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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第3章 白衣の楽園

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第3節 理の呼吸

 昼過ぎの研究棟は、雨の匂いに包まれていた。

 午前の実験を終えた班員たちは、器具を洗い、魔素灯を調整し、

 それぞれの席でコーヒーをすする。

 ガラス越しの中庭では、雨粒が青白い灯に照らされ、

 音もなく石畳に吸い込まれていた。


 セーレンは、その光景を少し離れた窓際から見ていた。

 同僚たちが笑いながら談笑している。

 実験の愚痴、主任の癖、昼食の味。

 どれも他愛もない会話。

 (……どう返せばいいのか、わからない)

 何を話すべきか考えるより早く、手が動いてしまう。

 観察と分析が先に出る。

 気づけば、また一人で窓際に立っていた。


 魔素灯の青い光が、雨の粒をきらめかせている。

 石畳には薄く霧が漂い、空気はしっとりと冷たかった。


 中庭のガラス越しに立つセーレンを、トーマは見つけた。

 白衣の袖を肘までまくり、夜空を見上げている。


 (また一人で……あの癖、ほんと変わってんな)


 声をかけるか迷った末、トーマは軽く咳払いをした。

 「おい、観測は勤務時間外だぞ」


 セーレンが振り向く。

 目の奥に反射する魔素灯の光が、灰銀に揺れた。


 「……魔素灯の揺らぎを見てました。

  季節や天気、気温などによって揺らぎ方に変化があるんです」


 「ほう? 初めて聞いたな?」


 「……まだ、理屈にはできませんが。」


 言いながら、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。

 その仕草が、トーマには意外に幼く見えた。


 (へぇ、こんな顔するんだ)


 「理屈にできない、って言葉が出るのが意外だな。

  おまえ、理屈の塊みたいな顔してるのに」


 セーレンは肩をすくめた。

 「理屈にできないものを、理屈にしたいんです」


 「やっぱりそう来るか」

 トーマが笑った。からかうようでいて、どこか嬉しそうだった。


 「おかしいですか」


 「いや、違ぇよ。……わかんねぇ感じが、なんか楽しいな」


 セーレンがわずかに目を見開いた。

 理解されないことが、拒絶ではなく“楽しさ”で返ってくる——

 その感覚が、胸の奥を小さく揺らした。


 彼は思わず視線を逸らしたが、

 その横顔には、初めて“硬さ”のない線が宿っていた。


 少しの沈黙。

 青白い灯が二人の影をぼんやりと重ねた。


 「……で、あなたは?」

 「ん?」

 「今の研究テーマです。ここに残ってるってことは、何かやってるんでしょう?」


 「ああ、俺か。……魔素の“呼吸”を調べてる」

 「呼吸?」


 「そう。魔素って、常に揺らいでるだろ?

  でもその揺らぎの周期が、地域とか温度で変わるんだ。

  人間の呼吸や心拍に近いリズムを持ってる場所がある。

  それを“生きてる土地”って呼んでるやつがいてさ」


 セーレンの瞳がわずかに光を増した。

 「魔素の局所周期が、生命活動と同期する……

  それが安定性に影響する可能性がある、ということですか?」


 「お、おう。そこまで考えたことなかったけど……

  たぶん、そういうことなんだろうな」


 「それは面白い」

 セーレンの声に熱がこもる。

 雨の匂いと混じって、言葉が少し震えていた。


 「今までは“人が魔素に適応する”ことばかり考えてましたが、

  逆に、“魔素が人に呼吸を合わせている”可能性がある。

  それなら、治療や術式の反応時間にも説明がつくかもしれない」


 トーマは口を半開きにしたまま、しばらく見つめていた。

 (……目が、光ってる)


 「……おまえ、ほんとに食いつき早いな」


 「すみません、失礼でした」


 「いや、逆だよ。

  理屈ばっかのくせに、目が生き物みたいに動くのが面白い」


 セーレンは固まった。

 「……意味がわかりません」


 「わかんなくていい。そういうの、可愛いって言うんだ。

  ほら、今みたいに首傾げるとことか」


 「観察、やめてください」

 「職業病なんで」


 セーレンが顔をそむけた。

 その小さな返しに、トーマは笑いを噛み殺した。

 声に出すと壊れてしまいそうだったから。


 (ああ、やっと見えたな。

  この人間らしい反応を、最初から見ればよかった。)


 青い灯の下、彼はそっと息をついた。


 「なあ、セーレン」

 「……なんですか」

 「いつまで“です・ます”で話すつもり?」


 「え?」

 「同期だろ、俺たち。堅すぎると息が詰まる」


 セーレンは少しだけ考え、

 その後、短く息を吐いた。


 「……わかった」


 「お、今“わかった”って言ったな。進歩だ」


 セーレンは顔を背けた。

 だが、その仕草がもう、完全な拒絶には見えなかった。


 雨上がりの空に、星がひとつ、滲むように瞬いていた。

 その静かな光の下で、ふたりの間にようやく——

 理屈では測れない、小さな温度が生まれていた。

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