第6節 小さな祈り
春の午後の雨は短く、研究棟の外壁を叩いていた水滴も、いまでは淡い陽光に照らされて白く乾きはじめていた。石畳を流れていた水は細い筋となり、青い魔素灯を反射しながら消えていく。
研究棟の一角にある休憩室では、4人が遅めの昼食を広げていた。パンと干し肉、中央国家の茶葉。トーマの実家からの差し入れだ。
「改めて、おめでとう、セーレン主任」
マルクが笑いながら乾杯代わりにカップを軽く掲げた。
「本当に若いのに、すごいわね」
アデルも静かに続く。
セーレンは少し照れたように肩をすくめた。
「主任と言っても、まだ代理みたいなものだよ。正式任命までは——」
「はい出た、謙遜」
トーマがパンをちぎりながら言った。
「帝国科学班で二十歳そこそこで主任任命なんて、滅多にねぇんだよ」
「うん、嬉しいよ。ただ……」
「ただ?」
セーレンは視線をうつむけた。
「僕より先にやってた先輩たちがたくさんいるのに、僕が選ばれていいのかって」
「実力だよ、実力」
トーマは当然のように言った。
「おまえの計測精度は班で一番だし、論文の査読も帰ってくるの早いし、判断も早い。主任にならない理由のほうがねぇ」
アデルが頷いた。
「あなたは努力を続けた人よ。それは評価されていいこと」
セーレンはわずかに笑った。
「……ありがとう」
そんなセーレンに、3人は「お祝い」として小さな包みを差し出した。
「これ、僕から」
マルクが手渡したのは、革張りの細い工具入れだった。
「セーレン、いつも工具がそこらへん散らかってるでしょ。主任がそれやると威厳ないからね」
「……ありがとう。大事に使う」
「ほんとに散らかってるものね」
アデルがくすりと笑う。
「私からは、これ」
アデルが差し出したのは、薄い栞のような板。
中央国家の伝統文様が刻まれている。
「魔素反応で色が変わるの。読書のときに使って」
「きれいだ……ありがとう」
そしてトーマが袋を差し出した。
「はい、主任へ」
「……何?」
「開けろって」
中から出てきたのは、銀色のペン。
軽く、冷たく、細部まで美しい。
「おまえ、メモ取るとき、いつも文字をつぶす勢いで書くからさ。ちゃんとしたペン、一本持っとけ」
「……これ、高いだろ」
「気にすんな。お前が主任になった記念だよ」
セーレンはそのペンをしばらく見つめた。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
(僕のために、わざわざ……)
こんなふうに誰かに祝われたことは——ほとんどなかった。
気づけば胸が熱くなっている。
「……ありがとう。本当に、嬉しい」
「だよな!」
トーマが豪快に笑う。
マルクがぱちんと手を打つ。
「じゃあ、主任。今日の昼休みはセーレンの奢りでいいんじゃ?」
「は?」
「主任の初仕事だよ!」
「どんな初仕事だよ……」
それでもセーレンは笑った。
本当に、自然に。
その笑みを見ながら、アデルは少し目線を落とした。
羨望でも嫉妬でもなく——
(……良かった)
そう思うだけの、淡い影だった。
夕方。
4人は装置の再調整を終え、小休憩に入っていた。
アデルは書類をまとめ、マルクは機構部品の磨き直しをしている。
青い魔素灯の揺らぎが実験室全体を照らし、
セーレンの横顔にも淡い光を落としていた。
ふいに、セーレンがぽつりと言った。
「……アデルは、マルクと話してると楽しそうだな」
トーマは思い切り眉をひそめた。
「はあ?? おまえ、ほんっとうにズレてんな」
セーレンがきょとんとする。
「よく話してるし、視線も向いてる。視線には意味があるんだろ?」
「あのな……」
トーマは額を押さえた。
「アデルはさ、昔はおまえしか見てなかったぞ」
「……そうなのか?」
「4年前とか、わかりやすかった。お前の名前呼ばれるたびに顔赤くなってたし」
「言われたことはあるけど……そのあとも、わからなかった」
セーレンは少し目線を落とした。
指先が、机の上の紙をそっとなぞる。
「……わからないんだ」
「またそれかよ」
「わからないって言ってるんだから、わからないんだよ」
いつものように淡々と語られると思ったその声は、
どこか揺れていた。
「視線も表情も……“情報”じゃない。“揺らぎ”だ」
「揺らぎ?」
「計測不能ってこと」
「……」
トーマは吹き出し、肩を震わせた。
「ほんと恋愛向いてねぇな、おまえ」
「向いてなくていい。僕には関係ない」
「関係あるだろ、おまえにも」
「……あったとしても……気づけない」
セーレンの声は静かで、深かった。
その奥には、彼の誰にも見せない“底”があった。
そして——
ぽつりと、決定的な言葉が落ちた。
「……わからないってことが、怖いんだ」
トーマの手が止まった。
いつだって自分を隠しているセーレンが、
“恐怖”という言葉を口にするなんて。
セーレンは続けた。
「嫌われるのが……怖い」
その言葉には、冬の底のような静けさがあった。
誰にも見せなかった弱さが、ようやく呼吸をした瞬間だった。
