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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第2章 灰と祈りの間で

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12/22

第1節 白衣の父

“Faith begins precisely where thinking leaves off.”

「信仰は、思惟が終わるところから始まる。」

(『哲学的断片』第3章)

 聖都の朝は、パンの焼ける匂いから始まる。

 ヒンメルランドで雪と灰の匂いしか知らなかったセーレンにとって、それは世界そのものが生まれ変わったように思えた。通りを行き交う人々が陽を浴びて笑っている。馬車の車輪が石畳を弾み、鐘の音が遠くで応える。

 セーレンは布袋を肩に引っかけ、器用に人々を避けながら、研究所への道を小走りで進んでいた。


「セーレン!」

 背後から低い声が飛ぶ。振り返ると、白衣を風に揺らしたヨアヒムが立っていた。

「ここは競技場ではないぞ」

「でも、走ったほうが早いです」

「理屈は正しいが、行儀が悪い」

 セーレンは肩をすくめて笑った。

 ヨアヒムは溜息をつきながらも、どこか楽しげだった。


 研究所の扉を押し開けると、薬品と金属の匂いが入り混じった空気が迎えた。

 硝子瓶の中で光が揺れ、奥では蒸気の音がかすかに響いている。

 セーレンはヨアヒムの背を追いかけながら、並ぶ器具のひとつひとつに目を奪われた。


「師匠、これが魔素圧縮装置ですか?」

「そうだ。力を閉じ込める器だ。ただし、人の心までは閉じ込められん」

 ヨアヒムの言葉に、セーレンは小さく笑う。難しい話ではない。師匠らしい冗談だ。

 ヨアヒムは手袋をはめ、装置のバルブを軽く叩いた。

 白衣の袖が動くたび、金属の光が反射した。


 実験台の端には、黒く焦げた試薬瓶が転がっていた。

「昨日の爆発の跡が、まだ残ってます」

「研究の痕跡は消すな。だが次は別の香りを残せ」

「焦げではなく、成功の匂いを?」

「そうだ」

 ヨアヒムは口元をわずかに緩めた。叱るでもなく、諭すでもない声音だった。


「では、今日も魔素の流れを観測してみるか」

 セーレンは袖をまくり、掌を前に出した。

 淡い光が指先に宿る。空気がわずかに震え、机上の瓶の中で液体が揺れた。

「……できた」

「うむ。感覚は悪くない。ただ、力みすぎだ。雪道を歩くときのように、足を置く場所を選べ」

「寒い土地で育ったので、つい身構えてしまいます」

「ならば心までは凍らせるな」


 師の言葉に、セーレンは思わず笑みを浮かべた。

 ヨアヒムの指導は理屈よりも感覚に近い。

 彼にとって「教える」とは、理論を伝えることではなく、生き方を見せることだった。


 昼休みになると、二人は中庭のベンチで昼食をとった。

 包みを開けると、表面が少し焦げたチーズパンが入っている。

「これ、師匠が焼いたんですか?」

「焼いたのは私だが、焦がしたのは火だ」

「なるほど、炎の責任にするのは科学的ですね」

「減らず口も研究の一環か」

 二人の笑い声が、風に乗って噴水の水音に混ざった。


 食後、セーレンは空を仰いだ。

 灰ではない青い空。遠くで鳥が旋回している。

「この街は、どこを見ても光ってますね」

「光の中では影が見えづらい。だから、研究者は時々目を細めるんだ」

「影も、研究対象ですか?」

「当然だ」

 セーレンはその言葉を聞きながら、師の横顔を盗み見た。

 ヨアヒムの頬にかすかな日焼けの跡がある。白衣の中にも、確かに生活の色があった。


 午後、研究棟の廊下を歩いていると、声が響いた。

「おいヨアヒム、その雛はどこで拾った?」

 男がこちらへ歩いてくる。髭面で、笑うと腹が揺れる。ルドルフだ。


 急な訪問者に、セーレンは思わず咳き込み、試験管を落としそうになった。

「雛ではない。――私の弟子だ」

ヨアヒムは口の端をわずかに上げた。


その声音に混じる誇らしげな響きが、セーレンには不思議と嬉しかった。

自分が誰かの“弟子”でいられるという事実が、胸の奥を温かくした。


「弟子、ねえ……そりゃまた珍しいことだな。だがその様子じゃ、すっかり親鳥だな」

「余計なことを言うな」

「まさに白衣の父ってやつさ」

 ルドルフが笑いながら肩を叩く。ヨアヒムは軽く咳払いをして視線を逸らした。


「君、名前は?」

「セーレン・エルンストです」

「エルンスト? なるほど、例の甥っ子くんではないか」

「研究所では弟子です」

 ルドルフが吹き出した。「そうか、融通の利かねえところまで師匠譲りってわけだ」

ヨアヒムは苦笑した。

「融通が利いてたら、研究なんて続かんさ」

「はは、そう来るか。ほんと、お前は理屈に逃げる天才だな」


「どうだ、一問でも投げてみるか?そのために来たんだろ、ルディ」

からかい混じりの挑発に、旧友がにやりと笑う。

「おう、じゃあおまえの秘蔵っ子を試してみるか。魔素圧の逆転現象とは?」

 セーレンは一呼吸おいて答えた。

「流体抵抗と操作者の集中の乱れによって、エネルギーの流れが反転します。魔素は感情を拾う性質があるので」

「感情を拾う、ね」ルドルフは目を細めた。「詩人だな。だが悪くない」

 ヨアヒムが小さく笑った。「理屈の中に情を見いだす。それが研究の始まりだ」


 セーレンは頬が熱くなるのを感じた。

 褒められることに慣れていない。けれど、嬉しかった。

 ヒンメルランドでは、誰も彼を見ていなかった。

 今は違う。誰かが彼を見て、言葉を返してくれる。


 ルドルフが帰ると、ヨアヒムは机の上を片づけながら呟いた。

 「まったく、昔から口の軽い男だ」

 「でも、“白衣の父”は、少し似合ってましたよ」

 「私はまだそんな歳じゃない」

 「父とそんなに歳は変わらないじゃないですか」

 「……そういう問題じゃない」

 セーレンは笑いながら、手にしていた試験管を丁寧に拭いた。

 「でも、なんだか安心するんです。師匠がそばにいると」

 ヨアヒムは手を止め、彼の横顔を見つめた。

 その目に浮かぶまっすぐな光を前に、わずかに口元が緩む。

 「……調子に乗るな」

 その声は穏やかで、叱るよりも優しかった。

 笑いながらも、彼の胸の奥では何かが微かに疼いていた。

 自分は父にも師にもなれるのだろうか――そんな問いが、ふと影のように差し込んだ。


 夕方、研究所を出ると、街に焼き栗の香りが漂っていた。

 セーレンは屋台の前で足を止めた。

「師匠、栗を買いましょう」

「また食べるのか?」

「はい。冷めても美味しいです」

 ヨアヒムは首を振りながら銅貨を渡した。

 熱い栗を頬張る弟子の横顔を見て、彼は小さく笑った。


 その笑い声が、聖都の夕風に溶けていった。

 灰の大地から遠く離れたこの街で、セーレンの新しい日々が始まっていた。

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