第9節 沈黙の街
朝刊は、まだ冷たいインクの匂いがした。
ルドルフがパンをちぎりながら読み上げる。
「〈奇跡研究部門、活動停止。全資料は教会の監督下に〉——だとさ」
その声には感情がなかった。
ただニュースを読み上げる調子だった。
だが、その後に続いた言葉には、かすかな苦味があった。
「“神罰が下った”ってさ。
白衣会が神を汚した、だと。まるで疫病扱いだ。」
紙面の下には、短い記事が並んでいた。
〈信仰を逸脱した一部の科学者、処分〉
〈教会、清浄の儀を再開〉
〈人々に平穏を——〉
エレナがため息をつく。
「怖いわね。誰かを罰しないと、安心できないのかしら。」
ルドルフは新聞を折りたたみ、テーブルに置いた。
「人は、自分の手で世界を直すより、神が壊してくれた方が安心するのさ。」
「信じていれば救われる——それは嘘じゃないけど、考えなくて済む救い方ね」
エレナの声は、冷たい湯気のように淡かった。
セーレンは黙って紙面を覗き込んだ。
活字の黒が、やけに濃く見えた。
〈奇跡研究部門、活動停止〉——
それは、師の残した世界が完全に消えたという知らせだった。
文字が滲み、遠くの音がひとつ減ったように思えた。
外に出ると、通りでは人々が白衣会の話をしていた。
「神罰だ」「当然だ」「研究者は傲慢すぎた」——
誰もが他人事のように語りながら、
自分の暮らしへの不満を重ねていた。
「ほら見ろ、ああいう知識人はろくなことをしない」
「神の御心に触れようなんて、罰が当たるに決まってる」
「教会が止めてくれてよかったよ」
彼らの言葉には恐怖よりも安堵があった。
教会が罰を与えたことで、
世界が再び“安全な場所”になったと信じたかったのだろう。
だが、次の瞬間には、話題はもう別の不満へと移っていた。
「最近じゃパンの値も上がる一方だ」「聖女が現れないからだよ」
「奇跡があれば畑も潤うのに」「科学者は祈るより数字ばかり弄ってる」
「どうせ神に背いた罰だ。なら、神に頼むしかないさ」
信仰は彼らの支えであり、同時に愚痴の理由でもあった。
白衣会の解散は、彼らにとって恐怖の終わりではなく、
“自分たちの暮らしが報われなかった理由”の代弁のように聞こえた。
——神が罰したのではなく、人が安心するために罰を望んだ。
そう思うと、セーレンの胸の奥に冷たいものが落ちた。
彼らの声を聞きながら、セーレンはふと考えた。
(不満を言う以外にも、できることは山ほどあるのに)
隣国のように耕作地を増やすとか、
干ばつに強い穀物を探すとか、
品種改良に乗り出すとか——
あるいは、魔素を燃料にした小型炉を使えば、
寒冷地でも作物は育てられる。
商人と協力して新しい需要を探すことだってできるはずだ。
祈ることも悪くないけれど、
それだけで世界が変わるわけじゃない。
(みんな、どうして現状に文句を言うんだろう)
努力をしてこなかった結果なのに。
いや、責めるつもりはない。ただ、理解できなかった。
自分がもし貧しい農村に生まれていたとしても、
きっと何かを学ぼうとしただろう——そう思えてしまう。
それは傲慢かもしれない。
けれど、彼にはそれ以外の想像ができなかった。
同じ年頃の子たちは、恋や友情を深めていた。
セーレンはただ、学問を選んだ。
きっと彼らは“青春”を、彼は“理”を選んだのだ。
自分が人間関係に不器用なのは、
人間そのものを観察対象にしてしまったからかもしれない。
だから、たまに誰かに「羨ましい」と言われると、困ってしまう。
どこを羨むのかが、わからなかった。
——まあ、今の自分を羨むようなやつなんか、居ないだろうけれど。
彼はいま、帝国首都の外れ——ルドルフ・ヴェルナーの家に暮らしている。
ヨアヒムの旧友で、科学班の技術職を務める男だ。
背が高く、髭面で、笑うと腹が揺れる。
声が大きく、どんな場でも明るかった。
その温かさは、人を選ばない。
ルドルフは、そういう人間だった。
昼、ルドルフは科学班へ出勤する。
夕方に帰ってくると、必ず工具を取り出し、机に向かう。
「置時計はもう古い。今度は腕時計だ」
そう言って、魔素を通した工具を扱う大きな手は、驚くほど繊細だった。
「動かすんだよ。何かを生み出すのは楽しいんだ」
笑いながら、歯車を合わせる姿はどこかヨアヒムを思わせた。