「嫌われるのが……怖い」
セーレンがそう言った瞬間、トーマは一切の冗談をやめた。
椅子の背に寄りかかっていた姿勢を正し、
まるで“触れたら割れそうな何か”を扱うように、彼を見た。
(やっと……こいつは隠してた本音をみせてくれた)
5年。
観察、模倣、距離、沈黙、そして少しずつの信頼。
ようやく、セーレンは自分の「底」を誰かに見せた。
トーマはゆっくり、息をついた。
「……セーレン」
「なに」
「嫌われねぇよ」
「慰めは嫌いだ」
「慰めじゃねぇ。慣れただけだ」
「慣れただけ?」
「おまえが“わからねぇこと”に必死で向き合うところにさ」
セーレンは、少しだけ視線を上げた。
懐疑でも期待でもない。ただ、聞こうとする目だった。
「わかんねぇものを、わかろうとするだろ」
「……それは、仕事だから」
「仕事じゃねぇよ。おまえの生き方だろ」
セーレンは言葉をなくした。
トーマは肩をすくめるような軽さで言い足す。
「おまえのそういうとこ、俺は好きなんだよ。だから平気だ。嫌ったりしねぇよ」
あまりにも自然に言うから、
セーレンは逆にどう反応していいのかわからなくなった。
「……変な言い方するな」
「褒め言葉だっての」
トーマは笑った。
その笑いに、セーレンは肩の力を少し抜いた。
誰かに“嫌われない”と断言されることが、
こんなにも胸に響くとは思わなかった。
夕暮れの研究棟。
魔素灯が青い光を落とす廊下を、2人は並んで歩いていた。
「アデルってさ」
トーマがぽつりと言った。
「最近、落ち着いた顔してる」
「そう見えるか?」
「見える。……やっと手放しかけてんだろうな、あの片想い」
「……いいことじゃないか」
トーマは横目でセーレンを見る。
「気になるのか?」
「気にならないわけじゃない。でも……僕は、誰かの気持ちに気づけるような人間じゃない」
その言い方はいつものように淡々としていたが、
どこか自嘲に近い響きがあった。
「でも」
セーレンは続けた。
「……誰かと並んで歩きたいとは思ってる」
トーマは思わず歩みを緩めた。
(……成長したな、こいつ)
昔のセーレンなら、決して口にしない言葉だった。
「立派じゃんか、それ」
「立派とかじゃない。ただ……そう思うだけで」
「恋じゃなくてもさ」
トーマは夜風を吸い込みながら言った。
「おまえが誰かと一緒にいて、ちゃんと呼吸できるなら、それでいいんだよ」
セーレンは目を細め、空を見上げた。
薄い雲が魔素灯の光を散らし、青白い影をつくっている。
「……わからないことが多いな」
「わからないままでいい。
わからないってのは、生きてるってことなんだから」
その言葉は、雨上がりの空気みたいに胸にしみた。
少し間を置いたあと、セーレンは静かに口を開いた。
「……いつか、わかるようになりたい」
その声は祈りに似ていた。
幼い頃、聖堂で唱えた祈りとはまるで違う。
もっとささやかで、もっと切実で、
もっと“人間”の声だった。
寮に戻ると、夜の風が廊下を抜けていく音がした。
セーレンは部屋の明かりをつけず、机に座る。
新しく贈られた銀のペンを取り出し、紙を広げた。
——今日は、嬉しいことが多かった。
——主任任命を祝ってくれた。
——アデルの栞は光がきれいだった。
——マルクの工具入れは、使いやすい。
——トーマのペンは、手に馴染む。
——誰かと一緒にいて、ちゃんと笑えた。
——人の気持ちは、やっぱりわからない。
——でも、並んで歩きたいと思った。
——今日は、楽しかった。
文字はゆっくりと、けれど迷いなく紙に刻まれていく。
理論も構造もない、ただの「今日の記録」。
けれどそのどれもが、今のセーレンにとっては大事な証拠だった。
ペン先から生まれる言葉を見つめながら、
セーレンはふと、手を止めた。
「……明日も、こうだといいな」
ふと思っただけの小さな願い。
けれどそれは、彼がまだ名前を持たない“祈り”だった。
窓の外で、春の風がそっと吹いた。
青い魔素灯の光が揺れ、紙に淡い影を落とす。
——この季節が、ずっと続けばいい。
そんな想いを胸に、セーレンはゆっくりと目を閉じた。
【お知らせ:更新ペース変更について】
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
次回(3章7節)より、年内は週4回更新に変更します。
【更新曜日】
火曜・金曜(従来通り)+ 土曜・日曜(追加)
【理由】
次章(第Ⅳ章)は、セーレンが精神的に孤立し、
空洞化していく過程を描きます。
正直に言うと、年内いっぱい鬱々とした展開が続きます。
そのため、できるだけ早く完結させて、
年明けに新しい章(第Ⅴ章)をお届けしたいと考えました。
【今後の流れ】
12月中:第Ⅲ章完結 → 第Ⅳ章完結
1月初旬:第Ⅴ章開始(舞台が変わります)
暗いトンネルは短めに抜けます。
もう少しだけ、セーレンと一緒に歩いていただけると嬉しいです。
次回更新:12月6日(土曜)
第Ⅲ章第7節「異端者の谷」




