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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第2章 灰と祈りの間で

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第5節 聖堂の子どもたち

 朝の聖堂には、冷たい光が満ちていた。

 鐘の音がゆるやかに響き、白い壁がその音を返す。

 祈りを終えた子どもたちが、中庭に出て行った。


 リネアが笑いながらマリナを追い、イーラが転んで、セシルが慌てて手を差し伸べる。

 小さな手が触れあう音。

 聖女候補と呼ばれていても、彼女たちはただの子どもだった。


 セーレンは回廊の影から彼女たちを見つめ、静かに手帳を開く。

 「集団行動における情動伝達は速い。恐怖よりも共感が優先される。」

 書きながら、自分が観察しているのは“人間”であり、“資料”ではないことに気づく。

 その感覚が少し居心地悪かった。


 レイナはひとり、木陰で地面に模様を描いていた。

 指先で土をなぞり、何かを考えているようだ。

 彼女の周りだけ、空気が静かだった。

 笑い声の波が届いても、彼女には触れない。


 「レイナ、何をしているの?」

 マリナが駆け寄ると、レイナは顔を上げた。

 「風の形を、描いてるの」

 「風に形なんてある?」

 「……あるよ。誰かが来ると、風の向きが変わるから」


 その瞬間、聖堂の扉が開いた。

 修道女が入ってきて、「授業の時間ですよ」と声をかけた。

 マリナが目を丸くし、レイナを見た。

 「ほんとに来た!」

 レイナはただ微笑んだ。


 セーレンは思わず時計を見た。

 扉が開く三秒前、レイナの視線は確かに扉の方を向いていた。

 彼は手帳に短く書く。

 「外部刺激の予兆に対する感受性:顕著。意識的操作ではない。」


 それは奇跡ではなかった。

 魔素の流れが生む微細な信号を、彼女の身体が拾ったのかもしれない。

 だが、無意識のままにそれを行うということ——

 それは、神に近い静けさに見えた。


 授業が終わると、子どもたちは昼食に向かった。

 セーレンは回廊に残り、しばらくノートを閉じたまま立ち尽くした。

 (観察しているのに、観察されている気がする)

 その感覚は、妙に心をざわつかせた。


 夕刻、ヨアヒムが聖堂の前で待っていた。

 「記録は取れたか」

 「はい。ただ、言葉にしづらい反応がありました。

  彼女は“誰かの来訪”を察していたようです。」

 「……ほう」

 ヨアヒムはわずかに目を細めた。

 「予兆感知の一形態かもしれんな」

 彼は淡々と答えたが、その声にはどこか満足げな響きがあった。


 二人は並んで帰路についた。

 日が沈み、街の石畳が赤く染まる。

 「叔父さんは、どう思いますか? この感受性を。」

 ヨアヒムは少し間を置いて言った。

 「羨ましいな」

 「羨ましい?」

「ああ。私には、何も感じ取れん。

  神も、風も、人の気配も。

  ただ数値と理屈だけで世界を見ている。

  その先に何があるか、まだわからん。」


 ヨアヒムは聖堂の尖塔を一度だけ振り返った。

「理は情を濁らせる……それでも、人が理を持つのは、情に沈まないためだ。

 ——それが、正しいのかどうかは、もうわからんがな。」


 セーレンは黙っていた。

 (叔父は、何者にもなれないことを恐れている)——そう思った。

 それでも、その背中はどこか誇らしかった。


 夜、部屋に戻ると、観察記録の最後の欄にこう書いた。

 「感知とは、世界と自己の境界に触れる行為である。

  理解できなくても、そこに在るものを認めること——それが観察だ。」


 書き終えると、セーレンは窓を開けた。

 夜風が頬を撫で、外の鐘の音が静かに届く。

 沈黙の中で、世界は確かに呼吸していた。

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