第5節 聖堂の子どもたち
朝の聖堂には、冷たい光が満ちていた。
鐘の音がゆるやかに響き、白い壁がその音を返す。
祈りを終えた子どもたちが、中庭に出て行った。
リネアが笑いながらマリナを追い、イーラが転んで、セシルが慌てて手を差し伸べる。
小さな手が触れあう音。
聖女候補と呼ばれていても、彼女たちはただの子どもだった。
セーレンは回廊の影から彼女たちを見つめ、静かに手帳を開く。
「集団行動における情動伝達は速い。恐怖よりも共感が優先される。」
書きながら、自分が観察しているのは“人間”であり、“資料”ではないことに気づく。
その感覚が少し居心地悪かった。
レイナはひとり、木陰で地面に模様を描いていた。
指先で土をなぞり、何かを考えているようだ。
彼女の周りだけ、空気が静かだった。
笑い声の波が届いても、彼女には触れない。
「レイナ、何をしているの?」
マリナが駆け寄ると、レイナは顔を上げた。
「風の形を、描いてるの」
「風に形なんてある?」
「……あるよ。誰かが来ると、風の向きが変わるから」
その瞬間、聖堂の扉が開いた。
修道女が入ってきて、「授業の時間ですよ」と声をかけた。
マリナが目を丸くし、レイナを見た。
「ほんとに来た!」
レイナはただ微笑んだ。
セーレンは思わず時計を見た。
扉が開く三秒前、レイナの視線は確かに扉の方を向いていた。
彼は手帳に短く書く。
「外部刺激の予兆に対する感受性:顕著。意識的操作ではない。」
それは奇跡ではなかった。
魔素の流れが生む微細な信号を、彼女の身体が拾ったのかもしれない。
だが、無意識のままにそれを行うということ——
それは、神に近い静けさに見えた。
授業が終わると、子どもたちは昼食に向かった。
セーレンは回廊に残り、しばらくノートを閉じたまま立ち尽くした。
(観察しているのに、観察されている気がする)
その感覚は、妙に心をざわつかせた。
夕刻、ヨアヒムが聖堂の前で待っていた。
「記録は取れたか」
「はい。ただ、言葉にしづらい反応がありました。
彼女は“誰かの来訪”を察していたようです。」
「……ほう」
ヨアヒムはわずかに目を細めた。
「予兆感知の一形態かもしれんな」
彼は淡々と答えたが、その声にはどこか満足げな響きがあった。
二人は並んで帰路についた。
日が沈み、街の石畳が赤く染まる。
「叔父さんは、どう思いますか? この感受性を。」
ヨアヒムは少し間を置いて言った。
「羨ましいな」
「羨ましい?」
「ああ。私には、何も感じ取れん。
神も、風も、人の気配も。
ただ数値と理屈だけで世界を見ている。
その先に何があるか、まだわからん。」
ヨアヒムは聖堂の尖塔を一度だけ振り返った。
「理は情を濁らせる……それでも、人が理を持つのは、情に沈まないためだ。
——それが、正しいのかどうかは、もうわからんがな。」
セーレンは黙っていた。
(叔父は、何者にもなれないことを恐れている)——そう思った。
それでも、その背中はどこか誇らしかった。
夜、部屋に戻ると、観察記録の最後の欄にこう書いた。
「感知とは、世界と自己の境界に触れる行為である。
理解できなくても、そこに在るものを認めること——それが観察だ。」
書き終えると、セーレンは窓を開けた。
夜風が頬を撫で、外の鐘の音が静かに届く。
沈黙の中で、世界は確かに呼吸していた。




