第1節 雪解けの理
“Despair is to will to be oneself without wanting to be in relation to God.”
「絶望とは、神との関係において存在することを望まず、神なしで自己であろうとすることだ。」
(『死に至る病』)
冬の終わりの風は、冷たいというよりも柔らかかった。
屋根の雪が少しずつ溶け、朝の光の中で小さな滴を落としている。
セーレンはその音を聞きながら、久しぶりに窓を開けた。
空気は薄く澄んでいて、遠くで鐘の音がかすかに揺れている。
帝国首都の街並みは、白い屋根の下に静かに息づいていた。
暖炉の前では、ルドルフが小さな部品を磨いていた。
指先で歯車を回し、光にかざして唇の端を上げる。
「見ろ、なめらかだろ。冬のあいだにこれだけ動けば上等だ。」
その声が、家の空気を軽くした。
金属の音とパンの焼ける匂いが、静かな朝に混じり合う。
「あなたね、朝食の前から工具箱広げて。」
台所からエレナの声がした。
「せめてパンくらい食べてからにして。」
「悪い悪い。こいつが気になって眠れなくてな。」
ルドルフは照れ隠しのように笑い、歯車を掌の上で転がした。
セーレンは静かにそれを見つめていた。
(どうしてこの人は、こんなにまっすぐに生きられるんだろう。)
そんな思考を遮るように、エレナが声をかけた。
「セーレン。春の試験、受けてみたらどう?」
「……試験?」
「帝国科学班の。あなたなら通るわ。」
ルドルフが工具を置き、いつになく真面目な声で言った。
「そうだ。理屈で人を動かせるやつは少ない。お前ならやれる。」
セーレンは一瞬、答えられなかった。
胸の奥が、少し軋んだ気がした。
「僕が……科学班に?」
「嫌か?」
「いえ……ただ、少し怖いです。」
「怖いのは当たり前さ。でもな、動かなきゃ何も変わらん。」
ルドルフは笑って、手を叩いた。
「ほら、あのヨアヒムの甥だ。学びの場に戻らなきゃ、あの人に叱られるぞ。」
セーレンは小さく笑った。
その笑みは、久しく忘れていた種類のものだった。
——だが、夜になって独り机に向かうと、胸の奥に沈むものがあった。
ヨアヒムは今も“異端の科学者”と呼ばれ、白衣会の名は市井の嘲笑の的だ。
その弟子だった自分を受け入れ、保護してくれた夫妻に、これ以上の負担をかけるわけにはいかない。
(帝国科学班の門を叩くということは、また“理”に戻るということだ。)
その理が、師をどこへ導いたかを知っているのに。
それでも朝になれば、手は自然に動いた。
机の上のノートを開き、昨日の計算の続きを書く。
目の前に並ぶ文字列は冷たく、しかしどこか懐かしかった。
ペン先が紙を走る音だけが、自分の存在を確かめてくれる気がした。
市場に出ると、通りはもう春の準備で賑わっていた。
露店では種子や新しい布が並び、子どもたちが粉雪を蹴って走り抜ける。
セーレンは工具の部品を買いに立ち寄ったが、名を告げると店主の顔が曇った。
「……エルンスト? 白衣会の?」
その一瞬の沈黙を、彼はもう慣れたように受け流す。
「ええ。今はルドルフ・ヴェルナーの家でお世話になっています。」
「……そうかい。気をつけな。」
その言葉には忠告とも、距離ともつかない響きがあった。
(やっぱり、まだ“異端”なんだ。)
彼は紙袋を抱えたまま、吐息をひとつ漏らした。
通りの陽光は明るいのに、胸の奥はまだ冬のように重たかった。
春の試験まで、あと三か月。
ルドルフは夜になると、古い科学班の資料を引っ張り出してきた。
黄ばんだ紙束を机に広げ、セーレンの隣に置く。
「これは昔、帝都で使われてた圧力機構の設計図だ。まだ未完成だがな。」
「……魔素圧の流れを制御すれば、熱損失を抑えられます。」
「いいぞ、その考え方だ。さすが、あの男の弟子だ。」
“あの男”。その言葉が胸に刺さる。
帝都では、ヨアヒムの名を口にする者はもうほとんどいない。
ルドルフの口調だけが、過去を恐れずに発する明るさを持っていた。
それが救いでもあり、痛みでもあった。
そんな晩が続くうちに、家の中の空気も少しずつ変わっていった。
夜遅くまで二人が図面にかじりついていると、階下から足音が響く。
「二人とも。ご飯は食卓で食べるのよ。」
エレナの声には呆れと優しさが混じっていた。
「悪い、今いいところなんだ。」
「“いいところ”を毎晩聞くのも飽きたわ。スープが冷めるの、理屈じゃ説明できないでしょ?」
セーレンは慌てて筆を置き、立ち上がった。
「……はい。」
「その“はい”が信用できないのよ。」
エレナはそう言って、皿を並べる。
香草のスープの湯気が、部屋を包んだ。
ルドルフは椅子を引き、手を拭きながら言った。
「ほらな、家も研究も、手入れしないと冷えるんだ。」
エレナは笑いながら肘で彼の脇腹を軽くつつく。
「誰のせいかしらね?」
セーレンは二人のやりとりを見つめ、ふと胸があたたかくなった。
(理では救えないものを、この人たちは守っている。)
食後、ルドルフはまた机に戻った。
手を動かすたびに、机の上で小さな火花が散る。
セーレンは隣で紙に線を引きながら、ぼそりと呟いた。
「……もし僕が帝国に戻って、何かあっても、迷惑は——」
「心配するな。」
ルドルフは顔を上げずに言った。
「お前の未来が迷惑になるなら、俺たちはとっくに手を離してる。」
エレナが紅茶を注ぎながら微笑んだ。
「ねえ、セーレン。私たちは信じることより、支えることの方が得意なの。」
その言葉が、やけに静かに響いた。
夜。
セーレンは暖炉の前でノートを開き、そっと息をついた。
書きかけの計算式の下に、ふと小さく書き足した。
“理に戻るのではない。
もう一度、理を“正しく使えるか”を確かめたい。”
その一文を見て、少しだけ笑った。
答えはどこからも返らなかったが、胸の奥の冷たい場所がわずかに緩んだ。
外では、溶けかけた雪が音もなく落ちていた。
その滴のひとつひとつが、春の前触れのように思えた。




