第8節 夜の残響
その週、白衣会の会議室には、いつになく人が集まっていた。
議題は「奇跡研究の進展」。
だが実際には、ヨアヒムのいないところで別の話題が進められていた。
「魔素適合値の上昇が鍵だ。」
「ヨアヒムの液体魔素理論なら、可能性がある。」
「ただし彼は、医療応用以外に使うつもりはないだろう。」
「ならば、彼を排除すればいい。」
その言葉を、誰も止めなかった。
科学者たちは、信仰を語るときよりも熱くなっていた。
祈りよりも、理屈の方が簡単に人を酔わせる。
ヨアヒムは、研究棟の奥の実験室にいた。
静かな部屋で、紙を一枚ずつ束ねている。
紙の隅に書かれた自分の筆跡——
半年前に書いた数式を見つめながら、
自分が何を生み出してしまったのかを思っていた。
扉が開く音がして、セーレンが入ってきた。
「師匠、会議が延びるそうです。奇跡研究の件で……」
ヨアヒムは顔を上げなかった。
「そうか。あの連中は“神の構造”を理屈で語りたいらしい。」
「悪いことなんですか?」
「悪いとは言わん。ただ、愚かだ。」
セーレンは息をのんだ。
ヨアヒムの口調に、いつもの皮肉ではない、
冷たい疲労が混じっていた。
「師匠……この前の報告書で使われた式、
途中で切れている箇所があります。
あれは削除したんですか?」
「削除した。必要なかったからな。」
「でも、それがないと——」
「それがあると、誰かが人を壊す。」
言葉の意味がわからなかった。
けれど、セーレンの胸の中に、得体の知れない寒気が走った。
「壊すって……」
「理は、人を救うために生まれた。
だが、救いと破壊の式はいつも似ている。
ほんの一行の差だ。」
ヨアヒムは紙束を抱え、机の引き出しにしまった。
「セーレン。お前は、この先、理の外に何があるかを見ろ。
それを見られる者だけが、真に世界を理解する。」
セーレンはただ、うなずくことしかできなかった。
その夜、白衣会の本部に告発の書簡が届いた。
差出人は不明。
内容は「ヨアヒム・エルンストが神の領域を侵している」というものだった。
教会への匿名通報が、同じ日に入ったという。
廊下の隅でひそひそと声が交わされるのを、セーレンは耳にした。
「ヨアヒムは、魔素を病のようなものと考えているらしい。」
「神の恩寵を病原体に見立てた? 正気か?」
「信仰に対する侮辱だ。清浄を重んじる教えを忘れたのか。」
「白衣会の名が穢れる。」
彼は胸の奥が冷たくなった。
どうしてそんな話になっているのか、理解できなかった。
研究棟が封鎖される前に、ヨアヒムは静かに帰路についた。
夜。自宅の窓の外で、鐘の音が響いた。
遠くの鐘が一度だけ鳴り、すぐに風の底へ沈んでいく。
家の灯はすべて落ち、ただ一室だけが淡く光っていた。
ヨアヒムは机の前で小さなノートを開き、
魔素の性質に関する書き込みを一つ一つ見返していた。
「魔素は万物に浸透し、生命と非生命の境を曖昧にする。
その振る舞いは、かつて記録に残る病原体のそれに近い。」
それは、感染という意味ではない。
ただ、魔素が生命を通じて世界を“再構築する”可能性を理論的に記したものだった。
だが、信仰の言葉に置き換えれば、
「神の力を病に喩える」——
それだけで、冒涜となる。
ヨアヒムはさらに書類を広げていった。
液体魔素の生成記録、魔素の流体特性の観察ノート、
そして「魔素の感染的振る舞いに関する覚書」。
それを見つめながら、ヨアヒムは小さく息を吐いた。
「出れば、研究を奪われる。
逃げれば、セーレンを置いていく。
……まったく、神はいつだって残酷だ。」
彼は白衣を脱ぎ、背もたれにかけた。
中から古い革の鞄を取り出し、
書類の束を三つに分ける。
鞄の中に残された三つの束。
一つは「生成の原理」。
一つは「構造の理論」。
そして——「安定化」と「生体保持」に関する記述を抜いた残骸。
「これでいい。式は立つが、再現はできない」
小さく呟いたその声は、安堵にも祈りにも似ていた。
鞄を閉じたあと、部屋の片隅に立ち尽くした。
壁にかかった古い時計の音だけが響く。
長い沈黙ののち、ヨアヒムは自分に向けて呟いた。
