第8節 信仰の血
——沈黙は、ついに破られるはずだった。
夕暮れ。白衣会の研究所は、ひどく静かだった。
しかしその静けさの底には、五十年分の焦燥と熱狂がひそんでいた。
“今日だ。今日こそ、世界は神の沈黙を破る。”
その確信が、白衣会の空気を満たしていた。
私は器具の最終確認をしながら、胸の鼓動がやけに速いのを感じていた。
魔素濃度計は夜のうちに校正済み。液体魔素は密封容器の中で青白く光っている。
ヨアヒム・エルンストが作成した唯一の“液体魔素”。
これを奪えたのは、奇跡と言ってよかった。
あの男は科学の可能性から逃げ出したが、理論だけは確かだった。
信仰派の指導者が研 隣接する聖堂から出てくる。
「準備は整った。……レイナを呼べ」
あの少女。
魔素感知能力が聖女候補の中でも突出していた。
——選ばれた素材だった。
やがて、ひとりの少女が扉から入ってきた。
十歳。
長い金の髪は半分だけ結われ、まだ幼い顔には不安の影があった。
「レイナ、怖がる必要はない」
信仰派の者が優しく言う。
「君は、神の声をもう一度この世界に戻す子だ」
レイナは言葉を飲み込むように、小さく頷いた。
私は装置の前に位置を移し、魔素注入管を固定する。
管の先になめらかに満ちた液体魔素が、冷たい光を放っていた。
——これが、世界を変える。
私はそう信じていた。
「投与を開始する」
仲間の一人が告げると、室内に緊張した沈黙が落ちた。
針を刺す。
液体が注入されていく。
レイナの肩が揺れ、かすかな息が漏れる。
「痛い?」
「……大丈夫、です」
震えた声だったが、その瞳は諦めではなく“期待”に揺れていた。
私たちの期待と、彼女自身の期待とが、薄い膜のように重なっている。
魔素濃度計が反応する。
——上がった。
「適合値……二百五十……二百八十……三百……!」
「上がってる……! 本当に……!」
誰かの声が裏返る。
誰かが歓声を上げる。
私も震えた。
体の奥が熱く膨張していく感覚。
「レイナ、試してみよう。水を生み出してみてくれ」
レイナは戸惑いながら両手を差し出した。
そう、彼女はこれまで“コップ一杯”しか出せなかった。
それが、液体魔素を投与した聖女候補なら——
掌の上で光が生まれた。
淡い青。
次の瞬間。
ぼうっ……!
「……これは——!」
水が溢れた。
桶いっぱいではない。
大樽だ。
研究室の床に、水の波がざあっと広がる。
「成功だ……! 成功だ!!」
興奮が爆発した。
手が震え、視界が揺れる。
ついに。
ついに、理論は証明されたのだ。
「次は……祈りだ」
信仰派の指導者が、静かに言った。
レイナが肩を震わせる。
「あの……どうすれば……」
「祈るんだ。あの“奇跡”を思い出して」
「でも、わかんないよ……」
弱い声。
聖女は祈りの形を教わらずとも、奇跡は起きた。
祈りの型などないのだろう。
信仰派の一人が扉の奥へ合図した。
連れてこられたのは——
怪我をした科学者。弟子の一人だ。
帝国へ告発しようとした裏切り者。
「この人を助けてごらん」
「し、師匠……やめて……助けて……!」
「君ならできる。君にしかできない」
レイナの顔から血の気が引いた。
私は、床に膝をつかされている弟子を見下ろした。
裏切り者だ、と頭ではわかっている。
帝国に告発しようとしなければ、こんな目には遭わなかった。
それでも——血の匂いと、震える肩は、どうしても“弟子”のもので。
止血してやりたい。布を当て、縫合し、せめて痛みだけでも取ってやりたい。
そんな当たり前の衝動が、一瞬だけ喉まで込み上げる。
(やめろ、と言うべきなのは、こいつじゃなくて私なんだろう)
胸の奥がきゅっと縮んだ。
——怖い。
このまま進めば、レイナも、この弟子も、“実験”の一行に変わる。
私自身も、“ただの観測者”には戻れなくなる。
だが同時に、別の声がその恐怖を押し潰した。
五十年だ。
五十年もの間、世界は奇跡を失った。
ここで本物の“祈りの奇跡”が起きれば、こいつの傷も、沈黙も、まとめて片がつく。
(世界のためだ。こいつのためでもある。……そうだろう?)
