第3節 観察の始まり
夜明け前の光が、白衣会研究棟の窓を淡く照らしていた。
ヨアヒムは机の上の書類をめくりながら、湯気の立つカップを片手に言った。
「セーレン、今日からお前に新しい仕事を頼む」
「新しい仕事、ですか?」
「教会との共同調査だ。近隣の村で行われた“啓発授業”に、少し妙な報告があった」
セーレンは書類を受け取り、目を走らせた。
「……“無言の祈りへの事前反応”?」
「そうだ。村の子どもたちに魔素の扱いを教える安全講習があってな。
教会の名目では“無言で魔素を使うのは危険”という啓発だ。
だが、その授業中に……いくつか興味深い現象が起きた。」
ヨアヒムはペン先で一行を指し示した。
『火の起こる前に避ける反応を示した子どもが複数名確認される』
「火が起こる前に……?」
「そう。火を灯す訓練で、祈りの言葉を使わずに試した際だ。
炎が生まれるよりも先に、数人の子どもが手を引いたり、身をよじったりした。
まるで“炎が起こる”ことを察知したようにな。」
「偶然……ではないのですか?」
「私も最初はそう思った。
だが、村が違っても同じ反応を示した例が出てきている。
しかも、教会の神官たちは“神の徴”だと報告を上げてきた。」
セーレンは資料の下部に記された名簿を見た。
年齢は六歳から九歳。いずれも成都周辺の村出身。
「この子どもたちが、“聖女候補”と呼ばれているのですね」
「正確には、まだ正式な候補じゃない。だが、感受性の異常として記録された。
教会は白衣会に観察の協力を求めてきた。――お前にはその観察を任せる。」
「観察、ですか」
「そうだ。記録を取るだけでいい。子どもたちの反応、表情、会話、行動。
すべてを書き留めてくれ。」
ヨアヒムの声は静かだった。
それでもセーレンは、その奥にわずかな熱を感じ取った。
(あの叔父が、教会との共同研究を“面白い”と思っている……)
液体魔素の再現実験が頓挫してから、もう四年。
ヨアヒムの机に積まれた報告書には、成功例の印は一つもなかった。
“神の沈黙”を科学で破ろうとした叔父が、今は神の領分を観察している。
皮肉な巡り合わせだった。
「観察の対象は、教会が管理する聖堂に集められている。
朝から授業を行っているから、今日は一日そちらに同行しろ」
「わかりました」
セーレンは資料を抱え、研究所を後にした。
聖堂の扉を開けた瞬間、冷えた空気と香の匂いが頬を撫でた。
高い天井からは柔らかな光が降り、床には白い大理石の模様が流れている。
子どもたちの声が、奥の教室から響いてきた。
「では、今日は“火の祈り”のおさらいをします」
修道女の穏やかな声が広がる。
セーレンはヨアヒムに案内され、教室の後方に立った。
机の上には小さな燭台が並んでいる。
子どもたちは両手を胸の前で組み、目を閉じた。
修道女が言う。
「祈りの言葉を忘れずに。神の名を唱え、心を整えなさい」
子どもたちは声を合わせ、祈りの文句を唱えた。
穏やかな炎が順に灯っていく。
室内の空気がわずかに温かくなり、香の匂いが強まった。
やがて修道女は、少し笑みを浮かべて言った。
「では、次は祈りの言葉を使わずに試してみましょう。
言葉を省くときは、心をより静かに――」
セーレンは息を呑んだ。
白衣会の記録にあった場面が、今まさに再現されようとしている。
修道女が合図をし、子どもたちは手を伸ばす。
炎が灯る――その刹那、
最前列の少女が小さく身を引いた。
炎が上がる前に、まるでその瞬間を察したかのように。
次の子も同じだった。
反射的にではなく、確信をもって避けるような動き。
だが、驚いたのは彼女たち自身ではなく、周囲の子どもたちだった。
「いま、どうして引いたの?」
「……熱くなると思ったの」
「いつ?」
「……わからない。わかる前に、そう思ったの」
セーレンは観察記録に短く走り書きをした。
『火の起こる前に避ける。恐怖ではなく、予知に近い反応』
祈りを使わずに魔素を扱う行為は、本来禁忌に近い。
それでも、魔素の操作は日常の行為だ。
人々は“水が欲しい”と思えば、水を生み出せる。
“風が欲しい”と思えば、風が吹く。
だからこそ、祈りの言葉は神への敬意というより、
感情を鎮めるための形式として残っているに過ぎなかった。
(祈りとは、秩序を保つための“安全装置”なのかもしれない)
セーレンは心の中でつぶやいた。
事故を防ぐために形式化された信仰。
それは宗教というより、文明を守るための構造だ。
授業が終わると、子どもたちは聖堂の中庭に散っていった。
セーレンは石造りの回廊の影から、彼らを見ていた。
笑いながら走り回る姿は、どこにでもいる子どもたちだ。
けれど先ほどの反応を思い出すと、胸の奥に妙なざわめきが残った。
(あれは単なる偶然なのか? それとも……)
「面白かったか?」
背後からヨアヒムの声がした。
「はい。祈りの言葉を省くことで、逆に何かが“露出”するようでした」
「その観察眼は鋭いな。
教会は“信仰の純度”だと言っているが、私は違うと思う。
祈りの形式を外したとき、人間の中に眠っている何かが反応するんだ。」
「魔素の反応ですか?」
「あるいは、その前段階。
白衣会ではそれを”感受性”と呼んでいる。
だが、私たちもまだ理解していない。」
セーレンはその言葉を繰り返した。
「感受性……」
ヨアヒムは肩をすくめた。
「名前なんてどうでもいい。重要なのは、そこに“何か”があるということだ」
二人は中庭を歩いた。
祈りの歌声が遠くから響く。
「叔父さん」
「なんだ」
「祈りって、本当に神に届くと思いますか?」
ヨアヒムは少し考え、曖昧に笑った。
「届くと思っているうちは、届かないものだ――と、おまえの父親なら言うだろうな。」
「じゃあ、信仰ってなんなんです?」
「秩序だよ。人が人でいるための呼吸のようなものだ。……これは私の言葉だが。」
「でも、その呼吸の仕組みを知ることも大事じゃないですか?」
ヨアヒムは吹き出した。
「……やっぱりカスパルの息子だ。
理屈の向きが違うだけで、信じ方はそっくりだよ。」
そう言いながらも、彼の声にはどこか温かい響きがあった。
(こいつ、いつか本当に“神の沈黙”を暴くかもしれんな)
ヨアヒムは胸の奥で小さく息をついた。
自分が信仰を少し軽んじ始めていることを、彼は自覚していた。
液体魔素の再現は進まず、神は応えない。
信仰を信じ切れない自分が、甥にどんな影響を与えるのか。
わずかな不安が、冷たい風のように胸を撫でた。
「叔父さん?」
「いや、なんでもない。……今日はもう十分だろう」
ヨアヒムは軽く頭を撫で、聖堂の出口を指した。
「観察を楽しめ。神もきっと、お前を見ている」
セーレンはうなずき、光の満ちる回廊を歩いた。
祈りの声が背中を追いかける。
信仰と理性――どちらが正しいかはわからない。
けれど、この世界が“意味”で保たれていることだけは、確かに感じられた。




