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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第3章 白衣の楽園

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第6節 小さな祈り

 春の午後の雨は短く、研究棟の外壁を叩いていた水滴も、いまでは淡い陽光に照らされて白く乾きはじめていた。石畳を流れていた水は細い筋となり、青い魔素灯を反射しながら消えていく。

 研究棟の一角にある休憩室では、4人が遅めの昼食を広げていた。パンと干し肉、中央国家の茶葉。トーマの実家からの差し入れだ。


「改めて、おめでとう、セーレン主任」

 マルクが笑いながら乾杯代わりにカップを軽く掲げた。

「本当に若いのに、すごいわね」

 アデルも静かに続く。


 セーレンは少し照れたように肩をすくめた。

「主任と言っても、まだ代理みたいなものだよ。正式任命までは——」

「はい出た、謙遜」

 トーマがパンをちぎりながら言った。

「帝国科学班で二十歳そこそこで主任任命なんて、滅多にねぇんだよ」

「うん、嬉しいよ。ただ……」

「ただ?」


 セーレンは視線をうつむけた。

「僕より先にやってた先輩たちがたくさんいるのに、僕が選ばれていいのかって」

「実力だよ、実力」

 トーマは当然のように言った。

「おまえの計測精度は班で一番だし、論文の査読も帰ってくるの早いし、判断も早い。主任にならない理由のほうがねぇ」

 アデルが頷いた。

「あなたは努力を続けた人よ。それは評価されていいこと」


 セーレンはわずかに笑った。

「……ありがとう」


 そんなセーレンに、3人は「お祝い」として小さな包みを差し出した。


「これ、僕から」

 マルクが手渡したのは、革張りの細い工具入れだった。

「セーレン、いつも工具がそこらへん散らかってるでしょ。主任がそれやると威厳ないからね」

「……ありがとう。大事に使う」

「ほんとに散らかってるものね」

 アデルがくすりと笑う。

「私からは、これ」

 アデルが差し出したのは、薄い栞のような板。

 中央国家の伝統文様が刻まれている。

「魔素反応で色が変わるの。読書のときに使って」

「きれいだ……ありがとう」


 そしてトーマが袋を差し出した。

「はい、主任へ」

「……何?」

「開けろって」


 中から出てきたのは、銀色のペン。

 軽く、冷たく、細部まで美しい。


「おまえ、メモ取るとき、いつも文字をつぶす勢いで書くからさ。ちゃんとしたペン、一本持っとけ」

「……これ、高いだろ」

「気にすんな。お前が主任になった記念だよ」

 セーレンはそのペンをしばらく見つめた。

 胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。


(僕のために、わざわざ……)


 こんなふうに誰かに祝われたことは——ほとんどなかった。

 気づけば胸が熱くなっている。


「……ありがとう。本当に、嬉しい」

「だよな!」

 トーマが豪快に笑う。

 マルクがぱちんと手を打つ。

「じゃあ、主任。今日の昼休みはセーレンの奢りでいいんじゃ?」

「は?」

「主任の初仕事だよ!」

「どんな初仕事だよ……」

 それでもセーレンは笑った。

 本当に、自然に。


 その笑みを見ながら、アデルは少し目線を落とした。

 羨望でも嫉妬でもなく——

(……良かった)

 そう思うだけの、淡い影だった。


 夕方。

 4人は装置の再調整を終え、小休憩に入っていた。

 アデルは書類をまとめ、マルクは機構部品の磨き直しをしている。


 青い魔素灯の揺らぎが実験室全体を照らし、

 セーレンの横顔にも淡い光を落としていた。


 ふいに、セーレンがぽつりと言った。

「……アデルは、マルクと話してると楽しそうだな」


 トーマは思い切り眉をひそめた。

「はあ?? おまえ、ほんっとうにズレてんな」


 セーレンがきょとんとする。


「よく話してるし、視線も向いてる。視線には意味があるんだろ?」

「あのな……」

 トーマは額を押さえた。


「アデルはさ、昔はおまえしか見てなかったぞ」

「……そうなのか?」

「4年前とか、わかりやすかった。お前の名前呼ばれるたびに顔赤くなってたし」

「言われたことはあるけど……そのあとも、わからなかった」


 セーレンは少し目線を落とした。

 指先が、机の上の紙をそっとなぞる。


「……わからないんだ」


「またそれかよ」

「わからないって言ってるんだから、わからないんだよ」


 いつものように淡々と語られると思ったその声は、

 どこか揺れていた。


「視線も表情も……“情報”じゃない。“揺らぎ”だ」

「揺らぎ?」

「計測不能ってこと」


「……」

 トーマは吹き出し、肩を震わせた。


「ほんと恋愛向いてねぇな、おまえ」

「向いてなくていい。僕には関係ない」

「関係あるだろ、おまえにも」

「……あったとしても……気づけない」


 セーレンの声は静かで、深かった。

 その奥には、彼の誰にも見せない“底”があった。


 そして——

 ぽつりと、決定的な言葉が落ちた。


「……わからないってことが、怖いんだ」


 トーマの手が止まった。

 いつだって自分を隠しているセーレンが、

 “恐怖”という言葉を口にするなんて。


 セーレンは続けた。


「嫌われるのが……怖い」


 その言葉には、冬の底のような静けさがあった。

 誰にも見せなかった弱さが、ようやく呼吸をした瞬間だった。


「嫌われるのが……怖い」


 セーレンがそう言った瞬間、トーマは一切の冗談をやめた。

 椅子の背に寄りかかっていた姿勢を正し、

 まるで“触れたら割れそうな何か”を扱うように、彼を見た。


(やっと……こいつは隠してた本音をみせてくれた)