私は口を開きかけて——そして、何も言わなかった。
自分は何を言おうとしたんだ。
唇を噛む。
じわりと血の味がする気がした。
胸の奥がざらついた。
だが、これは必要な工程だ。
“祈りの奇跡”が起きる瞬間を捉える——科学派にとってもこの上ない機会。
レイナは泣きそうな顔で、倒れかけた男の肩に触れた。
「……たすけ……て……」
その声は、少女より先に震えていた。
レイナは目を閉じ、両手を合わせるように胸元へ寄せた。
祈り方は知らない。
だから、“祈りらしき形”にすがるしかなかった。
室内の魔素灯が揺れはじめる。
濃度計の針が震える。
「いけ……いけ……!」
同行していた仲間たちの目は、完全に熱に浮かされていた。
誰もが成功を疑っていなかった。
——だが。
「あ……ぁ……」
レイナの指先から、光が弱くなる。
「おい、脈……!」
「適合値……低下……? なぜ……!」
「ま、待って、もう一度祈ってみろ!」
「わかんないよ……うまく……できないよ……!」
レイナの膝が折れた。
「支えろ! 支えろ!!」
叫び声が飛ぶ。
「駄目だ、生命反応が……!」
「なぜだ!? 適合値は確かに上がったはず……!」
レイナの腕がだらりと落ちた。
呼吸は浅く、魔素反応はほぼ“消失”。
どれほど測定値をいじっても、数値は戻らなかった。
「レイナ! おい、レイナ!!」
「くそ! どうして……!」
室内は一瞬で混乱した。
誰もがレイナを見ていない。
見ようとしない。
「逃げろ!! 急げ! 帝国軍が近い!!」
「密告が届いたんだ……誰が……誰が……!」
「信仰派は教会の伝手を使う!!」
「科学派は谷へ! 体制を立て直す!」
怒号が飛び交う。
器具が倒れ、紙が散らばり、魔素灯が割れた。
「これ……渡しておく……!」
信仰派の一人が、私の胸に書類の束を押し付けた。
焦げ跡のある封印付きの文書だった。
「兄弟へ伝えてくれ……成功の鍵は……まだ……!」
声は途切れ、彼らは外へ走り去っていった。
私はレイナを一度だけ見た。
床に倒れた小さな体。
さっきまで水を溢れさせていた手は、力なく開いたままだった。
睫毛は濡れている。頬には泣いた跡が残っている。
脈は、どこにもなかった。
胸の奥が、ひどく静かになった。
(……すまない)
その言葉だけが、のどの奥に貼りついた。
(本当は、止めるべきだった。
もっと時間をかけて、液体魔素を再現してから投与へ進むべきだった)
今さらそんなことを認めても、何も変わらない。
レイナは戻らない。
この小さな体も、この涙の跡も、二度と動き出すことはない。
(だから……せめて、この実験だけは無駄にしない)
(君の死を“失敗”の一行にはしない。
ここから先を解き明かしてみせる。
神の沈黙を破る、その一歩だったと証明してみせる)
それは祈りでも赦しでもなく、自分への言い訳だった。
それでも私は、その言い訳にすがるしかなかった。
(……許してくれ)
心の中で誰にともなくそう呟き、
私は文書を抱えて走り出した。
扉の向こうでは、夜の風が荒れ狂っていた。
白衣会は——この瞬間、二つに裂けた。




