第1節 灰の風
“The greatest hazard of all, losing one's self, can occur very quietly in the world, as if it were nothing at all.”
「もっとも恐ろしい危険――それは“自己を失う”ことである。そしてそれは、世界の中で静かに、何事もなかったかのように起こる。」
(『死に至る病』/The Sickness Unto Death, Part I, §1)
ヒンメルランドの冬は、風の音でできている。
雪が絶え間なく舞い、空と地の境が消え、世界全体が灰色の息を吐く。
その中で、人の営みは炉の火のように小さく、震えていた。
母の寝ている部屋には、灯がひとつだけ。
油の匂いと、煎じた薬草の甘く苦い香りが漂っていた。
外の風が壁を叩くたびに、炎が揺れ、影が伸びる。
セーレンはその光と影の間に座り、母の寝息を数えていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ――
それが途切れないようにと、息を潜めた。
母の頬には汗が滲み、手は冷たく、唇はかすかに紫を帯びている。
胸が上下するたび、かすれた喘鳴が漏れた。
慢性気管支喘息の悪化に肺炎球菌性肺炎が重なり、呼吸不全に陥っている――
カスパルには、症状の全てが理解できていた。
部屋の奥では、父のカスパルが薬を調合していた。
鍋の中で湯が静かに沸き、薬草の香りが濃く漂う。
アニス、スギナ、タイム、そして輸入した乾燥甘草。
古くからの処方だが、どれも理にかなった薬草ばかりだった。
煎薬は鎮咳と去痰の作用を持ち、喘息の発作を和らげる。
点滴も打ってある。
生理食塩水にハーブ由来の成分を加えた簡易的な輸液で、脱水を防ぎ、体力を支える。
この家には必要な薬は揃っていた。
どれも、父の知識と手で作り出せる範囲のものだ。
スリュム液――ヒヨスとバレリアンから抽出した鎮静薬も、準備されている。
薬は足りている。
それでも、効かない。
身体がもう、応える力を失っているのだ。
発作のたびに、寝室を温め、吸入器で薬草を焚く。
「あんまり喋るな」と言いながら、カスパルは背をさすってやる。
指先で触れるたびに、妻の呼吸の浅さが伝わる。
医学的には冷静に対応しているつもりでも、その沈黙の中には焦燥が滲んでいた。
「……まだ、間に合う。」
かすれた声が沈黙を破る。
セーレンはその言葉にすがるように立ち上がる。
「本当に?」
「今は信じるしかない。」
カスパルは母の額に手を置き、体温と脈を確かめた。
魔素の操作で体の循環を探る。
体内の血流や呼吸の乱れを感知し、滞った流れをわずかに整える。
それは祈りのように見えたが、祈りではない。
医学と理論に基づいた診察であり、最期まで諦めない医師の手技だった。
だが、その手の下で感じ取れる脈は、次第に弱まり、薄れていく。
魔素の感知に反応はなく、呼吸も細く、酸素の循環が追いつかない。
カスパルの眉間に刻まれた皺が深くなる。
薬も、技術も、すでに尽きていた。
残るのは、時間だけ。
「……神よ。」
カスパルは低く呟き、古い祈祷書を開いた。
それは信仰というより、医師がすべての手段を尽くした後に残る“支え”のようなものだった。
かつて人を救えると信じていた言葉を、
いまはただ、自分の心を保つために唱えている。
セーレンも、父の隣で膝を折った。
どう祈ればいいのか分からない。
それでも手を合わせた。
――助けてください。
――この人を奪わないでください。
――神さま、もし本当にいるなら。
言葉は頭の中でほどけ、風の音に混ざって消えた。
炉の火が小さくはぜる。
光が母の頬をかすめた。
そのわずかな赤みが、まだ生きている証のように思えた。
セーレンはその微かな熱を見逃さないよう、目を凝らした。
外では風が鳴り続けていた。
壁を擦る音、窓を叩く雪の音。
そのすべてが、まるで世界そのものが祈りを唱えているようだった。
灰の風――この地では、冬の初めに吹く死の風と呼ばれる。
しかし、少年の耳にはそれが“神の息”のように聞こえた。
「セーレン。」
父が呼ぶ。
「水を。」
彼は急いで盆を取り、氷のように冷たい水を汲んだ。
父が布を浸して母の額に当てる。
その動作は慎重で、愛情というよりも“儀式”のようだった。
「父さん、母さんは治るの?」
「……治るかどうかは、わからない。」
「でも、さっき間に合うって言った。」
「言ったな。」
「嘘だったの?」
カスパルは答えなかった。
その沈黙の中に、すべてがあった。
母の指が微かに動いた。
セーレンは息を呑む。
「ほら、今、動いた!」
カスパルの手も止まる。
しかし、それはただの反射のように、また静止した。
母の胸がわずかに上下し、次の瞬間、止まりそうになる。
セーレンは両手で母の手を包み込んだ。
「大丈夫、大丈夫だよ……。」
それは母にではなく、自分に言い聞かせる言葉だった。
カスパルは再び手を当てた。
血流を読み、呼吸を測り、胸郭の動きを確かめる。
何かを探すように、額に汗が滲む。
――それでも、脈は戻らない。
「父さん、お願い……!」
セーレンの声が震えた。
カスパルの指がわずかに止まり、その顔に深い影が落ちた。
「……祈れ。」
「もう祈ってる!」
「もっと、だ。」
カスパルは目を閉じ、息を整えた。
セーレンもそれに倣う。
父と子の祈りが重なり、炉の火の音が響く。
そのとき、母の喉から微かな息が漏れた。
わずかな音。
その一瞬の間に、部屋の空気が変わった。
炎がわずかに揺れ、光が強くなる。
母の胸が再び上下した。
セーレンは息を呑んだまま、手を強く握る。
「……生きてる。」
父は深く息を吐き、額を押さえた。
「持ち直しただけだ。」
「でも、生きてる!」
「そうだ。だが長くはもたない。」
カスパルは立ち上がり、棚の上に並ぶ薬瓶を見つめた。
どれも正しい処方であり、どれもすでに使い尽くしている。
それでも、効かない。
治療が正しくても、命が応えないことを、カスパルは知っていた。
外では雪が激しさを増していた。
灰の風が家を包み、世界を白く塗り潰していく。
セーレンは母の手を離さず、
その冷たい指先に、自分のぬくもりを押し当てた。
夜が更けていく。
父の影が炉の火に伸び、壁を覆った。
祈りと沈黙が交互に部屋を満たす。
世界の音が遠のき、残るのは母のかすかな呼吸だけ。
セーレンは祈りながら、初めて知った。
――祈りとは、何かを得るためではなく、
何もできないことを受け入れるための行為だと。
その夜、母はまだ生きていた。
息は浅く、光のように儚い。
それでも、確かにこの世にとどまっていた。
少年の祈りと、父の手の温度のあいだで。




