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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第1章 沈黙の地

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第10節 青い刺繍

セーレンが出立してから、三日が経った。

雪はまた降りだした。炉の火だけが家に灯を残していた。


この家から笑い声が消えて、もう何年になるだろう。

いや、正確に言えば、声はまだ残っている――壁の奥、古い木のきしみ、風の音の中に。


それでも、その音に返す言葉を持たなくなって久しい。

カスパルは書庫の整理をしていた。

旅立つ前のセーレンが読み散らかした書物が山になっている。

帝都で使うからと、数冊は持っていったが、それでもこの量だ。


頁をめくるたびに、指先に息子の癖が残っていた。

端を折る、線を引く、余白に走り書きをする――

どの一行にも、あの子の目の光がまだ生きているようだった。


ふと、机の下に古びた箱を見つけた。

木箱の表面には、乾いた埃が薄く積もっている。

それをそっと拭うと、懐かしい手触りが指先に残った。

蓋を開けると、上着が一枚、丁寧にたたまれていた。

幼い日のセーレンが着ていた、灰色の毛織の上着だ。


襟の裏に、小さな刺繍があった。

淡い青の糸で、拙いながらもまっすぐに縫われた文字―― Søren。


カスパルは思わず指でなぞった。

糸は少しほつれていたが、色は褪せていなかった。

まるで時間が、その青だけを避けて通ったかのようだった。


その瞬間、記憶が静かに甦った。


――あの冬の夜、まだ妻が生きていた頃。

雪は深く降り積もり、外は一面の白に包まれていた。


炉の火が小さくはぜ、針の音が部屋に響いていた。

妻は灯のそばで、黙々と針を動かしていた。

青い糸が、彼女の指先で細く震えていた。


「新しい上着に名前を刺しておくわ。あの子、すぐにどこかへ行ってしまうから。」

「また丘まで走ったのか」

「ええ。あの子はこの風を追いかけているのよ。」

彼女は笑っていた。


カスパルは黙って針の先を見つめた。

針が布を貫き、糸を引くたび、灯が小さく揺れた。


「その色、好きなのか?」

「ええ。セーレンの色だから。」

「セーレンの?」

彼女は針を止め、微笑んだ。

「あの子が生まれた日の海を、覚えてる?

 あの日の海は灰じゃなくて、青く見えたの。

 この土地でも、こんな色が生まれるんだって思ったの。」


あの言葉を聞いたとき、胸の奥が静かに熱くなった。

祈りでも、奇跡でもない。

ただ確かに、彼女はこの灰の地に“青”を見ていた。

それが、あの人の信仰だったのだろう。


神に救いを求めるのではなく、生きることそのものを信じる信仰。


カスパルが理屈を求め、ヨアヒムが理を探し、セーレンが理解を志したそのすべての始まりに、

彼女の見る“青”があったのかもしれない。


妻は最後の糸を通し、結び目を作った。

青い文字が、襟の裏に浮かび上がる。

―― Søren。

その小さな刺繍を、カスパルは指でなぞった。

「神よ、この子の行く先を明るく照らしてくれ。」


妻は針を置き、静かに頷いた。

「あなたの祈りは、きっと届くわ。だって、この子は風を恐れないもの。」

彼女の声は、雪の音に溶けていった。


炉の火が青く揺れ、その光が彼女の横顔を包んだ。

穏やかな冬の夜だった。


――そして今。

カスパルは、刺繍の青をもう一度見つめた。

指先がわずかに震えていた。

「……おまえはもう、風の向こうにいるのか。」

独り言のように呟いた声が、炉の中の灰に吸い込まれていく。


外では風が鳴っていた。

あの頃よりも冷たく、乾いた音。


それでも、耳を澄ませばどこかで雪解けの水が流れる音がした。

遠く、土の下で春が息づきはじめている。

カスパルは立ち上がり、上着を丁寧にたたみ直した。

「セーレン……。」

その名を呼ぶ声は、祈りでも嘆きでもなかった。

ただ、風に向かって名を送るような、静かな響きだった。


そして、もう一つの記憶が胸に浮かんだ。

あの子がまだ幼かった頃――。


セーレンが転んで膝をすりむいた。

小さな手で血を見つめ、唇をきゅっと噛んでいた。

泣きそうなのを必死に堪えている。


「痛いけどね、我慢できるよ」

あの子はそう言って、涙を目にいっぱいためながらも、声を震わせずにいた。


「だってね、血のなかでは白血球が戦ってるんだ。

 血小板が怪我のところを塞ごうとしてる。

 だから、痛いけど、僕もがんばるの」


リサが思わずといった具合に吹き出した。

カスパルは気まずくなって目を逸らした。


「セーレンが何でも知りたがるから……」

ぼそりと呟くと、リサは笑いながら膝を拭ってやり、軽く息をついた。

「この子ね、この前はね」

そう言ってこちらを振り返る。

「お腹いっぱいで眠くなったって私が言ったら、血糖値とか、膵臓とか、インシュリンとか……難しい言葉で説明してくれたのよ」

「……僕が悪いのか」

思わず頭をかくと、リサはくすくす笑い、セーレンの頭を撫でた。


彼女は小さな膝に口を寄せ、そっと息を吹きかけた。

「Borte, borte, væk。お母さんのおばあちゃんがよく言っていた言葉よ。“飛んでけ、飛んでけ、どこかへ”って。」


セーレンは不思議そうに目をぱちぱちさせた。

「ほんとに飛んでくの?」

「ええ、ちゃんと。風に乗ってね」

「じゃあ、お母さんの息は薬?」

「そうね。いちばん古くて、いちばん効くお薬」

セーレンは少し考えて、それから、ほっとしたように笑った。


そのときの笑い声が、今も耳の奥に残っている。

灰色の光の中で、三人の笑い声が柔らかく響いていた。


炉の火が静かに燃え続け、外では灰の風が鳴っていた。

カスパルは目を閉じた。


――この土地にも、青はあるのよ。

妻の声が、雪の向こうから微かに返ってくる気がした。

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