第7節 報告書と波紋
聖都の空気は、秋の澄んだ、どこか物悲しい香りをはらんでいた。
日の長い季節を越えた街路は、市場の声も少し活気が欠けていた。
白衣会の建物だけが静まり返っていた。
重ねられた書類の山が、誰かの呼吸を潜めるように並んでいる。
セーレンの提出した「予兆感知に関する報告書」は、
すでに帝国の科学局と教会本庁の双方に送られていた。
内容の正確さ、観察の緻密さ、語彙の落ち着き。
若干十七歳の研究助手によるものとは信じがたい完成度だった。
「これは……本物だ。」
会議室に集まった白衣会の面々が、次々に声を漏らす。
「聖堂教育課程の子どもたちに、こんな反応があったとは。」
「予兆の感知——歴代の聖女記録に一致する!」
「神の系譜が、再び現れるのかもしれん……」
セーレンは少し戸惑いながらも、静かに頭を下げた。
人前で褒められるのは苦手だ。だが、嬉しかった。
これでヨアヒムの研究が、ほんの少しでも誰かの役に立つかもしれない。
「魔素適合値が低い者でも、感知力が存在する。
となれば、適合値を大幅に上昇させる方法さえ見つかれば——」
誰かの声が上がった。
別の者がそれを引き取る。
「訓練でも魔素適合値は上がるが、聖女と同数となると未知だ。」
「理論上、不可能ではない。」
「奇跡を理で測れるなら、それはもう神の再現だ。」
室内の温度が一瞬で変わった。
歓喜と野望の匂いが、微かに混ざり合う。
ヨアヒムはその場にいたが、発言しなかった。
ただ、会議机の縁に手を置き、無言で叩いた。
“その理屈は、すでに一線を越えている”——
そう言いたかったが、言葉にはならなかった。
会議が終わると、廊下のあちこちで声が上がった。
「奇跡の研究は、教会も前向きらしい。」
「帝国が後援するとなれば、資金も増えるぞ。」
「ヨアヒムの液体理論を参考にできれば……」
耳にした瞬間、ヨアヒムの眉がわずかに動いた。
その夜。
研究棟の灯りが次々と落ちていく中、
ヨアヒムはひとり、薄暗い実験室に残っていた。
机の上には、液体魔素の生成記録。
彼が何年も前、健康応用の仮説として記した論文草稿だ。
ページをめくるたび、指先がかすかに震えた。
“魔素適合の上昇さえできれば——”
昼間の声が、耳の奥で反響する。
その言葉が何よりも危険に思えた。
ヨアヒムは静かに椅子を引き、
報告書の一部を抜き取り、
意味を変えぬよう整合性を保ちながら、削除した。
【削除箇所:生体組織内での魔素保持時間の計測】
【削除箇所:魔素安定化計算式】
これがなければ、理論は成立しない。
けれども、外見上は何も変わらない。
——これでいい。
ふと、机の端に置かれた小さなノートに目を留める。
セーレンの字で「実験補助覚え書き」と書かれていた。
端には、丁寧な文字でこうある。
「いつか師匠の研究が完成したら、その瞬間を見たい」
ヨアヒムは目を閉じた。
胸の奥に、痛いほどの愛しさが湧いた。
「……あの子には、まだ“情”がある。」
そう呟いて、灯りを落とした。
翌朝。
研究棟の掲示板に新しい報告が貼られた。
《白衣会および教会、奇跡研究の共同議題を設立》
セーレンはそれを見て、純粋に喜んだ。
“観察の成果が認められた”と思ったのだ。
ヨアヒムは背後で、その張り紙をじっと見つめていた。
「……理が、祈りを食い始めたな。」
その呟きは誰にも聞かれず、
聖都の朝靄に溶けていった。




