第5節 青の季節
春の雨は夜明け前に止んでいた。
セーレンは朝の空気を吸い込みながら、冬のあいだ凍りついていた空気は、少しだけ柔らかく土の香りがしていた。
研究棟の窓辺に立つと、街は薄い金色の光に包まれていた。
ひび割れた石畳の隙間から芽吹く草が、春の訪れを告げている。
いつもの研究棟の空気なのに、どこか新しい世界に足を踏み入れたようだった。
計測器の針を見つめながら、セーレンは思った。
(ああ、ここにきてもう二年が経つのか。)
「なあ、今週末さ」
実験台の下から、不意にトーマの声が飛んできた。顔と工具が同時に出てくる。
「うちの実家に来いよ。」
いつも通りの無造作な笑みである。
セーレンは計測を止めて顔を上げた。
「……なんで?」
「家族が中央国家から戻ってくるんだよ。ほら、おまえ、ずっと中央国家の話聞きたがってただろ? 今回は向こうの“魔素仕込みの細工物”もいろいろ仕入れてくるらしい。」
トーマはどうよ?と得意気だ。
「見たい!」
答えるより早く、胸の奥から声が滑り出ていた。
トーマが満足げに笑う。
「だろ? ついでに飯も食おうぜ。弟どもがちょっと騒がしいけどな」
「トーマそっくりってことか」
タオルが飛んできた。
セーレンはそれを受け取りながら笑った。
「昼だぞ、昼。予定、空けとけよ。——昼飯な」
トーマも笑いながら実験台の下に潜っていった。
週末。
帝都の住宅街は、春の花の匂いで満ちていた。
窓辺の植木を揺らす風は小さな鈴のよう。
石畳の路地は陽を反射し、通り過ぎる車輪の音すらやわらかだ。
小さな家々の間を抜け、木の扉を叩く。
「おかえり、トーマ!」
明るい声が弾んだ。
台所からパンの焼ける匂い。
奥では誰かが走り回り、子どものはしゃぐ声が重なる。
「兄ちゃん、この人だれー!」
「俺の友達だよ。頭はいいけど、ちょっと変なやつ。」
「あなたがセーレンくんね、いらっしゃい。トーマの“友達”が家に来るなんて初めてよ。」
”友達”
その言葉が、胸の奥のどこか柔らかい部分をそっと撫でた。
自分はてっきり、トーマの社交性で“誰でも声をかけている”のだと思っていた。
だが、違うらしい。
トーマにとっても、自分は特別な“友達”なのだと、ゆっくり理解が落ちてくる。
席に着くと、スープの香りがふんわりと広がった。
「うちは神より飯を信じる家だから、祈りはなしな。」
父親が赤いワインを注ぎながら言う。
「父さん、それ帝国で言うなよ。」
「いいじゃないか。腹の減った奴に説教する神官より、腹を満たすパン職人のほうがよっぽど神に近い。だろう?」
トーマが横目でこちらを見る。
セーレンは、トーマの顔に思わず笑った。
「空腹じゃ説教も聞こえないしな」
「ほら見ろ、学者さんがそう言ってるぞ」
トーマの父は嬉しそうに笑う。
トーマの母はスープの器を並べながら、ふわりとした声で言った。
「あなた、難しい顔してるけど、うちじゃ考え事は禁止よ。食べるのも仕事のうち。」
セーレンはスープに口をつけた。
この家はまるでトーマみたいだ。
どこにも“祈り”の気配はないのに、ここにはきちんとした“生活の温度”がある。
信仰がなくても、理屈がなくても、世界を信じている人間がいる。
それを身体の奥で初めて知った。
食卓では、中央国家からの交易品の話が弾んだ。
帝国では見ない新しい技術ばかりだ。
「この細工、魔素を微量循環させるんだって!」
「お前、専門外でも目が光るんだな……」
「こういうの好きなんだ!」
トーマが肩を揺らして笑う。
「学者さんのお墨付きなら、売れ行きも期待できるな。」と、トーマの父。
「俺も“学者さん”で今朝褒めたはずなんだけど」とトーマが笑い、また全員が笑った。
笑い声の中で、セーレンはふと気づいた。
(この家には、沈黙がないんだ。)
その全部が、「ああ、自分は人間の世界で生きてる」と実感させた。
家を出ると、夕暮れの空気は少し冷たかった。
トーマが口笛を吹きながら歩く。
「母さん、おまえ気に入ってたぞ。“真面目なのに人間くさい”って。」
「褒め言葉かそれ。」
「褒め言葉だよ。」
「……そんなに僕、笑ってたか?」
「笑ってた。弟にパン取られた時。」
「怒ってたんだよ。」
「そうかよ」
トーマはまた笑った。
その瞬間、セーレンの胸の奥で、何かがふっとほどけた。
今日、自分は、いつの間にか気を張るのをやめていた。
