第1節 白衣の父
“Faith begins precisely where thinking leaves off.”
「信仰は、思惟が終わるところから始まる。」
(『哲学的断片』第3章)
聖都の朝は、パンの焼ける匂いから始まる。
ヒンメルランドで雪と灰の匂いしか知らなかったセーレンにとって、それは世界そのものが生まれ変わったように思えた。通りを行き交う人々が陽を浴びて笑っている。馬車の車輪が石畳を弾み、鐘の音が遠くで応える。
セーレンは布袋を肩に引っかけ、器用に人々を避けながら、研究所への道を小走りで進んでいた。
「セーレン!」
背後から低い声が飛ぶ。振り返ると、白衣を風に揺らしたヨアヒムが立っていた。
「ここは競技場ではないぞ」
「でも、走ったほうが早いです」
「理屈は正しいが、行儀が悪い」
セーレンは肩をすくめて笑った。
ヨアヒムは溜息をつきながらも、どこか楽しげだった。
研究所の扉を押し開けると、薬品と金属の匂いが入り混じった空気が迎えた。
硝子瓶の中で光が揺れ、奥では蒸気の音がかすかに響いている。
セーレンはヨアヒムの背を追いかけながら、並ぶ器具のひとつひとつに目を奪われた。
「師匠、これが魔素圧縮装置ですか?」
「そうだ。力を閉じ込める器だ。ただし、人の心までは閉じ込められん」
ヨアヒムの言葉に、セーレンは小さく笑う。難しい話ではない。師匠らしい冗談だ。
ヨアヒムは手袋をはめ、装置のバルブを軽く叩いた。
白衣の袖が動くたび、金属の光が反射した。
実験台の端には、黒く焦げた試薬瓶が転がっていた。
「昨日の爆発の跡が、まだ残ってます」
「研究の痕跡は消すな。だが次は別の香りを残せ」
「焦げではなく、成功の匂いを?」
「そうだ」
ヨアヒムは口元をわずかに緩めた。叱るでもなく、諭すでもない声音だった。
「では、今日も魔素の流れを観測してみるか」
セーレンは袖をまくり、掌を前に出した。
淡い光が指先に宿る。空気がわずかに震え、机上の瓶の中で液体が揺れた。
「……できた」
「うむ。感覚は悪くない。ただ、力みすぎだ。雪道を歩くときのように、足を置く場所を選べ」
「寒い土地で育ったので、つい身構えてしまいます」
「ならば心までは凍らせるな」
師の言葉に、セーレンは思わず笑みを浮かべた。
ヨアヒムの指導は理屈よりも感覚に近い。
彼にとって「教える」とは、理論を伝えることではなく、生き方を見せることだった。
昼休みになると、二人は中庭のベンチで昼食をとった。
包みを開けると、表面が少し焦げたチーズパンが入っている。
「これ、師匠が焼いたんですか?」
「焼いたのは私だが、焦がしたのは火だ」
「なるほど、炎の責任にするのは科学的ですね」
「減らず口も研究の一環か」
二人の笑い声が、風に乗って噴水の水音に混ざった。
食後、セーレンは空を仰いだ。
灰ではない青い空。遠くで鳥が旋回している。
「この街は、どこを見ても光ってますね」
「光の中では影が見えづらい。だから、研究者は時々目を細めるんだ」
「影も、研究対象ですか?」
「当然だ」
セーレンはその言葉を聞きながら、師の横顔を盗み見た。
ヨアヒムの頬にかすかな日焼けの跡がある。白衣の中にも、確かに生活の色があった。
午後、研究棟の廊下を歩いていると、声が響いた。
「おいヨアヒム、その雛はどこで拾った?」
男がこちらへ歩いてくる。髭面で、笑うと腹が揺れる。ルドルフだ。
急な訪問者に、セーレンは思わず咳き込み、試験管を落としそうになった。
「雛ではない。――私の弟子だ」
ヨアヒムは口の端をわずかに上げた。
その声音に混じる誇らしげな響きが、セーレンには不思議と嬉しかった。
自分が誰かの“弟子”でいられるという事実が、胸の奥を温かくした。
「弟子、ねえ……そりゃまた珍しいことだな。だがその様子じゃ、すっかり親鳥だな」
「余計なことを言うな」
「まさに白衣の父ってやつさ」
ルドルフが笑いながら肩を叩く。ヨアヒムは軽く咳払いをして視線を逸らした。
「君、名前は?」
「セーレン・エルンストです」
「エルンスト? なるほど、例の甥っ子くんではないか」
「研究所では弟子です」
ルドルフが吹き出した。「そうか、融通の利かねえところまで師匠譲りってわけだ」
ヨアヒムは苦笑した。
「融通が利いてたら、研究なんて続かんさ」
「はは、そう来るか。ほんと、お前は理屈に逃げる天才だな」
「どうだ、一問でも投げてみるか?そのために来たんだろ、ルディ」
からかい混じりの挑発に、旧友がにやりと笑う。
「おう、じゃあおまえの秘蔵っ子を試してみるか。魔素圧の逆転現象とは?」
セーレンは一呼吸おいて答えた。
「流体抵抗と操作者の集中の乱れによって、エネルギーの流れが反転します。魔素は感情を拾う性質があるので」
「感情を拾う、ね」ルドルフは目を細めた。「詩人だな。だが悪くない」
ヨアヒムが小さく笑った。「理屈の中に情を見いだす。それが研究の始まりだ」
セーレンは頬が熱くなるのを感じた。
褒められることに慣れていない。けれど、嬉しかった。
ヒンメルランドでは、誰も彼を見ていなかった。
今は違う。誰かが彼を見て、言葉を返してくれる。
ルドルフが帰ると、ヨアヒムは机の上を片づけながら呟いた。
「まったく、昔から口の軽い男だ」
「でも、“白衣の父”は、少し似合ってましたよ」
「私はまだそんな歳じゃない」
「父とそんなに歳は変わらないじゃないですか」
「……そういう問題じゃない」
セーレンは笑いながら、手にしていた試験管を丁寧に拭いた。
「でも、なんだか安心するんです。師匠がそばにいると」
ヨアヒムは手を止め、彼の横顔を見つめた。
その目に浮かぶまっすぐな光を前に、わずかに口元が緩む。
「……調子に乗るな」
その声は穏やかで、叱るよりも優しかった。
笑いながらも、彼の胸の奥では何かが微かに疼いていた。
自分は父にも師にもなれるのだろうか――そんな問いが、ふと影のように差し込んだ。
夕方、研究所を出ると、街に焼き栗の香りが漂っていた。
セーレンは屋台の前で足を止めた。
「師匠、栗を買いましょう」
「また食べるのか?」
「はい。冷めても美味しいです」
ヨアヒムは首を振りながら銅貨を渡した。
熱い栗を頬張る弟子の横顔を見て、彼は小さく笑った。
その笑い声が、聖都の夕風に溶けていった。
灰の大地から遠く離れたこの街で、セーレンの新しい日々が始まっていた。