セーレンはその横顔を見つめながら、言葉を飲み込んだ。
——理が沈黙しても、手は止まらない。
それが、ルドルフという人間なのだ。
エレナはそんな夫を見て笑った。
「セーレン、あなたが来てからあの人、ちゃんと食卓に座るようになったのよ」
「僕が……ですか?」
「ええ。誰かが待ってると、まっすぐ帰ってくるんですって。
単純でしょ、男の人って」
セーレンは苦笑し、黙って皿を並べた。
彼は仕事もなく、自然とエレナの手伝いをするようになっていた。
包丁を握る指先に、師の手の記憶が重なる。
(どうして、あの人は僕を置いていったのだろう)
ふと、そんな思いが胸を掠める。
切った野菜が静かに水の中に沈む音が、やけに大きく聞こえた。
夜。
ルドルフが階下で腕時計の試作を回していた。
「音を聞いてみろ、静かだろう」
セーレンが耳を近づけると、かすかな律動が響いた。
「……すごい。時間が、生きてるみたいです」
ルドルフは笑って針を回した。
が、すぐに動きが速まり、音が狂う。
「あっ、だめだ。歯車が一枚ずれたな。ま、いい。何度でもやり直せる」
ルドルフは再び部品をばらし、組み直し始めた。
セーレンはその背を見つめながら、呟いた。
「やり直せないこともありますよ」
「あるな」
ルドルフは工具を動かす手を止めずに言った。
「でも、やり直せることもある。
やり直せる間は、人間はまだ終わっちゃいない」
その言葉に、セーレンは何も返せなかった。
家の明かりが落ちたあとも、暖炉だけが赤く灯っていた。
セーレンは毛布に包まれたまま、ノートを開いては、すぐ閉じる。
書こうとする言葉が、すべて論理式になってしまう。
“理解”ではなく、“納得”が欲しいのに。
階下から、足音。
エレナがランプを持って現れた。
「まだ起きてたの?」
セーレンは軽く会釈した。
「……眠れなくて。」
「夜更かしすると、夢も逃げるのよ。」
そう言って、彼の向かいに座る。
ランプの灯が、セーレンの灰銀の瞳を揺らした。
「師匠のこと?」
彼は小さく頷いた。
「……置いていかれた理由は、わかってます。
でも、どうしても……」
そこまで言って、言葉が続かない。
胸の奥が、言語を拒んでいる。
「どうしても?」
エレナの声は穏やかだった。
「どうしても、納得できません。」
彼は両手で顔を覆った。
「置いていかれたのが……怖かったんだと思います。
あの人がいなくなった瞬間、
世界が急に、音を失ったようで。」
沈黙。
薪が小さく爆ぜた。
エレナはすぐには答えなかった。
やがて、膝に両手を置き、静かに言った。
「人を置いていく側も、同じよ。
音が消えるのは、どちらも。」
セーレンは顔を上げた。
「ヨアヒムが、そうだったと?」
「そう。あの人は、いつもあなたの話をしていた。
セーレンがこんなこと言った、セーレンはこんなことに気付くんだって。
あなたが来るまでは研究のことばかり話してたのにね。」
セーレンの唇が震えた。
「……それなら、なぜ。」
「生きてほしかったのよ。あなたに。」
「それが、あの人の理屈?」
「いいえ、あの人の祈り。」
火の粉が一瞬、弾けた。
セーレンは視線を落とし、堪えきれず、ひと筋だけ涙をこぼした。
「……泣くのは、久しぶりです。」
「人間はね、泣くのよ。」
エレナは立ち上がり、毛布を少し引き寄せて彼の肩を包んだ。
抱くのではなく、覆うように。
「さ、今夜はもう寝ましょう。
明日、雪が溶けるかもしれないわ。」
「……溶けたら、どうなりますか。」
「春になるのよ。」
セーレンは小さく笑った。
「それは、理屈ですか。」
「いいえ、生活のほう。」
エレナはランプの火を弱め、静かに部屋を出た。
毛布に包まれたまま、セーレンは天井を見上げた。
——春。
あの子たちは、今も聖堂で祈っているだろうか。
レイナも、笑っているだろうか。
もし、いつか聖女が生まれたら。
もし、奇跡がもう一度この世界に訪れるなら。
そのとき、師もきっと帰ってくる——
そんな子どもじみた思いが、胸の奥でゆっくりと灯った。
それは理でも信仰でもない。
ただの“願い”だった。
けれど、その願いが、確かに温かかった。
遠くで鐘がひとつ鳴った。
静かな音が夜を包む。
セーレンはその響きを、祈りのように聴いた。
そして——久しぶりに、息を吸えた気がした。




