第2節 氷の扉
研究棟の朝は早い。
魔素灯の青い光が、金属の床を薄く照らしていた。
トーマは手帳を片手に、班の新入りを待っていた。
扉が開く音。
振り返ると、見慣れない青年が立っていた。
灰銀の髪。淡い瞳。
姿勢がよすぎて、息苦しいほど。
「……セーレン・エルンストです。今日から第七局で。」
「おう、噂の新人か。」
トーマは笑いながら手を伸ばした。
「俺はトーマ。ま、よろしくな。」
「よろしくお願いします。」
握手は軽い。温度を感じない。
それでも指先の動きがやたら丁寧で、無駄がなかった。
——ああ、完璧だな。
トーマは一瞬で見抜いた。
このタイプは“穴”がない。
だからこそ、どこを掘れば水が出るかを探したくなる。
「で、出身は?」
「ヒンメルランドです。」
「遠いな。あっちは寒いんだろ。」
「はい。凍ります。」
「そりゃあ大変だ。」
「……はい。」
会話が途切れた。
トーマは苦笑する。
——壁、高ぇなぁ。
まるで、雪原の中の小屋みたいだ。
近づいたらすぐ閉まるドア。
セーレンが科学班に入職してから3日。
研究室ではそれぞれが黙々と計測やデータ処理を行っている。
セーレンに与えられた作業台のすぐ横で、
圧力計の針が、わずかに跳ねた。
あの動きは危険信号。装置の逆接続。
あと三秒で臨界。
「主任、圧が——」
言いかけた瞬間、主任は別の補助員に指示を飛ばしていた。
声を上げても、届く見込みはない。
説明して納得を得るより、先に手を動かすしかない。
スイッチを切り、冷却弁を反転。
圧が抜ける音がした。空気が沈黙する。
次の瞬間、主任が振り返る。
「……今、切ったのは誰だ?」
「僕です。」
手の震えを見られないように、指先を袖で覆う。
主任は一度だけ計器を見やり、短くうなずいた。
「助かった。だが、勝手に触るな。」
「……はい。」
ほっとする声と、ざわつく視線。
「言えばよかったのにな」「あいつ、命令無視だろ」
誰かが小声でつぶやく。
胸の奥に、冷たい石が落ちた。
言っても、きっと間に合わなかった。
言えば、「信じられない」と返されたかもしれない。
——だから、行動した。それだけ。
(次は、もっと正確に。もう二度とこんな空気にはしたくない)
静かに後片付けを始める。
ネジを拾い、パネルを拭き、記録用紙に日付を記す。
余計な言葉を挟むと、誰かの責任を掘り起こす。
だから沈黙を選ぶ。
そのとき、斜め後ろから声がかかった。
「……セーレン、だっけ。」
振り向くと、赤茶の髪の男が腕を組んでいた。
トーマ。
初日に握手したときの温度を思い出す。
熱くも冷たくもない、"測ってくる手"。
「おまえの判断、正しかった。」
「……そうですか。」
「でも、次からは叫べ。“止める”だけでいい。」
「わかりました。」
短く返すと、トーマが口角を上げた。
「おまえ、ほんとに“それだけ”で済ますんだな。」
笑いが、刃物の背のように滑る。
傷はつかないが、肌が粟立つ。
その笑みの奥に、“観察者”の目がある。
(値踏み、された)
頭では理解している。
誰もが初対面の相手を測るものだ。
けれど——それが“職業的な癖”ではなく、“人の値”を決める目”に見えたとき、
扉は自然に、閉まる。
冷たい音。
ヒンメルランドの雪が、心の奥に積もる。
「……失礼します。」
セーレンはそれ以上言わず、工具を持って実験室を出た。
扉の閉まる音が響く。
それは金属音というより、“心の蝶番が凍る”音に近かった。
あの青年——セーレン。
部屋を出ていったあと、空気がひどく静かになった。
主任の叱責も、雑音も、いつもなら半日で風化するのに、
今日は妙に残る。
データ整理をしながら、さっきの一瞬を思い返す。
「わかりました」
「そうですか」
あの平坦な声。
怒りではない。熱がなかった。
——閉じた、と思った。
(……やらかしたな)
完璧で、隙のない青年。
だからこそ、見たかった。
何を考え、何を怖れるのか。
どんな歪みを持っているのか。
気づけば、彼の中を“覗こう”としていた。
商人の家に生まれた自分にとって、人を見ることは呼吸のようなものだった。
値踏み、計算、打算。
誰にどんな言葉を使えば場が和らぐか。
誰に何を見せれば信頼を得られるか。
人の感情を測るのは、仕事であり、生きる術でもあった。
けれど、あの目。
“測られた”と悟った人間の目。
あれは、冷たさではなく、痛みだった。
胸の奥を針で刺されたような痛み。
(……なんて顔、させたんだろう)
無意識に、手の中のペンを転がした。
落とした音が乾いた。
指先がじっとりと汗ばんでいる。
(俺、いま……恥ずかしいんだな)
こんな気持ちは久しぶりだった。
怒られた時の恥じゃない。
「自分の小ささを見透かされた恥」だ。
父に商売を教わった時、よく言われた。
「人の心は秤みたいなもんだ。
重すぎても軽すぎても、傾く。
上手く釣り合わせろ。利益はそこに落ちる。」
——それが“生き方”になっていた。
人の機嫌を測り、場を均すことで、誰も傷つかない。
そう信じていた。
けれど今、初めて思う。
自分が均してきたのは、他人じゃなく、自分の良心だったのかもしれない。
主任が退室し、廊下が静まり返る。
トーマは二つ、コーヒーを淹れた。
ただ、もう一つの湯気が欲しかった。
やがて、扉の向こうに足音。
セーレンが戻ってきた。
手には、改訂済みの手順書。
誤りは完璧に修正されている。
彼は無言のまま書類を置き、トーマの方を見なかった。
「次の再試験で使用してください。」
「……ありがとな。」
「必要なことです。」
そのまま、扉の方へ歩き出す。
背中が細く見えた。
寒さではない。孤独が、彼の肩に降り積もっている。
トーマは咄嗟に呼び止めた。
「おい、セーレン。」
立ち止まる影。
「今日は……助かった。ほんとにな。」
わずかに、首が動いた。
返事はない。
けれど、その一瞬の呼吸に“生きた体温”があった。
——拒絶は、完全じゃない。
拒絶できるほど、近づいていたのかもしれない。
コーヒーをひと口。
冷めていた。
だが、不思議と苦くなかった。
机に肘をつき、天井を仰ぐ。
(あいつは、俺がずっと無駄だと思ってたものを持ってる)
理屈に忠実で、誠実で、まっすぐで。
そんなものじゃ飯も食えないし、人間関係もうまくいかない。
そう思っていた。
けれど、今日初めて感じた。
その“理への誠実さ”が、人を救うこともあるんだと。
(……だから、眩しいんだ)
トーマは苦笑した。
その笑いは、自己防衛でもなく、少しだけ温かかった。
(あいつのことを、もっと知りたい)
今度は、勝手に測るんじゃなくて。
言葉を待って、沈黙ごと受け取って——
ちゃんと“人として”知りたい。
初めから友人になればよかった。
笑いの一つでも渡せばよかった。
トーマはセーレンに“申し訳なさ”を感じた。
そしてもうひとつ——
“自分が変わりたい”と、心の底で思った。
コーヒーの湯気は消えていた。




