


「……僕のせいだ……」


 掠れた声が漏れた。

 聞き慣れない声だった。まるで自分の声ではないように響いた。


「僕が、あの報告書を書いたからだ……」


 部屋の空気は冷たかった。

 だが胸の中は、熱と寒さが泥のように混ざって痛かった。


 セーレンは視界を覆うように両手で顔を押さえた。


(違う……違うはずだ……

 僕はただ“観測”しただけ……

 子どもの反応を記録しただけ……

 ——ただ、それだけのはずだ)


 しかし、逃げ場はどこにもなかった。

 書類のどの行も、自分の言葉が“始まりの位置”に置かれていた。


 白衣会信仰派が狂気に染まった理由。

 液体魔素開発が中断された理由。

 ヨアヒムが追放された理由。


 そして——


 レイナが、死んだ理由。


 それらすべてに、自分の名前の影が薄く伸びていた。


 セーレンは唇を噛んだ。

 血の味がしたが、感覚がどこか遠かった。


「……いや、違う。僕は悪くない」


 震える声が、自分を守ろうとしていた。

 守ろうとして、さらに追い詰めた。


 心臓が早鐘を打つ。

 思考が止まる。

 気持ち悪い。

 誰か僕を助けて。


 一瞬、トーマの顔が浮かんだ。

 今ここで、すべてを話してしまえば――あいつはきっと、眉をひそめて、それから困ったように笑う。


「お前は悪くない」


 そんな言葉を、ためらいなく口にするだろう。

 その声の調子まで、ありありと思い出せてしまう自分が、ひどく嫌だった。


 ――トーマに言って、何になるんだ。

 ただ楽になりたいだけじゃないか。


 胸の内側で、誰かが冷ややかにつぶやく。

 罪を分け合ってもらって、重さをごまかしたいだけだ。

 あいつに「悪くない」と言わせて、その一言に縋りつきたいだけだ。


 セーレンは、わずかに首を振った。

 それではいけない。そんな赦しは、自分には過ぎたものだ。


 友情や好意に縋るのは、やっぱり間違いだったんだ。

 僕には、あれは――最初から、持ってはいけないものだった。


 セーレンはゆっくり息を吸い、机に両手をついた。


(落ち着け……考えるんだ……

 これは“理”で説明できるはずだ)


 思考は再び動き出した。

 だが、無理やり取り戻した冷静さは、

 制御不能な理性となって狂気の速度で回転を始める。


(失敗の原因——液体魔素の保持時間かもしれない

 あるいは投与量の問題……

 レイナの適合値の上昇速度が速すぎたのか……)


 次から次へと言い訳めいた分析が浮かんでくる。


(段階的投与なら……

 微量から始めて適合値を見ながら調整すれば……

 第二投与で反応を見る余裕が……)


 レイナという命を前に、

 “改良案”を考えてしまった自分に気づいた瞬間——


 セーレンは息を止めた。


(……何を、考えてる)


 頭を振る。


(これは……言い訳だ

 ただの逃避だ)


 だが、理性は止まらなかった。


(いや、違う。

 “もし”原因が解明できれば……

 死は無意味じゃなくなる……

 救われる……)


 祈りの言葉に似た、理性の欺瞞。


(失敗の理由を突き止めれば……

 レイナの死は、“意味”になる)


 その発想は、白衣会の狂気と紙一重だった。

 だがセーレンは、それに気づけない。

 気づけるほど、まだ自分に耐える力がなかった。


 資料の最後の行が、静かに彼の心を突き刺した。

 また別の筆跡だ。


 〈信仰派白衣会は中央国家へ異動〉

 〈再現儀式は続行予定〉

 〈科学派は拘束され帝国の管理下へ〉


(……逃げたんじゃない。

 中央国家に受け入れられたんだ)


 中央国家は祈りを排し、理性を掲げる国だ。

 “再現計画”すら異端ではない。


(追わなければ……)


 セーレンは机の縁を掴んだ。

 呼吸が荒い。

 視線だけはまっすぐだった。


(僕が知りたい。

 僕が確かめる。

 僕が“理論の真価”を、証明しなくちゃいけない)


 自分でも気づかぬうちに、

「止めたい」という思いが

「完成させたい」という衝動と混ざり合う。


 どちらが本心なのか——

 セーレン自身にもわからなかった。


(……もし僕が“正しい理”を持っていれば、

 レイナは……死ななくて済んだのか?)


 その問いは呪いに近い。


(だから僕は……

 もう一度“正しい理性”を探しに行く)


 足元の地面が揺れたように感じた。

 それは罪悪感ではなく、

 理性が暴走する兆候だった。


 ランプの炎が揺れた。

 その炎が作る影は、まるで谷底の形をしていた。


 セーレンは資料を胸に抱え、立ち上がった。


「中央国家へ……行かなくちゃ」


 声は祈りのように掠れていた。


(神が沈黙したんじゃない……

 僕が、まだ“正しい理性”に辿り着いていないだけだ)


 自己崩壊の始まり。

 だが、セーレンはそれを“真理への一歩”と勘違いした。


(僕が理を証明すれば……

 レイナの死は——救われる)


 その瞬間——


 セーレンは、もとの優しい青年ではなかった。

 理性の火に手を伸ばし、

 その火がどれほど人を焼くかを忘れていた。


 扉の外では風が鳴っていた。

 その音は、まるでどこか遠くで鐘が壊れる音のようだった。


 セーレンは一度も振り返らずに、

 ゆっくりと部屋の灯を消した。


 暗闇の中に残ったのは、

 ひとつの願いにも似た呟きだった。


「……待ってて、レイナ。

 “理”が必ず……君を救うはずだから」


 その言葉が祈りなのか、狂気なのか、

 彼自身にも判断できなかった。


 ただ、暗闇の中で——

 セーレンは初めて“理性の天国”への扉を開いてしまったのだった。


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