人と話すたびに
(今の言い方は正しかったか)
(表情は不自然でなかったか)
(相手を不快にしなかったか)
そんな“反省会”を脳内で始めてしまうのが、いつもの自分だった。
けれど、今日は。笑ってたんだ。
頑張らなくても、人間らしく振舞える自分がそこにいた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
自分という存在が、誰かの家の食卓に
“自然な形”で置かれていたという事実が——
理屈では説明できないほど嬉しかった。
トーマはセーレンの沈黙に気づき、横からのぞき込む。
「……なんだよ、その顔。」
「なんでもない。」
「うそつけ。なんか考えてただろ。」
「……少しだけ。」
「少しでも考えすぎなんだよ、おまえは。」
トーマが笑う。
セーレンもつられて、ほんのわずかに口元をゆるめた。
春の夜風が二人の影を揺らしながら、静かに通り過ぎていった。
翌週。
昼の光が研究棟のガラスを照らす。
アデルとマルクが机にパンを広げており、
トーマは器具の調整、セーレンは報告書の整理をしていた。
アデルが微笑む。
「セーレン、この前の休み、トーマの家に行ったんですって?」
「うん」
「どんな感じでした?」とマルク。
「うるさかった」
アデルが吹き出す。
「あなたの“うるさい”って褒め言葉でしょ。」
「どういう意味?」と不思議そうなマルクに、
「トーマそっくりで大好きってこと」とアデルが笑う。
「勘弁してくれよ」とトーマが割り込む。
「母さんが言ってたぞ。“あの子、いい嫁さんもらえる”って」
「……どういう理屈だ」
「几帳面で気が利く男は家庭が回るんだとさ」
「気が利く? だれの話だよ」
「おまえの話だよ」
「意味が分からない」
その言い方はあんまりにも困惑していた。マルクが笑って肩を叩いた。
「セーレンさん、顔赤いですよ!」
「……うるさい。」
その様子を、セーレンの様子を、アデルは笑いながら見ていた。
その日の帰り道。
春の雨の残り香が大気に混じっていた。
通りに小さな水たまりが月の光を拾う。
トーマがぽつりと言う。
「なあ、アデル、おまえのことずっと見てたぞ。」
「なんで?なんか変なこと言った?」
「そういうんじゃねえよ。好意とかそういう方の話」
セーレンは少し考え、首をかしげた。
「彼女、マルクとよく話してる。」
「おまえな……観察するくせに、肝心なとこ見てねぇんだよ。」
トーマが飽きれたように笑った。
「どういう意味だ。」
「視線ってのは、言葉より正直だって話だよ。」
セーレンはしばらく考え、それから淡々と返した。
「じゃあ、トーマの気持ちが、あの貸本屋の隣の店の子に伝わらないのは、視線の向け方が悪いんだろうか。」
トーマが盛大に吹き出した。
「なんで知ってんだよ!」
耳まで赤くなっている。
「最近、毎日のように貸本屋に通ってるだろ、そんなに本、読んでもないのに。」
「俺を観察対象にするなよ……」
「職業病だ」
「おまえほんと、たまに刺してくるよな」
嘆きと笑いが混じった声に、セーレンは肩をすくめる。
「お前が教えたんだよ。“感じたことを言っていい”って。」
トーマはぽかんと口を開け、それから吹き出した。
「あーもう! そりゃ……俺が悪ぃよ。」
二人の笑い声が石畳にこだました。
その夜。
寮に戻ると、窓の外では魔素灯の青が雨粒を照らし、街の輪郭を淡く揺らしていた。
セーレンは机に座り、使い終わったノートを手に取った。
パラリ——とめくると、
そこにはかつての日々の記録があった。
実験の計算式。
観察記録。
師と交わした短い会話。
紙の端に残る別の筆跡。
ページを閉じる。
深く息を吸う。
——それ以上は、見ない。
彼は新しいノートを開き、ペン先を落とした。
「今日も、楽しかった。」
「人と話すのは、まだむずかしい。」
「でも、出来た。たぶん、もっと出来る。」
「……トーマの言う“視線”はよくわからない。」
そのまま静かにペンを置いた。
この部屋の空気は、雨の匂いと紙の匂いで満ちている。
息をすると、胸の奥がゆっくり温まっていく。
灯を落とすと、外の雨光が揺れた。
セーレンは目を閉じ、
(ああ——この日々が、ずっと続けばいい)
胸の奥で静かに灯るものがあった。
それが理でも、信仰でもなく、
ただの“生活の光”だと、このときはまだ知らなかった。