「父にも、師にも、なれなかったな……」
その声は、誰に届くこともなく消えた。
白衣の袖を握る手が、わずかに震えていた。
セーレンを思うと胸が痛んだ。
あの少年の目には、きっと“父”が映っていたのだ。
けれど、自分はその期待に応えられなかった。
理に逃げ、師であろうとしながら、
ただ“何者かになりたい”という焦りをごまかしていた。
「……せめてあの子が、まっすぐに育てばいい」
小さく呟いて、彼は居間へ向かう。
小さな物音がした。
セーレンだった。
「師匠、こんな時間までどうしたんですか?」
「明日、少し出かける。長くはかからん。」
「白衣会の件ですか?」
わずかに手が止まる。
「……ああ。」
「僕も同行します。師匠が誤解されているなら、僕が証明します。」
ヨアヒムは小さく笑った。
「お前は優しいな、セーレン。」
「優しいんじゃありません。理に反してます。」
「いや、優しさだよ。セーレン。」
その声は、叱るでも諭すでもなかった。
ただ、あたたかい肯定だった。
「さあ私は寝る。お前も夜更かしも大概にしなさい。」
「はい。おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
ヨアヒムは微笑んでいた。
灯を落とす前に、彼は机の引き出しを開けた。
中から一枚の紙を取り出し、
インク瓶の蓋を外して、たった一行だけ書いた。
「情を、忘れるな。」
それを封筒に入れ、セーレンの作業机にそっと置いた。
夜更け前、ヨアヒムは家を出た。
石畳に霧が流れ、灯火がぼんやりと揺れている。
聖都の外れに向かうほど、街は沈黙を増していった。
途中、郵便ポストへ寄る。
霧の中、赤い鉄の箱だけが灯に濡れて光っていた。
一通目——帝国監督局宛。
封の裏に、震えのない筆跡で書かれている。
「白衣会の一部が、液体魔素を人体に注入する計画を立てている。
この理論は未検証であり、生命を損なう危険が高い。
調査と停止を求む。」
紙を落ちる音がやけに大きく響いた。
二通目——教会監督局宛。
内容は同じだった。
ただ、一文だけ加えた。
「もし信仰が理を律するなら、今こそ祈りを実行で示してほしい。」
投函口に指をかけ、
一瞬だけ、何かを言いかけて——やめた。
紙の摩擦音とともに、封は落ちていった。
最後に、三通目を取り出す。
ルドルフへの手紙。
封には短く書かれていた。
「セーレンを頼む。」
それだけだった。
理由も説明もなかった。
言葉を重ねれば、情に負けると分かっていたからだ。
投函を終えると、
霧の向こうで鐘の音が一度だけ鳴った。
投函を終えると、霧の向こうで鐘の音が一度だけ鳴った。
ヨアヒムは立ち止まり、
「……これで、理は尽くした」
と低く呟いた。
その声は霧に溶け、
音もなく夜に沈んでいった。
東の空が白み始めるころ、
ヨアヒムは聖都の門を抜けた。
見送りは誰もいない。
風が吹き抜ける音だけが、
まるで祈りのように、彼の背を押していた。
彼はふと足を止め、振り返らずに呟いた。
「考えても、選ぶのは結局、人間なんだな……」
——その日、白衣会はヨアヒム・エルンストの行方不明を公表した。
逃亡者、背信者、異端者。
呼び名はいくつもあったが、どれも真実ではなかった。
セーレンが目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
部屋の空気が違う。
机の上には、師の筆跡。
「情を、忘れるな。」
それを読んだとき、胸の奥で何かがはじけた。
「……どうして。」
答えはどこにもなかった。
外では、聖都の鐘が鳴っていた。
いつもと同じ朝の音。
けれど、世界は昨日とまったく違って見えた。
セーレンはその音の中で立ち尽くし、
机に残された研究資料の束を見つめた。
インクの匂いがまだ新しい。
紙の端には、焦げたような指の跡が残っていた。
「沈黙もまた、ひとつの警告である。」
その言葉が、ゆっくりと胸の奥で反響した。
理は、言葉を失ったときに最も雄弁になる——
師が最後に伝えたのは、きっとそのことだった。




