第2節 観察者の誕生
聖都の冬は、ヒンメルランドのそれとは違った冷たさを持っていた。
雪は滅多に降らず、代わりに風が凍る。建物の石壁を叩くその音が、まるで街全体をひとつの巨大な楽器のように震わせていた。
セーレンは十五歳になっていた。
背がぐんと伸び、白衣の裾が短くなってヨアヒムに新しいものを縫ってもらったばかりだった。学舎に通う生徒たちがすれ違うたびに、灰がかった髪と静かな目をちらりと見る。けれど当の本人は、それにまったく気づかない。目の前の数式や魔素の反応図の方が、ずっと面白かった。
「セーレン、また昼を抜かしただろう」
ヨアヒムが研究室の扉を開けて言うと、少年は反射的に手元の書きかけのノートを閉じた。
「あと少しで整理できるんです。魔素濃度の変動が、呼吸のリズムに――」
「呼吸のリズムに支障が出るのはお前の方だ」
そう言ってヨアヒムは、机の隅に置かれた包みを開いた。温かいスープの匂いが漂う。野菜と豆、それに塩だけの簡素な味だが、体がすぐに反応する。
昼食をとりながら、ヨアヒムは少しだけ目を細めた。
「最近、学舎の女子たちがお前の噂をしているらしい」
「……僕の、ですか?」
「“白衣の少年”とか、“研究所の少年”とか。まるで芝居の登場人物みたいだ」
セーレンは顔を赤くした。「そんなの、誰かの勘違いです」
「他に研究室に出入りしている少年はおらんがな。モテるのにもったいない。弟子としては助かるが」
「……からかわないでください」
「事実を言っただけだ」
ふっと笑ったヨアヒムの頬に刻まれた皺が、研究室の淡い光にやわらかく照らされた。
家に帰ると、二人の暮らしは静かなものだった。
ヨアヒムは研究資料を整え、セーレンは火を起こす。魔素の灯を慎重に指先で生み出し、暖炉に移す。薪のはぜる音が夜の始まりを告げる。
食卓には黒パンと干し肉、ハーブを煮出した湯。セーレンは師の好みを覚えていて、パンの硬さまで加減する。ヨアヒムはそんな弟子を見て、時折黙ってうなずいた。
夕食後、セーレンは片づけをしながら、暖炉の火を整えた。
ヨアヒムは書類を束ね、椅子の背にもたれて湯気の立つカップを手にする。
「セーレン、背がまた伸びたな。白衣の裾が合ってない」
「もう少ししたら自分で直します」
「裁縫まで覚えるつもりか?」
「師匠がほつれを見過ごせる人じゃないので」
「……生意気を言うようになったな」
「それ、褒め言葉ですか?」
ヨアヒムは肩をすくめ、カップを傾けた。
「お前の父も昔はそんな調子だった。似てきたな」
「叔父さんの方が、ずっと穏やかです」
「いや、血は争えん。弟子の扱いが下手だ」
セーレンは笑い、椅子に腰を下ろした。
研究所では師と弟子。だが家に戻れば、ただの叔父と甥だった。
その静かな時間が、彼には何より心地よかった。
夜になると、聖都の窓辺に灯がともる。
その灯りの数を数えるのが、セーレンの日課だった。光はどれも同じように見えるのに、よく見ると明滅の速さが違う。風の通り道のせいだろう、と彼は記録帳に書き込む。
「そんなものを毎晩つけてどうする」
「観察です。誰も気づかない規則の方が、面白いんです」
「……まったく、お前らしい」
ヨアヒムの寝室からは、時折咳が聞こえた。長年の研究で魔素を吸い込みすぎたせいだと本人は言うが、セーレンは気づいていた。夜中、師が立ち上がって薬を煎じていることを。
セーレンは翌朝、黙って新しい茶葉を調合し、机の端に置いた。何も言わないが、ヨアヒムは気づく。「弟子というのは厄介だな」とぼやきながら、嬉しそうに湯を注ぐ。
休日、二人は市場に出る。セーレンは人混みが苦手だったが、実験器具の素材を探すためとあれば目を輝かせた。
露店の娘が笑顔で布を渡すたび、周囲の女たちの視線が彼に集まる。
「セーレン、もう少し柔らかく返事をしろ」
「え? 普通に答えました」
「その“普通”が問題なんだ」
ヨアヒムはため息をつき、ふと横目で見る。背丈も声もすっかり青年のものになりつつある。
(この甥っ子、研究に夢中で恋の一つも知らんのだろうな)
苦笑が浮かんだが、口には出さなかった。
ある夕方、セーレンは研究所の窓辺で夕陽を見つめていた。赤い光がガラスに反射し、机の上の試薬瓶を染める。
「ヨアヒム叔父さん、人はなぜ、観察するんでしょう」
「どういう意味だ」
「見なくても生きていけるのに、見ようとする。知ろうとする。僕はそれが止められません」
ヨアヒムは椅子にもたれ、しばらく黙っていた。
「それは、祈りに似ているのかもしれん。祈りもまた、“見えぬものを見ようとする”行為だからな」
セーレンは少し考えた。
「じゃあ、僕の観察も……祈りなんでしょうか」
ヨアヒムは少し笑い、目を伏せた。
「……祈りも理も、どちらかだけでは澱む。
だが、混ぜすぎると濁る。いつもそれが難しい。」
「はい」
その返事は素直だったが、少年の瞳は遠くの夕焼けに向けられたままだった。
夜。ヨアヒムは机に残されたノートを開いた。そこには、灯の数や風の速さ、通りを歩く人々の服の色まで記録されていた。
(観察者の誕生、か……)
甥の几帳面な筆跡を指でなぞりながら、かすかに笑った。
聖都の屋根を越えて鐘の音が響く。
その音を背に、ヨアヒムは灯を消す。セーレンの部屋の方から、紙をめくる音がまだ聞こえていた。
「まったく、昔から夜更かしだ」
独り言のようにつぶやくと、彼はそっと扉を閉めた。
この夜、セーレンは初めて「観察」という言葉を、自分の心に刻みつけた。
それは単なる研究の手段ではなく、世界とつながるための“祈り”でもあった。
彼の目に映るすべて――人の仕草、風の流れ、灯の明滅――が、静かに世界の言葉として語りかけてくるように思えた。
その感覚は、この先、長い年月を経ても彼の中で消えることはなかった。