 5年。

 観察、模倣、距離、沈黙、そして少しずつの信頼。

 ようやく、セーレンは自分の「底」を誰かに見せた。


 トーマはゆっくり、息をついた。


「……セーレン」

「なに」

「嫌われねぇよ」


「慰めは嫌いだ」

「慰めじゃねぇ。慣れただけだ」

「慣れただけ?」

「おまえが“わからねぇこと”に必死で向き合うところにさ」


 セーレンは、少しだけ視線を上げた。

 懐疑でも期待でもない。ただ、聞こうとする目だった。


「わかんねぇものを、わかろうとするだろ」

「……それは、仕事だから」

「仕事じゃねぇよ。おまえの生き方だろ」


 セーレンは言葉をなくした。


 トーマは肩をすくめるような軽さで言い足す。

「おまえのそういうとこ、俺は好きなんだよ。だから平気だ。嫌ったりしねぇよ」


 あまりにも自然に言うから、

 セーレンは逆にどう反応していいのかわからなくなった。


「……変な言い方するな」

「褒め言葉だっての」

 トーマは笑った。

 その笑いに、セーレンは肩の力を少し抜いた。


 誰かに“嫌われない”と断言されることが、

 こんなにも胸に響くとは思わなかった。


 夕暮れの研究棟。

 魔素灯が青い光を落とす廊下を、2人は並んで歩いていた。


「アデルってさ」

 トーマがぽつりと言った。

「最近、落ち着いた顔してる」


「そう見えるか?」

「見える。……やっと手放しかけてんだろうな、あの片想い」

「……いいことじゃないか」


 トーマは横目でセーレンを見る。

「気になるのか?」

「気にならないわけじゃない。でも……僕は、誰かの気持ちに気づけるような人間じゃない」


 その言い方はいつものように淡々としていたが、

 どこか自嘲に近い響きがあった。


「でも」

 セーレンは続けた。

「……誰かと並んで歩きたいとは思ってる」


 トーマは思わず歩みを緩めた。


(……成長したな、こいつ)


 昔のセーレンなら、決して口にしない言葉だった。


「立派じゃんか、それ」

「立派とかじゃない。ただ……そう思うだけで」


「恋じゃなくてもさ」

 トーマは夜風を吸い込みながら言った。

「おまえが誰かと一緒にいて、ちゃんと呼吸できるなら、それでいいんだよ」


 セーレンは目を細め、空を見上げた。

 薄い雲が魔素灯の光を散らし、青白い影をつくっている。


「……わからないことが多いな」

「わからないままでいい。

 わからないってのは、生きてるってことなんだから」


 その言葉は、雨上がりの空気みたいに胸にしみた。


 少し間を置いたあと、セーレンは静かに口を開いた。


「……いつか、わかるようになりたい」


 その声は祈りに似ていた。

 幼い頃、聖堂で唱えた祈りとはまるで違う。

 もっとささやかで、もっと切実で、

 もっと“人間”の声だった。


 寮に戻ると、夜の風が廊下を抜けていく音がした。

 セーレンは部屋の明かりをつけず、机に座る。

 新しく贈られた銀のペンを取り出し、紙を広げた。


 ——今日は、嬉しいことが多かった。


 ——主任任命を祝ってくれた。


 ——アデルの栞は光がきれいだった。


 ——マルクの工具入れは、使いやすい。


 ——トーマのペンは、手に馴染む。


 ——誰かと一緒にいて、ちゃんと笑えた。


 ——人の気持ちは、やっぱりわからない。


 ——でも、並んで歩きたいと思った。


 ——今日は、楽しかった。


 文字はゆっくりと、けれど迷いなく紙に刻まれていく。

 理論も構造もない、ただの「今日の記録」。

 けれどそのどれもが、今のセーレンにとっては大事な証拠だった。


 ペン先から生まれる言葉を見つめながら、

 セーレンはふと、手を止めた。


「……明日も、こうだといいな」


 ふと思っただけの小さな願い。

 けれどそれは、彼がまだ名前を持たない“祈り”だった。


 窓の外で、春の風がそっと吹いた。

 青い魔素灯の光が揺れ、紙に淡い影を落とす。


 ——この季節が、ずっと続けばいい。


 そんな想いを胸に、セーレンはゆっくりと目を閉じた。


【お知らせ:更新ペース変更について】


いつもお読みいただき、ありがとうございます。


次回(3章7節)より、年内は週4回更新に変更します。


【更新曜日】

火曜・金曜(従来通り)+ 土曜・日曜(追加)


【理由】

次章(第Ⅳ章)は、セーレンが精神的に孤立し、

空洞化していく過程を描きます。


正直に言うと、年内いっぱい鬱々とした展開が続きます。


そのため、できるだけ早く完結させて、

年明けに新しい章(第Ⅴ章)をお届けしたいと考えました。


【今後の流れ】

12月中:第Ⅲ章完結 → 第Ⅳ章完結

1月初旬:第Ⅴ章開始(舞台が変わります)


暗いトンネルは短めに抜けます。

もう少しだけ、セーレンと一緒に歩いていただけると嬉しいです。


次回更新:12月6日(土曜)

第Ⅲ章第7節「異端者の谷」

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